「霊界物語」の版間の差分
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霊界物語(れいかいものがたり)は、出口王仁三郎の主著。大本の二大教典の一つ。全81巻あり、大正10年から15年にかけて第72巻までが、昭和8年から9年にかけて残りの9巻が著述された。ただし冊数は83冊ある(#巻数)。
その多くは、王仁三郎自身が筆を走らせたのではなく、王仁三郎は口述するだけで、それを複数の側近が交代で筆録するという方法で著述されている。
物語の内容は、王仁三郎が明治31年の高熊山修業の際に霊界で見聞した出来事である。太古の神代の地球を舞台に、国祖が隠退に至る経緯(第1~4巻)と、国祖隠退後の世界で五六七の世を建設するための三五教の宣伝使たちの活躍(第5巻~)が描かれる。その世界救済の経綸の中心にいるのは神素盞嗚大神(以下「素尊」)であり、霊界物語の主人公は素尊だと言える。しかし実際には素尊はあまり登場しない。それぞれのエピソードごとに主役格の登場人物がおり、ドラマが展開して行く。また、太古の神代の物語だけではなく、王仁三郎の青年時代の自叙伝(第37~38巻)や大正13年の蒙古入りの記録(入蒙記)、神諭や祝詞(どちらも第60巻)、讃美歌(第61~62巻)なども収録されている。
概要
- 著述は基本的に王仁三郎が口述し、30数名の筆録者が書記した。一部、王仁三郎が直接書記した部分もある。→ 「#筆録者」
- 大正10年(1921年)から15年にかけて72巻が、昭和8年(1933年)から9年にかけて9巻(天祥地瑞)が書かれた。
- 王仁三郎は口述開始の時に筆録者の一人の桜井重雄に「三界通覧」という書名にしようかと言っていたが、最終的には「霊界物語」になった[1]。
- 霊界物語の「霊界」とは「霊妙な世界」の意味であり、顕界(現界)・幽界(地獄界)・神界(天界)の三界の総称である[2]。
- 「ただ私は神示のまま、工作して口述するばかりであります」〔第5巻序文#〕
巻数
- 霊界物語は「81巻83冊」ある。第64巻が上・下の2冊に分かれており、他に番外編として「入蒙記」が1冊ある。そのため巻数としては第81巻までしかないが、冊数は83冊ある。
- 霊界物語は全部で120巻になる予定だった。[3] [4] [5]
- 最初は神に、360字詰め原稿用紙400枚を1巻とし、36巻を1集として48集、つまり1728巻口述せよと命じられたが、それでは1年に1集ずつ口述したとしても48年間を要するので、神界にお願いして120巻にしてもらった[6]。
- 第5巻には、全5巻で終わる予定だったと記されている。[7]
- 第8巻には、全12冊で終わる予定だったと記されている。[8]
- 第二次大本事件で投獄されていた王仁三郎は側近に手紙を出し(時期不明)、タイプライターを習っておくようにと命じた。出獄後、霊界物語の残り39巻を口述するつもりだったようである。[9] [10]
- 昭和21年(1946年)2月の愛善苑発足後も、王仁三郎は霊界物語の続きを口述することに熱意を燃やしていた。しかし8月に病気で絶対安静状態となり、続きが口述されることはなかった。王仁三郎昇天後に森良仁が次のように語っている。「愛善苑は若い者たちでやれるようになった、自分は、これからゆつくり霊界物語を口述して、完成したいと仰せになり、構想もお話し下すつていました。暑いとき寒いとき、その時々で場所を変えよう、人の来ないところにしようではないか、それに、二三人で、のんびりやろうなどとも仰言られますので、たのしみにして居りました。しかし、御発病のためお供が出来ずまことに残念でした」[11]。
著述の動機

霊界物語は基本的に、明治31年(1898年)の高熊山修業の際に王仁三郎(当時は上田喜三郎)の霊眼に映じた霊界の出来事を記したものである。
その物語は明治32年7月から33年8月にかけて一度執筆された。その数は500余巻に上る[12]。秘蔵され、2~3人の熱心な信者のみに閲覧を許していた。しかしこれを読んだ一部の者が全部焼き棄ててしまった。その後再び筆を執ろうと思ったが、神界から許されなかった。[13]
大正10年(1921年)旧9月8日(新10月8日)王仁三郎に「明治31年に神より開示しておいた霊界の消息を発表せよ」という神命が下ったため、霊界の物語を発表する決心を定めた。しかしその年の春から[14]目を病み、頭が痛み、執筆が自由に出来なかった。無理に執筆しようとすると、たちまち目と頭が痛くなるという状態であった[15]。そのため神命が降ってもすぐに着手せずにいたところ、17日の夜、寝ている王仁三郎の枕元に教祖(出口直)の神霊が現れ、指示棹で畳を3~4回、馬に鞭打つように叩いた。王仁三郎は直ちに起き上がり「明日から口述に着手しますから安心して下さい」と言うと教祖はニッコリとして姿を隠した。18日の朝に神教があり「汝は執筆しなくてよい。神は汝の口を借りて口述するから、外山豊二・加藤明子・桜井重雄・谷口正治の4人に筆録させよ」と命じられ、その日(新10月18日)から口述・筆録という方法で霊界物語の著述が開始された。[16]
著述の様子


- 200字詰め(1行20字詰め×10行)の原稿用紙が使われた。(写真参照)
- 霊界物語の口述はほとんど、布団の上に横たわったままで行われた。一冊の参考書も用いられずに口述された。筆録者は速記法ではなく、原稿用紙に文字を筆録して行った。清書したらそれを読み上げ、誤りがあれば王仁三郎の指示によって訂正された。口述開始前に王仁三郎は30分ほど、かすかなイビキをかいて寝ることが多かった。やがて眠りから覚めると直ちに口述が開始された。一度口を開くと淀みなく口述し、途中で言い直すことはなかった。[17]
- 口述している場面が寒い地方だと、王仁三郎は夏でも布団をかけ、ときには炬燵まで入れて口述が続けられた。逆に熱い地方だと、冬でも布団を外して、団扇で仰ぎながら口述がされた。また、登場人物が何か苦痛を受けた場面では、王仁三郎も同じように苦痛を受けた。[17]
- 筆録者によると、口述は全く霊感状態でなされたと思われる時もあり、霊感と共に過去の霊的体験を自分で整理しながら口述されている時もあり、また人間的意識のままで口述された時もあった。[17]
- 口述の最中に、筆録者が分からない部分を尋ねると王仁三郎は叱った。〈王仁三郎は「文章がカイコの糸のようにスルスルスルと出てくるので、途中で止められると糸が切れるようになるのんじゃ」と、叱る理由を説明した〉。[18]
- 後には「口述台」が作られて、王仁三郎はその上で口述をした。[17]
- 天祥地瑞(第73~81巻)の口述はそれまでとは変わり、王仁三郎は斎戒沐浴して、羽織袴を着用し、静座の姿勢で口述された。[19]
著述期間
王仁三郎は大正10年(1921年)10月18日(旧9月18日)から口述を開始し、同12年5月までの20ヶ月間は毎月、月の大半を費やして口述を行い、第63巻までの口述を終えた[20]。この63巻までの平均口述日数は約4.8日で、最短では2日間で口述を終えている(第46巻)。(全巻の平均口述日数もやはり約4.8日である。→「#口述日数」)
同12年7月以降はペースが落ち、蒙古入りと帰国後の収監(同13年2月から11月まで)などもあって口述しない期間が続き、同15年7月までに11巻(現在の巻番号だと第64巻上下から第72巻までと入蒙記を入れた11冊)を終えた。
約9年後の昭和8年(1933年)10月4日(旧8月15日)から天祥地瑞の口述が開始され、翌9年8月15日(旧7月6日)までに第73~81巻の9巻が口述された。
霊界物語の著述に費やされた歳月はざっくり言って、大正10年(1921年)10月から大正15年(1926年)7月までの4年9ヶ月間と、昭和8年(1933年)10月から昭和9年(1934年)8月までの10ヶ月間の、合計5年7ヶ月間である。これは足掛けの歳月であり、日数の合計は393日間になる(→「#口述日数」)。
→詳細は「#各巻の口述日と初版発行日」を見よ
- 通巻第567章(第14巻第17章「一寸一服」#)は大正11年(1922年)3月25日(旧2月27日)に口述した。この第14巻は旧2月25日・26日・27日の三日間で口述した(日付の一桁目が5・6・7になっている)。
- 大正11年(1922年)11月11日(旧9月23日)11時に通巻第1111章(第41巻第7章「忍術使」#)の口述を終えている。(同じ日に第41巻第7章から第12章まで計6章を口述している)
- 第46巻第14章「打合せ」#の末尾に「本日午前九時より午後十一時まで十四時間に原稿紙八百一枚を口述し終れり。これ今日までのレコード也」と記されている。1時間に約57枚分、口述したことになる。
輯巻篇章
霊界物語は12巻を一組として「輯」と呼び、1巻ごとに十二支の名前が与えられている。たとえば第1巻は「霊主体従 子の巻」と呼ばれる。
各巻は数個の「篇」に分かれ、その篇はさらに数個の「章」に分かれている。
霊界物語は全7輯、全81巻(全83冊)、全369篇、全2108章によって構成されている。
→詳細は「霊界物語の輯巻篇章」
輯 | 巻 | 輯題 | 冊数 |
---|---|---|---|
1 | 第1~12巻 | 霊主体従(れいしゅたいじゅう) | 12冊 |
2 | 第13~24巻 | 如意宝珠(にょいほっしゅ) | 12冊 |
3 | 第25~36巻 | 海洋万里(かいようばんり) | 12冊 |
4 | 第37~48巻 | 舎身活躍(しゃしんかつやく) | 12冊 |
5 | 第49~60巻 | 真善美愛(しんぜんびあい) | 12冊 |
6 | 第61~72巻 | 山河草木(さんかそうもく) | 14冊(注) |
7 | 第73~81巻 | 天祥地瑞(てんしょうちずい) | 9冊 |
合計 | 83冊 |
(注)山河草木に巻外の特別篇として「入蒙記」が入っており、また第64巻が上・下の2冊あるので14冊になる。
筆録者
霊界物語の筆録者は出口王仁三郎本人を含めて計38人いる。
→詳細は「霊界物語の筆録者」
口述地
霊界物語を口述した場所は、主に次の場所がある。全部で22ヶ所、12地域ある。
→詳細は「霊界物語の口述地」
第1~72巻
- 綾部・松雲閣(祥雲閣)
- 綾部・竜宮館
- 綾部・錦水亭
- 綾部・月光閣
- 亀岡・瑞祥閣
- 鳥取県・岩井温泉(晃陽館・駒屋)
- 静岡県・湯ケ島温泉(安藤春夫方)
- 鳥取県・皆生温泉(浜屋旅館)
- 伊予(山口恒彦邸)
- 丹後由良(秋田別荘)
- 天の橋立(なかや旅館掬翠荘)
第73~81巻(天祥地瑞)
初版
第1巻の初版は大正10年(1921年)12月30日に発行された。以後、ひと月に約1巻のペースで発行が進められた。
→詳細は「霊界物語の口述日と初版発行日」
当初は、現在の「巻」「篇」「章」が、「篇」「章」「節」と呼ばれていた。また「輯」の概念がなかった。第25巻の初版(大正12年5月25日発行)から現在のような「輯」「巻」「篇」「章」の構造へ改められた。
→詳細は「霊界物語の輯巻篇章」
各巻とも版を重ね、一番多い第1巻は十版まで重版された[21]。
→詳細は「霊界物語の戦前発行各版の発行日と校正日」
校正
霊界物語は短期間で急ピッチで著述と出版が行われ、王仁三郎による校正なしで出版されて行った。
昭和9年から10年にかけて、王仁三郎による霊界物語の校正が行われた。刊本にペン書きで校正したその原本を「聖師御校正本」(略して校正本)と呼ぶ。
→詳細は「聖師御校正本」
諸本
霊界物語は今日までに数種類の刊本が出版されている。
現在入手可能な印刷本としては
の3種ある。
また、インターネット上の電子版としては、飯塚弘明が運営する「霊界物語ネット」がある。
→詳細は「霊界物語の諸本」
物語の内容
あらすじ
→「霊界物語のあらすじ」
物語の年代
基本的には35万年前の物語だが、数十万年前とか、数百万年前、6~7千万年前という記述もある。
また、仕組(経綸)としては「三千年の仕組」なので、3千年前の物語だとも言える。
- 35万年前
- 30万年前
- 「三十余万年前の太古の事」〔第29巻端書#〕
- 数十万年前
- 「数百万年以前」〔第6巻総説#〕
- 「これは今から六七千万年前の物語で」(編者の弁)〔第2巻凡例#〕
- 「大宇宙の完成するまでに五十六億万年を要したる時より以後の事」〔第6巻第1章「宇宙太元」#〕
ただし次の4箇所は、年代や舞台が異なる。
- 第37~38巻
- 第64巻上下
- 入蒙記
- 第73~81巻(天祥地瑞)
時間経過
霊界物語には、ストーリー上の年月日の情報はあまり記されていない。そのため、あるエピソードからあるエピソードまで、どのくらいの時間が経っているのか、よく分からない。判明している時間経過の情報のいくつかを以下に記す。
- 第10巻の黄泉比良坂の戦い →「黄泉比良坂の戦い#時間経過」
- 第7巻で日の出神が大台ケ原の魔神を放逐したエピソードから、第23巻で常楠・木山彦ら2組の夫婦が生き別れた息子4人と再会するエピソードまでが、22年間。
- 第22巻で黒姫一行が玉探しのために錦の宮を旅立ってから(第22巻第4章「玉探志」#)、第24巻で小糸姫(黄竜姫)が竜宮島の女王になるまで(第24巻第4章「一島の女王」#)が2年間。[22]
- シロの島の住民チャンキー・モンキーが、小糸姫を舟に乗せて竜宮島に渡る途中、暴風に遭って難破してから(第24巻第4章「一島の女王」#)、ニュージーランドの手前の岩山で、高姫・蜈蚣姫らと出会うまで(第24巻第9章「神助の船」#)が3年間。[23]
方角
霊界物語は現代の地名が使われている場合が多々あるが、方角を示す言葉を調べると、現代の地理とは位置関係が異なっている場合がある。その例を以下に記す。
- ニュージーランドの近辺[24]で小糸姫を救助して竜宮島(オーストラリア)へ向かう五十子姫たちの舟は「西南(にしみなみ)」へ進んでいるが[25]、現代のニュージーランドから見てオーストラリアは西または西北の方角にあり、決して南ではない。[26]
数の単位
- 里:1里は200間(約364m)とも、36町(約3927m)とも書かれている。 →「里」
紹介文
霊界物語を宣伝・紹介するに当たり次のような文言が使われている。
本書は神愛に燃ゆる出口瑞月聖師が天授の胎蔵経を口述せられたるものにして、未だ何人によりても説かれざりし宇宙真相の開示である。
予言あり、警告あり、教訓あり、天文、地文、政治、経済、外交、教育、文芸、宗教、歴史、国際問題凡て人生に必須なる諸問題に対して神明の解決を説示せらる。蓋し暗黒なる全人類の運命に黎明の光と復活の歓びとを与ふる驚くべき人類必読の神書である。大本の一端を知られたる方々は、更に進んで本書によりて神意の蘊奥を究められ度い。本書は救世の大使命を帯びたる出口王仁三郎聖師が神示のまにまに口述されたる無二の神書である。故に諸聖賢哲のものせる所謂聖書経典の類とは自ら撰を異にするものである。説くところ現界、神界、幽界の事象は更なり宗教、政治、経済、哲学、科学等々、森羅万象人事百般悉くが本書によつて闡明されて居る。
既刊七十二巻未刊四十八巻実に百二十巻を以て完結する質に於て量に於て古今無比万世に輝く珠玉の宝典である。敢て一読をすすむ。大本主義の最高峰を示す大聖典
本書は神愛に燃ゆる出口王仁三郎聖師が天授の胎蔵経を口述せられたるものにして、未だ何人によつても説かれなかつた宇宙真相の開示である。予言あり、警告あり、天文、地文、政治、経済、外交、教育、文芸、宗教、歴史、国際問題等凡て人生に必須なる諸問題に対して神明の解決を与へたる万人必読の神書である。大本の一端を知られたる方は更に進んで本書に依りて神意の蘊奥を究められたい。昭和20年以降
全81巻83冊という他に類例を見ない長大な教典であり、宇宙の剖判から50世紀の未来に至る大宇宙の実相が物語の形式で開示されています。
霊界物語はみろくの大神の啓示のまにまに出口王仁三郎聖師が口述したもので、大正10年から昭和初期にかけて天声社から発刊されました。(以下省略)霊界物語の入門書・参考書
- 飯塚弘明『あらすじで読む霊界物語』令和元年(2019年)、文芸社
- 飯塚弘明『超訳霊界物語 ──出口王仁三郎の[世界を言向け和す]指南書』平成25年(2013年)、太陽出版
- 飯塚弘明『超訳霊界物語2 ──出口王仁三郎の「身魂磨き」実践書 一人旅するスサノオの宣伝使たち』平成26年(2014年)、太陽出版
- 木庭次守『霊界物語ガイドブック』平成22年(2010年)、八幡書店
関連項目
脚注
- ↑ 木庭次守・編『霊界物語大辞典 総索引その1』p42:「出口聖師は口述開始の時に筆録者の一人の桜井重雄氏に「三界通覧」としょうかといわれていたが、「霊界物語」とさだめられた」
- ↑ 『水鏡』所収「霊界と神霊界」
- ↑ 第1巻附記#:「霊界物語は総計壱百二十巻をもつて完成する予定になつてをります」:この附記は初版(大正10年12月刊)には記されていない。第六版(大正14年2月刊)にはある。
- ↑ 第73巻序文#:「予定の百二十巻を」
- ↑ 機関誌・機関紙や霊界物語巻末に掲載されている霊界物語の広告にも「全百二十巻」と記されている。(たとえば『真如能光』大正14年(1925年)11月15日号裏表紙の広告)
- ↑ 第37巻序#(大正11年10月著)
- ↑ 第5巻序文#(大正11年1月著):「この霊界物語は、全部五巻にて述べ終る予定でありました。しかしなるべく細かくやつてくれとの筆録者の希望でありますから、第四巻あたりからややその方針をかへて、なるべく詳細に物語ることとしました。 それがため予定の第五巻にて、神界、幽界の物語を終ることは、到底出来なくなつてきました」
- ↑ 第8巻序文#(大正11年2月著):「総じてこの霊界物語は、口述の最初に当り五百六十七節にて完成する考へを以て、一冊を五十節に刻み全十二冊の予定のところ、到底是にてはその一部分をも講了すべからざるを覚り、本巻よりは一冊五十章組の規定を破り、口の車の行き突きばつたりに歩を進むる事と致しました」
- ↑ 王仁三郎の側近・三浦玖仁子の回想記『花いろいろ』p41-42:「ある日のことです。聖師さまからお便りを通し、「わしはタイプが必要だからタイプを習っておいてくれ」とのお指図を頂戴したのです。私は、さっそく藪内家(編注・この当時、三浦は京都の藪内家に住んでいた)から市内のYMCAへタイプを習いに通いました。あとで伺ったことですが、聖師さまは─刑務所から出てから、あと四十巻ほど物語を出す─ご予定だったのです。その内容は─刑務所の中のことを面白く風刺して書く─はずであったのです。そのためにタイプを勉強しておくようにお命じになったのですが、結局、そのご計画も、ご無理がたたり実現するにいたりませんでした」。このエピソードの直後に昭和15年(1940年)2月29日の第一審判決のことが記されているので、昭和11~14年の間のエピソードか?
- ↑ 和文タイプライターは大正4年(1915年)に商品化されている。
- ↑ 『愛善苑』第32号(昭和23年8月1日発行)p29、座談会「夏の夜がたり」の中での森良仁の発言。
- ↑ 第5巻序文#:「五百有余巻」。和綴じの冊子で500余だと思われる。第1巻第9章「雑草の原野」#には、霊界で見た光景だが「五百六十七」冊と記されている。
- ↑ 第5巻序文#による。
- ↑ 王仁三郎は大正10年2月12日から6月17日まで投獄されていたが、春ということは、監獄(拘置所)の中で、ということになる。
- ↑ 第56巻序文#には「非常に健康を害し、日夜病気に苦み悩み到底一時間と坐つて居ることの出来ない状態でありました」と記されている。
- ↑ 第73巻序文#には「顧みれば大正十年十月十八日(旧暦九月十八日)天津神の神示と開祖神霊の請求により」と記されている。
- ↑ 以下の位置に戻る: 17.0 17.1 17.2 17.3 『大本七十年史 上巻』「物語の発表#」
- ↑ 『巨人出口王仁三郎』183頁
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「『天祥地瑞』の口述#」
- ↑ ただし第1巻は第12章までは機関誌『神霊界』大正10年2月に掲載された「回顧録」を元に書き直したものである。
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「発表の影響#」
- ↑ 第24巻第4章「一島の女王」#:クロンバー(黒姫)のセリフ「大切なる玉の紛失せし為め其所在を探ねむと、竜宮の乙姫様の生宮として今年で殆ど満二年、残る隈なく探せども今に所在は分らず」
- ↑ 第24巻第9章「神助の船」#:チャンキーのセリフ「三年前に鬼熊別の御娘小糸姫様を御送り申して、竜宮の一つ島へ渡る途中暴風に出会ひ、船を打割り、辛うじて此島に駆けあがり」
- ↑ 第24巻第4章「一島の女王」#:船頭のセリフ「大方ニユージランドの近辺だと思ひます」
- ↑ 第24巻第4章「一島の女王」#:「風に送られ西南(にしみなみ) 竜宮島を指して行く」
- ↑ そもそもシロの島(セイロン島)から逃げ出した小糸姫の舟がわずか一日程度でニュージーランドの近辺に到着して遭難したり、顕恩郷から舟で流された五十子姫らがニュージーランドの近辺で小糸姫を救助したりするのは(ニュージーランドに着く前に竜宮島に着くのではないか?)、現代の地理とは位置関係が異なる。
- ↑ 各巻の意
- ↑ 第6巻
- ↑ 大正14年(1925年)6月の初版には霊界物語の広告は無い。
- ↑ http://www.omt.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=101