回顧録

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
『神霊界』大正10年2月号の「回顧録」

回顧録(かいころく)とは、出口王仁三郎第一次大本事件の前に執筆した青年時代の自叙伝で、機関誌『神霊界』に大正10年(1921年)1月から3月まで3号に亘って連載された。

1月1日号

見出し「高熊山」と「初陣」の2篇が掲載された。

どちらも最初は機関誌『このみち』第三号(大正5年6月10日刊)に、それぞれ「実説 本心─高熊山」「初陣」という見出しで、「梅田信之」(当時王仁三郎が最も信頼していた幹部)の名前で発表された[1]

その後『神霊界』大正10年(1921年)1月1日号の89~98頁に「高熊山」が著者名「王仁」で、続けて98~103頁に「初陣」が著者名「瑞月」で掲載された。

出口王仁三郎著作集 第五巻』には、『このみち』を底本にした「実説 本心─高熊山」(60~74頁)と「初陣」(75~84頁)が収録されている。文章を比較してみると『このみち』掲載のものと『神霊界』掲載のものは、ほぼ同じである(ただし『著作集』では現代仮名遣いに修正する等の編集がなされている)。

「高熊山」と「初陣」に記されたエピソードは、新たな文章となって霊界物語第37巻に収録された。「高熊山」のエピソードは第2章葱節#第6章手料理#第11章松の嵐#に収録され、「初陣」は第13章煙の都#第14章夜の山路#第15章盲目鳥#に収録されている。

  • 神霊界』大正10年(1921年)1月1日号「回顧録 高熊山#」 - 霊界物語ネット
  • 神霊界』大正10年(1921年)1月1日号「回顧録 初陣#」 - 霊界物語ネット

2月1日号・3月1日号

「瑞月」の名で、2月1日号は59~73頁に、3月1日号は72~73頁に発表された。見出しの数だと計13篇ある。

これは後に書き直されて霊界物語第1巻の「発端」から第12章となって収録された。『神霊界』掲載の見出しは、基本的にはそのまま霊界物語の章題になっている。

神霊界 霊界物語
発端
一 霊山修行 第一章 霊山修業
二 業の意義 第二章 業の意義
三 現界の苦行 第三章 現界の苦行
四 現実的苦行 第四章 現実的苦行
五 霊界の修行 第五章 霊界の修業
六 八街の光景 第六章 八衢の光景
七 幽庁の審判 第七章 幽庁の審判
八 女神の出現 第八章 女神の出現
九 雑草の原野 第九章 雑草の原野
一〇 二段目の水獄 第一〇章 二段目の水獄
一一 大幣の霊験 第一一章 大幣の霊験
(見出し無し)[2] 第一二章 顕幽一致

出口王仁三郎著作集 第一巻』317~350頁に、この「回顧録」の13篇が収録されている。

改変

発端~第12章を霊界物語に収録するにあたり、王仁三郎は当時の大本幹部の激しい攻撃に遭って、『神霊界』掲載の文章から大幅な改変を余儀なくされた。

霊界物語筆録者の一人である桜井八洲雄(桜井重雄)は、機関誌『神の国』大正14年(1925年)5月20日号に「霊界物語発刊当時を顧みて」と題して次のように書いている[3]

『霊界物語』の第一篇[4]がいよいよ発刊されるといふことになって、発端の校正も済んで既に紙型にもとった後の事です。私は用があって瑞月先生のところへ伺ひますと、浅野和三郎浅野正恭今井梅軒谷口雅春の諸氏が先生を取り巻いて何か話して居られるところでした。先生は『私はどうでもいいのや、皆のよいやうにして呉れたらいいのや』と言われて非常に当惑されてゐられたやうにお見うけしました。そして私が這入って行きますと『これはもうやめて呉れんか』と言われて渡されたのが、即ち『霊界物語』の第一篇の発端として既に紙型までとって印刷にかかってゐる校正刷なのです。すると浅野和三郎氏は、それを手にとって鉛筆で文章を直したり、弧線を引いて?をつけたりしました。

こうして王仁三郎は文章の大幅な改変をせざるを得なくなった。

大本神諭に不敬な箇所があるということが弾圧の理由となったが、その大本神諭に代わる新教典として霊界物語が作成された。しかし当時の大本幹部は開祖中心の宗教観のままであり、その視点から見た場合、回顧録(特に「序=発端」)の記述は問題だらけであった。そのため新教典に収録するにあたり王仁三郎に対して、無難な文章になるよう書き直しを要求することになった。

削除や訂正など改変された文章は主に次のような箇所である。

  • 大本の幹部や信者を批判した箇所。【例】〈大本の信者の大部分は真正に神諭の了解が出来て居ないから、体的経綸の神業者ヨハネ(注・出口直)を主とし、霊的経綸の神業者(注・王仁三郎)を従として居る人が多い。否な全部体主霊従の信仰に堕落して居るのである〉は削除。
  • 出口直より王仁三郎を重視しているような箇所。(上の例を参照)
  • 当局を批判的に発言した箇所や、不敬・過激だと思われかねない箇所。【例】〈官憲の圧迫〉を〈其筋の誤解〉に、〈革命〉を〈改造〉に、〈皇徳〉を〈神徳〉に、〈天津日嗣天皇〉を〈天津日の神〉に変更。

特に「序=発端」は全体の半分以上が書き直しとなった。弾圧まで浅野和三郎ら幹部が大本に関する著書を多数発行していたが、それによって神意がねじ曲げられていることを王仁三郎は強く批判した。

(略)故に大本の歴史に関する著述は差支えないが、苟くも教義に関する著書は、神諭の解つた役員信者から根本的に改変して貰はぬと、何時迄も神様は公然《あつぱれ》と現はれ玉ふ事が出来ぬので在ります。  今迄の著書と雖も、全部誤つて居るのでは無い。唯教義的意味のある箇所に限つて人意が混合して居るだけである。然し乍ら、仮令《たとへ》一小部分でも間違つて居つては実に大変である。(略)何程立派な神が憑《かか》つて、書を著はしたり、口で説いても根本の経綸は解つた神はない。皆近頃現はれる神の託宣や予言は全部守護神が大本の神諭を探り、似たり八合の事を行《や》つて居るもの斗りである。
出典: 「回顧録」序より(この箇所は全て削除された)

やがてこれらの幹部は大本から離教して行き、ようやく王仁三郎が大本の実権を握ることになった。

【参考文献】

  • 出口王仁三郎著作集 第一巻』編者・村上重良による「解説」491~492頁
  • 神の国』平成2年(1990年)10月号、6~8頁掲載、窪田英治著「解説/愛善主義の主体は誰か」(回顧録の解説)
  • 『「回顧録」の真偽照合〔研修資料〕』平成10年(1998年)6月7日、愛善苑・編集、あいぜん出版・発行(回顧録と霊界物語を対照させ改変箇所を明示)

脚注

  1. 出口王仁三郎著作集 第五巻』「解題」457~458頁
  2. 3月1日号に掲載されたのはこれだけ。「回顧録(二)」とあるだけで特に見出しは無い。
  3. この桜井八洲雄の文章は愛善苑の機関誌『神の国』平成2年(1990年)10月号6頁に転載されているものから引用した。
  4. 当初は「巻」ではなく「篇」と呼ばれていた。