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** 五代教主:[[出口直子]](なおこ)1947年~。直美の長女。夫は[[出口信一]]。 | ** 五代教主:[[出口直子]](なおこ)1947年~。直美の長女。夫は[[出口信一]]。 | ||
* 戦前の大本は非公認宗教で法人格は無かったが、戦後は宗教法人として活動している。→「[[宗教法人大本]]」 | * 戦前の大本は非公認宗教で法人格は無かったが、戦後は宗教法人として活動している。→「[[宗教法人大本]]」 | ||
** 令和4年度宗教年鑑<ref>令和4年度版59頁 「[https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/shukyo_nenkan/index.html 宗教年鑑]」(文化庁)</ref>によると、「信者数」<ref>信者の定義はそれぞれの宗教法人によって異なる。大本の場合は何を信者と定義しているのかは不明だが、活動をしていない幽霊信者を除いたアクティブな信者の数はおそらくこの数分の1である。</ref>は165,338人、「教師数」<ref>宣伝使の人数か?</ref>は4,089人である。<ref>ちなみに令和4年(2022年)の25年前の平成9年(1997年)版では信者数173,513人、教師数6,168人である。</ref> | |||
=== 信者数 === | |||
以下に記す「信者(信徒)」の定義はいろいろであり、一定ではない。 | |||
* 大正初年の信者数は千人に満たなかった。<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c3111|事件のあらまし}}」:「大正初年における大本の信者数は干人にみたない綾部の一地方教団にすぎなかった」</ref> <ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c2332|内地宣教の展開}}」:〈大本の信者数は、一九二〇(大正九)年初期のころは「信徒十万」といわれていたが、じっさいには、それよりも下廻っていた。しかし大本をある程度理解していた人々は予想以上に多数あり、したがって、これらの理解者が背景となった大本の教勢は、意外に大きく評価されたのである。〉</ref> | |||
* 当局側の資料によると、大正10年(1921年)2月、[[第一次大本事件]]当時の信者数は、1万人前後である。<ref>[[杭迫軍二]](第二次事件当時の京都府警察部特高課長)著『[[白日の下に]]』185頁〈第一次事件の現場責任者であった[[高芝羆]]氏の直話では、当時の実勢を一万前後と算している。〉、{{ndldl|12282488/1/96}}</ref> | |||
* 昭和10年(1935年)12月、[[第二次大本事件]]当時の信者数は1万7168人。この場合の信者とは〈大神奉斎と祖霊の復祭をし、そのうえ教団護持の更始会費を納入していた信者〉のこと。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6331|信仰の護持}}」548頁:〈大本の場合その信者数は、事件前においてはおよそ二〇万とか三〇万といわれていた。しかし当時の記録によれば、大神奉斎と祖霊の復祭をし、そのうえ教団護持の更始会費を納入していた信者は一万七一六八人にすぎない。これを世帯単位に換算するとさらに少ない数となるのである〉</ref> | |||
* 当局側の資料によると、第二次事件当時の信者数は約40万人である。<ref>杭迫軍二『白日の下に』269頁〈当時いろいろな数字から推算したところでは、信徒と目せられるもの約四十万とするのがほぼ一致した概数であった。〉、{{ndldl|12282488/1/130}}</ref> | |||
* 令和4年度宗教年鑑<ref>令和4年度版59頁 「[https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/shukyo_nenkan/index.html 宗教年鑑]」(文化庁)</ref>によると、「信者数」<ref>信者の定義はそれぞれの宗教法人によって異なる。大本の場合は何を信者と定義しているのかは不明だが、活動をしていない幽霊信者を除いたアクティブな信者の数はおそらくこの数分の1である。</ref>は165,338人、「教師数」<ref>宣伝使の人数か?</ref>は4,089人である。<ref>ちなみに令和4年(2022年)の25年前の平成9年(1997年)版では信者数173,513人、教師数6,168人である。</ref> | |||
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