第一次大本事件

第一次大本事件(だいいちじおおもとじけん)とは、大正10年に政府が大本を弾圧した事件。当局は出口王仁三郎ら3人を不敬罪等で検挙し、本宮山神殿を不当な命令で破却した。王仁三郎に懲役5年の判決が出たが、昭和2年に免訴となり、法的に無罪となって事件は終結した。
昭和10年に二度目の弾圧が起きてから「第一次大本事件」と呼ばれるようになったが、それまでは単に「大本事件(大本教事件)」とか「大正十年事件」と呼ばれていた。
特徴
- 第一次世界大戦やスペイン風邪など大きな社会不安が渦巻く中、終末予言(大本神諭)や霊能力(鎮魂帰神)というオカルト的魅力で信者を急増させて行った大本に対し、既存の体制を守ろうとする政治家・宗教家や治安当局が危機感を募らせ、大本弾圧へ動いた。
- 検挙されたのは王仁三郎、浅野和三郎、吉田祐定のわずか3人に過ぎなかったが、当局は武装した警官200人を動員するという物騒さで検挙・家宅捜索に乗り込んだ。それは大本が暴力による政府転覆をたくらんでおり信者が武器で抵抗してくると曲解したからである。実際には誰も抵抗せず、銃器は何も発見されず、当局の一人相撲に終わった。
- 弾圧は幹部3人の逮捕・証拠品の押収だけでなく、神殿や墓地の解体・改築の強制という形でも行われた。当局は、完成したばかりの本宮山神殿を取り壊すよう命じた。また、開祖の奥都城が桃山御陵に似ているという口実で改築を命じた。これは信仰の中心となる施設を破壊することで大本に打撃を加えようとしたのである。→「本宮山神殿#取毀」「奥都城#改築」
- 出口王仁三郎は不敬罪で懲役5年の判決を受けた。これは思想犯罪としては極刑である[1]。だが、大審院で審理中に大正天皇の崩御に伴う大赦令によって免訴となり法的に無罪となった。
- 第二次大本事件では当局により大本の活動は一切禁止された。しかし第一次大本事件では検挙後も大本の活動は進展している。マスコミ対策も異なり、第二次では当局は検挙直後から新聞に大々的な報道をさせて大本のイメージダウンを謀ったが、第一次では検挙直後は報道をさせず3ヶ月後の予審決定時から新聞報道を解禁した。
- それまで田舎の小さな教団に過ぎなかった大本が新聞報道によってその存在が一気に全国に知られ、見物人や参拝者が増加した[2]。大本の勢力を削ごうという当局の思惑とは異なり、弾圧によって大本の知名度は上がり、ますます勢力が拡大するきっかけになった。[3]
- 弾圧後、大本神諭を独自に解釈する一部の幹部が大本を離教した。それにより王仁三郎が教団の主導権を握ることが出来るようになった。また王仁三郎は大本神諭に代わる新たな教典として霊界物語の著述を開始した。この事件は大本教団にとっての「立替え立直し」となった。
略史
事件の背景
─大本の爆発的成長と社会不安─
大正初期、大本は丹波の綾部の小さな地方教団に過ぎなかったが、第一次世界大戦の変動期において急成長を遂げた。大正6年(1917年)に機関誌『神霊界』を発刊し「大正維新」をスローガンに大々的な宣伝活動を展開した結果、大正8年に2万5千人と言われた信者が1年間で30万人に達したと言われるほど信者が急増した[5]。
この時期、日本社会は激動の中にあった。第一次世界大戦(大正3~7年)による大戦景気(同4~9年)と戦後恐慌(同9年)、物価騰貴に伴う米騒動(同7年)、労働運動や社会主義思想の台頭[6]、スペイン風邪の大流行(同7~10年)などにより、深刻な社会不安が生じていた。原敬内閣(同7~10年)や警察当局は、こうした人心の動揺を背景に、既存の宗教や教育が力を失う中で、大本が急速に勢力を拡大していることを非常に危険視していた。
特に大本が説く「立替え立直し」という現状打破の思想や、知識人・軍人層が続々と入信して行く状況は、政府にとって国家転覆の陰謀や危険思想の温床に見えた。
事件への序曲
─当局による調査と最初の警告─
検挙に先立ち、当局は大正8年(1919年)から二度に亘って大規模な調査を行っている。
【第一回調査(大正8年2月)】京都府警察部長の藤沼庄平の指示により、捜査官が綾部で出口王仁三郎や浅野和三郎らに尋問した。調査の焦点は、「皇道大本は宗教か」「世の立替えとは何か」「綾部が帝都になるとは本当か」といった点にあった。このとき王仁三郎らは、日本と世界の戦争(日米戦争)の予言や、私有財産制の廃止、貨幣制度の廃止を伴う理想社会の到来などを陳述した。
【第二回調査(大正8年3月)】一回目の調査から三週間後に当局は王仁三郎と浅野を京都府庁に召喚し、二回目の尋問を行った。王仁三郎は前回とは一転して、筆先の解釈の誤りを認め、過激な宣伝内容を改める姿勢を見せた。これは一部の教団幹部による独断的な筆先解釈を是正する意図もあったようである。
二度の調査により、警察当局は大正8年5月に最初の警告を発した。その内容は、社会の根本的変革を説く出版物や講演の禁止、鎮魂帰神法への注意など、大本の活動を厳しく制限するものだった。
検挙への動向と社会的包囲網
大正9年(1920年)に入ると、当局の監視はさらに強まった。内務省や警察は、大本を単なる宗教ではなく、一種の社会運動とみなし、その中心部を破壊することで教団を解体させようと画策していた。
この時期、言論界や他宗教からも大本への激しい攻撃が起こった。心理学者の中村古峡は大本を心理学的に分析して「迷信」と断じ、加藤確治という人物は「大本は内乱を企てている」とする事実無根の告発文を当局に提出した。さらに、貴族院の公正会(院内団体)や、右翼団体の大正赤心団(政友会の院外団)も大本を危険視し、政府に厳重な取り締まりを要求した。
大正9年8月、内務省は『大本神諭(火之巻)』を不敬および過激思想の容疑で発売禁止とし、各府県に厳重な取り締まりを訓令した。そして大正10年1月、検事総長の平沼騏一郎によって最終的な検挙命令が下された。
事件の勃発

─一斉検挙と家宅捜索─
大正10年(1921年)2月12日(旧1月5日)未明、武装警官200人が動員され、綾部・亀岡・京都など20数カ所に対して一斉に家宅捜索が行われた。
【幹部の逮捕】出口王仁三郎は大阪梅田の大正日日新聞社で社長として執務中に、浅野和三郎と吉田祐定は綾部の自宅でそれぞれ逮捕され、京都監獄[7]の未決監に収容された。
【大規模な捜索】警察は綾部で筆先の原本や写真、往復書簡、さらには神体の一部や日本刀、多額の現金などを押収した。捜索は厳重を極め、畳を剥がし、床下まで点検が行われた。特に黄金閣の地下室などは、世間に噂が広まっていた「生き埋め」や「紙幣偽造」の証拠を探すために徹底的に調査された。しかし怪しいものは何も発見されなかった。
この検挙は、綾部からの電話や電報が遮断される中で極秘かつ電撃的に行われ、まるで戒厳令下のような異様な光景となった。
罪状と予審決定
─不敬罪の強引な適用─
逮捕された3人は、不敬罪および新聞紙法違反で起訴された。大正10年5月の予審決定[8]では、大本の教義が他宗教の剽窃であると断定され、さらに機関誌『神霊界』に掲載された大本神諭の中の特定の語句が「天皇の尊厳を冒涜するもの」とされた。
具体的には、大本神諭にある「大将」や「上から」といった言葉が天皇を指すと解釈され、それらが現代の政治や軍隊を批判していることが不敬にあたると断じられた。しかし、これらの解釈は警察当局による一方的な推断であり、大本側は「大将とは神界の存在を指すもので、現界の天皇を指すものではない」と強く反論した。
また、この時期に発表された「大本教改良の意見」は、王仁三郎が当局の威圧や教団の崩壊を避けるために、心ならずも筆先の焼却や改称を認めたものだったが、これは教団内外に大きな衝撃と混乱をもたらした。
社会的制裁と施設の破壊

事件後、大本に対する社会的制裁は苛烈を極めた。
【メディアの攻撃】大本検挙は報道が禁じられた。5月の予審決定と共に記事掲載禁止が解除されると、全国の新聞は「謎の大本教」「淫祠邪教」「国家転覆の陰謀団」といった捏造と中傷に満ちた記事を連日報じた。
【信者への迫害】軍人信者は軍隊から一掃され、官公吏も退職や左遷を余儀なくされた。地方の信者たちも、親族からの勘当、村八分、登校拒否に追い込まれるなど、厳しい社会的差別に晒された。
【本宮山神殿の破壊】大正10年10月、当局は明治初期の古い法令を持ち出し、綾部の本宮山に建立されていた壮麗な神殿の破壊を命じた。武装した兵士や警官が監視する中、神殿は土足で踏みにじられ、解体された(→「本宮山神殿#取毀」)。この破壊の光景は、信者たちにとって耐え難い悲痛な出来事となった。さらに、開祖・出口なおの墓も「桃山御陵に似ている」という理由で改修を強制された。
裁判の経過と事件の結末
第一審で王仁三郎には不敬罪として懲役5年、浅野和三郎には懲役10ヶ月という厳しい判決が下された。大本側は即日控訴し、裁判は泥沼化した。第二審も一審通りの判決だった。
大審院で上告審が継続していた大正15年(1926年)に大正天皇が崩御。それに伴う昭和2年(1927年)の大赦令により、王仁三郎らは免訴となり、6年以上に及んだ法廷闘争は形式的には終結を迎えた。
しかし、この事件は大本に深い傷跡を残した。教団内では、現実的な立替え説を信じていた浅野派の離脱や、組織の再編が行われた。その一方で、この苦難の時期に王仁三郎は新たな教典となる『霊界物語』の口述を開始しており、教団は沈滞を余儀なくされつつも、次なる発展への基盤を模索することになった。
略年表

〔「大本年表」を元に作成した〕
【大正10年(1921年)辛酉】
- 2月12日(旧1月5日)(土曜):出口王仁三郎、浅野和三郎、吉田祐定(『神霊界』発行兼編集人)の3名が検挙される。
- 12日未明、検事総長・平沼騏一郎の指示を受けた京都府警察部長・藤沼庄平は、予審判事・検事らと共に、武装警官200人を動員して大本を襲った。綾部・亀岡・京都・八木など20数ヶ所が、不敬罪及び新聞紙法違反の容疑で家宅捜査され、筆先の全部と御神体の一部が押収された。[9]
- 浅野と吉田は綾部の自宅で検挙された。王仁三郎は朝9時半頃、大阪梅田の大正日日新聞社で検挙された。王仁三郎と浅野の容疑は不敬罪及び新聞紙法違反、吉田は新聞紙法違反。
- 3人は直ちに京都監獄未決監に収監された。(吉田は4月19日に保釈出獄、王仁三郎と浅野は6月17日に責付出獄した)
- 検挙当初から当局により報道が規制され、新聞報道は行われなかった[10]。
- この日は紀元節(2月11日)の翌日になるが、後の新聞報道によると藤沼庄平(京都府警察部長)は、紀元節を遠慮して一日延ばしたと語っている[11]。
- 4月19日:吉田が保釈出獄。
- 5月10日:予審が終結する。新聞記事差止解禁。各紙が大本事件を大々的に報じる。
- 5月11日:予審決定[14]が発表される(公判に付すという決定)。
- 6月17日:王仁三郎と浅野が責付出獄。126日間の獄中生活が終わる。
- 6月25日:京都府警察部長・藤沼庄平から、開祖奥都城を今月中に改築するよう命じられる。
- 6月26日:開祖奥都城改修工事の奉告祭。28日に着工、7月23日に工事終了。
- 7月27日:神示によって本宮山神殿に、御三体の大神様仮鎮座の祭典執行。
- 9月16日:一審公判が京都地裁で始まる。
- 求刑は、王仁三郎と浅野に対して不敬罪で懲役5年。吉田を含め3被告に対して新聞紙法違反でそれぞれ禁錮2ヶ月・罰金50円。弁護側はいずれも無罪を主張した。[15]
- 10月5日:一審判決。王仁三郎は不敬罪で懲役5年、浅野は不敬罪で懲役10ヶ月、吉田は新聞紙法違反で禁錮3ヶ月・罰金150円(編集人、発行人、印刷人としてそれぞれ禁錮1ヶ月・罰金50円)の有罪判決が下された。直ちに控訴する。[15]
- 10月11日:王仁三郎は京都府庁で本宮山神殿取毀命令を受ける。
- 10月14日:大改革発表。王仁三郎と二代教主は隠退し、直日が三代教主に就任。「皇道大本」を「大本」に改称。
- 10月17日[16]:開祖の神霊が王仁三郎に霊界の消息の発表を厳しく督促。
- 10月18日(旧9月18日):霊界物語口述開始。
- 10月20日:本宮山神殿取毀工事開始。27日に工事完了。
【大正11年(1922年)】
- 6月21日:二審公判が大阪控訴院で始まる。
【大正13年(1924年)】
- 2月13日:王仁三郎は入蒙の途に就く。
- 6月21日:パインタラの法難。
- 7月17日:17日付で大阪控訴院が王仁三郎の責付を取り消す。
- 7月21日:二審判決。王仁三郎は一審通り懲役5年。直ちに上告。
- 7月25日:王仁三郎は門司に到着。
- 7月27日:王仁三郎は大阪で再び入監。
- 11月1日(旧10月5日):王仁三郎は保釈され帰綾。98日間の獄中生活が終わる。
【大正14年(1925年)】
- 7月10日:大審院は前判決を破棄して事実審理と決定。
【昭和2年(1927年)】
関連項目
脚注
- ↑ 刑法第73~76条(昭和22年に削除)の規定では、天皇・皇族の身体に危害を加えた場合は死刑または無期懲役となるが、それ以外の不敬行為については懲役5年が最高刑である。刑法 (公布時) - ウィキソース
- ↑ 新聞報道が解禁されたのは大正10年5月10日だが、「大本年表」の5月23日の項には〈昨今、大本見物人二、三〇〇〇人を算す〉と記されている。
- ↑ 王仁三郎は検挙の際に「大本はいじればいじるほど大きくなる」と猥談交じりで言い放ったという〔『巨人出口王仁三郎』天声社版、320頁〕。また王仁三郎は昭和19年に「(大本は)叩かるれば叩かれる程大きくなる」とも語っている〔『新月の光』0943「大本は近衛さんの反対」〕。
- ↑ 文章生成AI「NotebookLM」に第三編の概要を作らせ加筆訂正した。
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「事件のあらまし#」:〈一九一九(大正八)年に二万五千人であった信者が一年間で三〇万人と号するにいたったといい〉:ただしこれは弾圧を行った当局側の数字であって(大本を危険視するため勢力を誇大に見せている)、実際の信者数はこれよりはるかに少なかったようである。
- ↑ 大正6年(1917年)にロシア革命が起きてソ連邦が誕生している。
- ↑ 大正11年11月「京都刑務所」に改称。
- ↑ 予審決定とは、予審における判決のようなもの。
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「事件のあらまし#」
- ↑ 新聞紙法第19条に基づく新聞記事差止。『大本七十年史 下巻』「「邪教」との断定#」末尾の記述を参照。
- ↑ 『東京日日新聞』(現・毎日新聞)昭和10年12月9日 附録#
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「予審決定#」
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「記事解禁と批判#」
- ↑ 予審決定とは予審の判決のようなもの。
- ↑ 15.0 15.1 『大本七十年史 上巻』「第一審#」
- ↑ 七十年史などでは16日になっている。「霊界物語#著述の動機」の脚注参照。
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「責付出獄#」、「入蒙の目的#」、「再入監#」
- ↑ 開窟とは、事件が起きて大本は真っ暗がりになっていたが、事件が解決し岩戸が開けた、世が明けたということを意味している。そのお礼の祭典。〔『大本七十年史 上巻』「大審院の判決#」〕〔『大本史料集成3』「地裁公判速記録(2)#」〕