数運

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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数運(すううん)とは、出口王仁三郎と社会の事象との間に示された数字の一致による神秘現象。

第二次大本事件で獄中にいた王仁三郎に対して、昭和13年(1938)2月18日、中国の瀋陽道院で次のような壇訓が下った。「数運は天運と相(あい)合(がっ)す。尋仁(じんじん)は化世(かせい)の大責(たいせき)を負う者、必ず数運と天運の輪転に循(したが)い、以て世間諸劫(しょごう)の障(さわり)を受(う)く也」[1]。おそらく「数運」という言葉はこの壇訓に基づくものだと思われる。これ以前に王仁三郎が「数運」という言葉を用いている例は見当たらない。

実例

よく知られている数運には次のものがある。このような数字の一致は、王仁三郎と社会の支配者との間に共謀関係が無い以上、起きることが難しい。

  • 次の4つは、いずれも大本で起きた出来事と似たような現象が、ちょうど6年後の同じ日に、日本で起きている。
    • 昭和9年(1934年)7月22日、軍人会館昭和神聖会が発足。そのちょうど6年後の昭和15年(1940年)7月22日に第二次近衛内閣が組閣された。近衛首相の元で大政翼賛会が結成されるなど全体主義体制が進展して行くが、昭和神聖会の活動と類似している。[2]
    • 昭和10年(1935年)12月8日、第二次大本事件が勃発。王仁三郎は松江の「宍道湖」の近くにある島根別院で検挙される。そのちょうど6年後の昭和16年(1941年)12月8日、日本海軍はハワイの「真珠湾」で米艦隊を攻撃する。
    • 昭和11年(1936年)4月18日、当局の圧力により綾部と亀岡の大本の聖地が強制的に売却され、所有権が綾部町・亀岡町に移る。その後、両聖地を始め全国の大本の施設がことごとく破壊されて行く。そのちょうど6年後の昭和17年(1942年)4月18日、米陸軍の爆撃機16機が日本本土を初空襲した。それ以降、全国が空襲で破壊されて行く。
    • 昭和20年(1945年)9月8日、大審院で判決が下り(上告棄却)、第二次大本事件は終結する。そのちょうど6年後の昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和条約が調印され、戦争が終結する。
  • 昭和3年(1928年)3月3日(旧2月12日)に王仁三郎は満56歳7ヶ月を迎えた[3]。瑞の御魂に因む3が3つ並ぶ日に、ミロクに因む56歳7ヶ月を迎えたわけだが、大正15年(1926年)に大正天皇が崩御しなかったら、1928年が昭和3年にならない。
  • 第二次大本事件で王仁三郎が投獄され自由を失っていたのは、昭和10年(1935年)12月8日から昭和17年(1942年)8月7日までの6年8ヶ月、日数だと2435日[4]。日本が連合軍の占領下にあったのは、GHQが横浜に設置された昭和20年(1945年)8月28日[5]から、サンフランシスコ講和条約が発効[6]する前日の昭和27年(1952年)4月27日までの6年8ヶ月、日数だと2435日[7]。どちらも日数が同じである。
  • 第二次大本事件は昭和10年(1935年)12月8日に始まり、昭和20年(1945年)9月8日の大審院判決で終結した。太平洋戦争は6年後の同じ日の昭和16年(1941年)12月8日に始まり、昭和26年(1951年)9月8日にサンフランシスコ講和条約が調印されて終結した。どちらも9年9ヶ月(ただし日数だと閏年の関係で1日違い、第二次大本事件は3563日[8]、太平洋戦争は3562日[9])。
  • 第二次大本事件で投獄されていた王仁三郎は、昭和17年(1942年)8月7日に保釈出所し亀岡の自宅に帰宅した。すると王仁三郎は、自分が出た日から日本は負け始めだと告げた。ちょうどその日ガダルカナル島に米軍が上陸し、戦局が悪化する転換点となった。

126

第36巻第15章の余白歌に「千二百六十日の間月汚す六百六十六匹のけもの」という歌がある。聖書に1260という数字に関する預言があり、それを前提とした歌である。

「それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。「立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人に与えられたからである。彼らは、四十二か月の間、この聖なる都を踏みにじるであろう。わたしは、自分の二人の証人に粗布をまとわせ、千二百六十日の間、預言させよう」〔新共同訳 ヨハネ黙示録 第11章第1~3節〕。

王仁三郎の入蒙と前後して1260日あるいは126日という数字が現れている。

  • 大正10年(1921年)2月12日、第一次大本事件で王仁三郎は投獄されてから、同年6月17日に責付出獄するまで、獄中にいた日数は126日。
  • 王仁三郎が蒙古に足を踏み入れた大正13年(1924年)3月3日[10]から、パインタラで捕まり、奉天の日本総領事館に護送された7月6日まで、つまり王仁三郎が蒙古の地に足跡を印していた期間が126日。
  • 王仁三郎が奉天に到着した2月15日から[11]パインタラに到着する前日の6月19日まで、つまり王仁三郎が蒙古で救世主の再来と仰がれ奇蹟を現していた期間が126日。
  • 王仁三郎が6月21日にパインタラで捕まり、11月1日に大阪刑務所北区支所未決監から保釈されて出獄する前日まで、獄中にいた日数は126日[12]
  • 第一次大本事件で最初に投獄された大正10年(1921年)2月12日から、再び収監[13]される前日の大正13年(1924年)7月26日までが、1260日。

〔『出口なお王仁三郎の予言・確言』p241-245による〕

愛善苑に現れた数運

出口和明は、自身らが中心となって設立した宗教団体「愛善苑」に、王仁三郎の数運が現れていると主張している。[14]

  • いづとみづの会」が設立された昭和55年(1980年)3月9日から、「愛善苑発足報告祭」が開かれた昭和61年(1986年)11月7日(毎月7日がいづとみづの会の月次祭のため11月7日に愛善苑発足報告祭を開いただけで意図的なものではない)まで6年8ヶ月、2435日。王仁三郎が獄中に繋がれていたことと、日本が外国に占領されていたことと、自分たちが教団執行部と戦っていたことがリンクする、という主張である。
  • 王仁三郎が保釈出所した昭和17年(1942年)8月7日から、第二次大本事件が解決した昭和20年(1945年)9月8日の大審院判決まで3年1ヶ月1日。昭和61年(1986年)11月7日の愛善苑発足から平成元年(1989年)12月8日に開いた「一二・八記念祭典」まで同じく3年1ヶ月1日。愛善苑の発足が第三次大本事件の終結であるという主張である。
  • いづとみづの会」が設立された昭和55年(1980年)3月9日から、第三次大本事件が終結した平成元年(1989年)12月8日の「一二・八記念祭典」まで9年9ヶ月1日。閏年の関係で第二次大本事件・太平洋戦争より1日だけ多い。ただし日数だと3562日で、太平洋戦争と一致する。(1日のズレは「いづとみづの会」から「愛善苑」に脱皮できない仲間がいるからではないかと出口和明は解している)

参考文献

外部リンク

脚注

  1. 出口和明出口なお王仁三郎の予言・確言』p240
  2. 出口和明の著書では大政翼賛会の発会式が軍人会館で開かれたと書かれてあるが、当時の新聞報道によると首相官邸で開かれている。詳細は「軍人会館#大政翼賛会の発会式」を見よ。
  3. 王仁三郎は明治4年(1871年)旧7月12日生まれなので、旧暦で計算した場合、満56歳7ヶ月になる。
  4. 平年が4年x365日=1460日、閏年が2年(1936年、1940年)x366日=732日、12月8日~12月31日は24日、1月1日~8月7日(31+28+31+30+31+30+31+7)は219日、計2435日。
  5. 9月15日にGHQが東京に移転した。
  6. 発効は4月28日。
  7. 平年が5年x365日=1825日、閏年が1年(1948年)x366日=366日、8月28日~12月31日(4+30+31+30+31)は126日、1月1日~4月27日(1952年は閏年、31+29+31+27)は118日、計2435日。
  8. 平年が6年x365日=2190日、閏年が3年(1936年、1940年、1944年)x366日=1098日、12月8日~12月31日は24日、1月1日~9月8日(31+28+31+30+31+30+31+31+8)は251日、計3563日。
  9. 平年が7年x365日=2555日、閏年が2年(1944年、1948年)x366日=732日、12月8日~12月31日は24日、1月1日~9月8日(31+28+31+30+31+30+31+31+8)は251日、計3562日。
  10. 入蒙記第10章奉天出発#:「愈々三月三日(旧正月廿八日)午後四時から王樹棠の自動車二台に日出雄、岡崎、守高、王元祺の四名は分乗して奉天を出発する事となつた(略)翌四日午前七時開原の城内に着いた」
  11. 大正13年(1924年)は閏年のため2月は29日まである。
  12. 7月21日に奉天から護送され27日に収監されるまでの船中・車中の7日間は獄中ではないので除外する。
  13. 7月27日に大阪刑務所北区支所未決監に収監された。
  14. 予言と神話』p285-290