「出口王仁三郎」の版間の差分
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== 別名・雅号 == | == 別名・雅号 == | ||
王仁三郎は多数の別名や雅号、筆名を持つ。 | |||
* [[瑞霊真如]](ずいれいしんにょ): | * [[瑞霊真如]](ずいれいしんにょ): | ||
* [[変性女子]](へんじょうにょし): | * [[変性女子]](へんじょうにょし): | ||
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* [[王仁さん]](わにさん):あだ名。 | * [[王仁さん]](わにさん):あだ名。 | ||
* 管長さん:明治末期から大正初期にかけて王仁三郎は信者から「管長さん」と呼ばれていた。肩書きではなく通称。明治41年(1908年)頃、王仁三郎は[[御嶽教]]の「副管長」を務めていたことがあったが、そのため大本の信者から「管長さん」と呼ばれるようになった<ref>[[浅野和三郎]]『[[出廬]]』72頁</ref>。開祖の筆先でも「管長」と呼ばれている場合がある<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c2121|大本教の教規と信条}}」:〈管長が坤の金神で〉(これは大正元年旧11月21日の筆先だが、大本神諭には入っていない)、〈このころから筆先では、開祖は「大出口の大守」とよばれてくる。そのために役員・信者らは、開祖のことを「おおかみさま」とよび、王仁三郎のことを「管長さん」とよぶようになった〉</ref>。<ref>『[[大地の母]]』みいづ舎版、第9巻、363頁:明治44年(1911年)〈八月二十七日、王仁三郎が大日本修斎会の会長を辞任(略)王仁三郎は大日本修斎会を超越した教主的立場で教団を指導することになる。この頃から、会員たちは王仁三郎を「管長さん」と呼び慣らわした。〉</ref> | * 管長さん:明治末期から大正初期にかけて王仁三郎は信者から「管長さん」と呼ばれていた。肩書きではなく通称。明治41年(1908年)頃、王仁三郎は[[御嶽教]]の「副管長」を務めていたことがあったが、そのため大本の信者から「管長さん」と呼ばれるようになった<ref>[[浅野和三郎]]『[[出廬]]』72頁</ref>。開祖の筆先でも「管長」と呼ばれている場合がある<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c2121|大本教の教規と信条}}」:〈管長が坤の金神で〉(これは大正元年旧11月21日の筆先だが、大本神諭には入っていない)、〈このころから筆先では、開祖は「大出口の大守」とよばれてくる。そのために役員・信者らは、開祖のことを「おおかみさま」とよび、王仁三郎のことを「管長さん」とよぶようになった〉</ref>。<ref>『[[大地の母]]』みいづ舎版、第9巻、363頁:明治44年(1911年)〈八月二十七日、王仁三郎が大日本修斎会の会長を辞任(略)王仁三郎は大日本修斎会を超越した教主的立場で教団を指導することになる。この頃から、会員たちは王仁三郎を「管長さん」と呼び慣らわした。〉</ref> | ||
* [[天爵道人]](てんしゃくどうじん?):『[[神霊界]]』誌の大正7年発行の複数の号で、この筆名での文章が掲載されている。 | |||
== 家族 == | == 家族 == | ||
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最盛期は髪が腰の辺りまであった。その長い髪を頭頂で折り畳み、ヘアーネットをかぶっていた。 | 最盛期は髪が腰の辺りまであった。その長い髪を頭頂で折り畳み、ヘアーネットをかぶっていた。 | ||
いつ頃からヘアーネットをかぶり出したのかは分からないが、ヘアーネットをかぶっている写真は、昭和に入ってからである。 | |||
二度にわたる[[大本事件]]で投獄された際には、短髪にさせられた。 | 二度にわたる[[大本事件]]で投獄された際には、短髪にさせられた。 | ||