タダアイ事件

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』

タダアイ事件(ただあいじけん)とは、出口王仁三郎が小学生の時に教師とトラブルになり退学処分になった出来事である。自叙伝「故郷の二十八年」の末尾に記されている。

概要

喜三郎(王仁三郎の幼名)は穴太寺の中にある偕行小学校に通っていた。

明治16年(1883年)3月[1](12歳くらい)教師の吉田有年が修身の教科書を生徒に読み聞かせている時に、大岡越前守忠相(タダスケ)の名を「タダアイ」と読んだ。喜三郎はすぐに椅子から立って読み間違いを指摘したが、吉田は聞き入れなかった。喜三郎は一歩も譲らず「タダスケ」だと主張すると、吉田は立腹して「ちょっと来い」と喜三郎をせっかんするため手首を引っ張った。喜三郎は隣室で教鞭を執っていた校長(出口直道)を呼んだ。校長は事情を聞くと「タダスケが正しい」と吉田に注意した。

吉田は恥を掻かされたことで喜三郎を逆恨みし、以後は喜三郎を虐待したり暴言を吐くようになった。

喜三郎は憤怒し、下校途中で青杉垣に隠れて吉田が帰宅するのを待ち受けた。そして動物の糞を竹の先に付けたものを、吉田の腰の辺りを目がけて突き刺し、家に逃げ帰った。

トラブルを聞いた校長は学務委員(現在の教育委員)の斎藤弥兵衛と協議して、吉田を免職し、喜三郎も退学にした。そして数日後、吉田の代わりに喜三郎を代用教員として雇い、月給2円を支給することにした。

王仁三郎はこの回顧の最後に〈吉田先生の王仁に対する虐待的行為も、王仁の為には大恩師で在った事を感謝せずには居られないのである〉と結んでいる。

脚注

  1. 年月は「大本年表」による