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大本
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* 大本は戦前は非公認宗教であったが、戦後は法人格を得て「宗教法人大本」として活動している。
** 令和4年度宗教年鑑<ref>令和4年度版59頁 「[https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/shukyo_nenkan/index.html 宗教年鑑]」(文化庁)</ref>によると、「信者数」<ref>信者の定義はそれぞれの宗教法人によって異なる。大本の場合は何を信者と定義しているのかは不明だが、活動をしていない幽霊信者を除いたアクティブな信者の数はおそらくこの数分の1である。</ref>は165,338人、「教師数」<ref>宣伝使の人数か?</ref>は4,089人である。<ref>ちなみに令和4年(2022年)の25年前の平成9年(1997年)版では信者数173,513人、教師数6,168人である。</ref>
== 略史 ==
'''【開教】'''
丹波の山間にある[[綾部]]という町で[[出口直]]という五十代半ばの女性に「[[艮の金神]]」と称する神が懸かったことが大本の始まりである。
直の夫・[[政五郎]]は腕のいい大工だったが、酒好きで放漫家だったため生活は苦しかった。直が48歳の時、政五郎は仕事先で負った怪我が原因で病床の身となってしまう。直が饅頭売りや紙屑・ボロ買いなどをして生活を支えた。政五郎は2年後、直が50歳の時に死んでしまう。直は貧しい生活の中8人の子供を育て上げた([[出口直#家族]])。
明治25年(1892年)旧正月、直(55歳)は突然、神懸かりとなる。「[[艮の金神]]」と称する神は「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」と叫んだ。この世の「[[立替立直し]]」が始まり、「[[大峠]]」(世界の破局)の後に「[[五六七の世]]」(地上天国)が建設されるという予言と警告を直に伝え出した。
最初は口頭だったが、後に半紙に筆で、自動書記により神示が書かれるようになった。これを「[[筆先]]」と呼ぶ。筆先は平仮名と漢数字だけで書かれたが、直は文盲なので読めない。やがて信奉者が集まり出すが、筆先に籠められた神意を理解する能力を持つ者はいなかった。
'''【直と王仁三郎との出会い】'''
直に「この神を判ける方は東から来られる」という神示が降った。三女の[[久子]]は綾部より東の方にある[[八木]]という町に茶店を出して、神が予言した人が現れるのを待っていた。すると三年後に上田喜三郎(後の[[出口王仁三郎]])という霊能力を持った青年が現れた。
喜三郎は[[穴太]](あなお)という農村(現・亀岡市曽我部町穴太)で生まれた。明治31年(1898年)3月、26歳の時に神様に導かれ、自宅近くの[[高熊山]]に登り一週間の[[高熊山修業|霊的修業]]を行った。その時、霊界を探検して、宇宙剖判からはるか未来まで様々なことを見聞きした(その出来事を後に書物に著わしたのが『[[霊界物語]]』である)。また、霊能力を身に付け、自分の救世の使命に目覚めた。修業後、独自に宗教活動を行っていたが、神様から「西北を指して行け。お前の来るのを待っている人がいる」と命じられ、穴太を旅立った。途中で入った茶店で[[久子]]から、母・[[出口直]]のことを聞き、[[綾部]]に出向いた。こうして直と喜三郎は出会い、合流する。
'''【王仁三郎受難の十年間】'''
翌明治32年(1899年)に喜三郎は綾部に移住して大本での活動を開始した。翌33年には直の五女・[[澄子]]と結婚し、名実ともに出口直の後継者となる。しかしそれ以前から出口直の周りに集まっていた信者たちは、新参者で若年者の喜三郎を排斥した。喜三郎は彼らから何かと嫌がらせをされ、時には命を狙われた。
明治33年から34年にかけて「[[冠島開き]]」「[[沓島開き]]」「[[元伊勢水の御用]]」「[[出雲火の御用]]」などの御神業が神示によって次々と行われる。これはその地に押し籠められていた[[艮の金神]](国祖・国常立尊)や[[坤の金神]](国祖の妻神・豊雲野尊)の神霊を表に出すというような意義を持った神業であった。
喜三郎は明治36年頃から「王仁三郎」と名乗り出す([[出口王仁三郎#「王仁三郎」の名の由来|名の由来]])。王仁三郎は古い信者たちから迫害されるということもあり、39年から41年にかけて綾部を離れ外で活動した。京都の[[皇典講究所]](神職養成機関)で学び、[[建勲神社]](織田信長を祭る神社)の神職として働いたり、教派神道の[[御嶽教]]の幹部職員として働いたりして、宗教経営のノウハウを学んだ。綾部に帰ったのは明治41年(1908年)12月である。王仁三郎はかつて神様より「十年間は研究・修業の時期であり、艱難辛苦が続く」ということを言われていた。明治31年に[[高熊山修業]]をしてからちょうど10年が経つ41年頃から、ようやく王仁三郎に従う弟子が現れるようになった。
'''【大本の拡大】'''
[[綾部]]に帰った[[王仁三郎]]は、明治42年(1909年)から少しずつ大本の活動を活性化させて行った。機関誌を発行したり、土地を買収して神苑整備を進めて行く。宣教活動も行い、組織も拡げて行く。しかし大正初年の信者数は千人に満たない<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c3111|事件のあらまし}}」:「大正初年における大本の信者数は干人にみたない綾部の一地方教団にすぎなかった」</ref>、田舎の小さな宗教団体に過ぎなかった。
大正5年(1916年)横須賀の海軍機関学校の英語教官・[[浅野和三郎]]が大本に入信し綾部に移住した。その頃より軍人の入信者が増え、大本の社会的影響が大きくなって行った。王仁三郎は浅野に機関誌『[[神霊界]]』の主筆兼編集長を任せた。これは大本初の本格的な機関誌である。王仁三郎は同誌上において「[[大本神諭]]」(平仮名と漢数字で書かれた「筆先」に王仁三郎が漢字を当てはめたもの)を発表し、また政治・経済の方策を示した「[[大正維新]]」論を発表した。
大本の勢力が拡大して行くさなか、大正7年(1918年)11月に開祖・[[出口直]]は昇天した(81歳)。
この当時は第一次世界大戦(1914~1918年)やスペイン風邪の大流行(1918~1920年)によって世界中で数千万人の人が亡くなり<ref>当時の世界人口18~19億人。第一次世界大戦の死者約1千万人。スペイン風邪の死者5千万人~1億人。</ref>、社会は終末的様相を帯びていた時代である。世界の立替立直し(破壊と再生)を叫ぶ大本の主張は人々の心に染みこみ、入信者が増加した。治安当局は大本の影響力が拡大することを警戒し、検挙することを決定した。これが[[第一次大本事件]]である。
'''【第一次大本事件】'''
大正10年(1921年)2月12日(紀元節の翌日)、[[出口王仁三郎]]・[[浅野和三郎]]・[[吉田祐定]](機関誌発行人)の3人が検挙され、綾部の神苑は大勢の警官隊に取り囲まれ家宅捜索を受けた。容疑は不敬罪と新聞紙法違反である。当局は王仁三郎の居室に春画を置いて記者に写真を撮らせ、王仁三郎のイメージダウンを図った。新聞各社は挙って大本を妖教・国賊・淫祠邪教とバッシングした。
裁判は一審(同年10月)では王仁三郎に不敬罪で懲役5年が言い渡された。二審(大正13年)は一審通り有罪。その後、大正天皇の崩御によって大赦令が発せられ、第三審(昭和2年)では免訴という判決が出た。これによって足かけ7年に亘る[[第一次大本事件]]は終結した。
'''【大本のグローバル化】'''
弾圧によって大本に失望した一部の信者は大本から離教した。[[浅野和三郎]]も大本から出て行った。それまでの大本は開祖の[[大本神諭]]を中心にした信仰であり、「[[立替立直し]]」という、終末や革命を想起させる過激な信仰であった。王仁三郎はこれを改めるため、新しい教典『[[霊界物語]]』(全81巻)を作った。「[[立替立直し]]」は「[[天の岩戸開き]]」に言い換えられた。また、外国を邪悪視する排外的傾向を改めて、「[[人類愛善]]」を旗印に、グローバルな活動を展開した。
大正13年(1924年)には、政治的に混沌としていた蒙古に宗教的王国を建設しようという理想を掲げて蒙古へ行き、千人ほどの馬賊を従えて行軍した([[入蒙]])。11年から12年にかけては[[道院]]や[[バハイ教]]、[[普天教]]など外国の宗教と次々と提携し、14年には北京で「[[世界宗教連合会]]」を設立する。また、外郭団体「[[人類愛善会]]」を設立し、大本信者以外の参画を図る。欧州など外国にも[[宣伝使]]を派遣して、大本をグローバル宗教へと変化させようとした。
昭和3年(1928年)3月3日、王仁三郎は満56歳7ヶ月を迎え、「[[みろく大祭]]」を開いて「[[弥勒下生]]」を宣言する<ref>簡単に言うと王仁三郎が救世主として降臨したという宣言。</ref>。これ以降、王仁三郎は全国各地を[[巡教]]に駆け巡った。
'''【非常時日本】'''
昭和6年(1931年)9月8日、綾部の[[本宮山]]山頂に碑石三基を建立する。その十日後に満州事変が勃発。欧米諸国の介入により、社会は非常時体制へと傾いて行く。同年10月、王仁三郎は[[昭和青年会]]を設立した。この会は青年層に限らず、壮年・老年でも会員になることが出来る行動団体である。「[[防空思想]]」の普及運動や、農村救済・食料増産の「[[挙国更生運動]]」など、時局に応じた救国運動を展開した。
昭和9年(1934年)7月22日、王仁三郎は東京・九段の軍人会館で「[[昭和神聖会]]」の発会式を開いた。これは大本を超えて各界の憂国の人士を糾合した一大救国団体である。王仁三郎が「統管」に就任し、国家主義活動家の[[内田良平]]と、娘婿の[[出口宇知麿]]が副統管に就任した。政界・財界・軍部・学者・芸術家など各界から3千人余りが発会式に集まり、内務大臣や衆院議長などが祝辞を述べた。昭和神聖会の活動は大きく広まり、1年後には賛同者800万人を集めるほどになった。社会の支配層にまで浸透する王仁三郎というカリスマに脅威を感じた当局は再び鉄鎚を下すことにした。王仁三郎が武力蜂起して国家権力を奪い取り、自分が天皇に成り代わろうという陰謀を企んでいると疑ったのである。
'''【第二次大本事件】'''
昭和10年(1935年)12月8日、当局は二度目の弾圧を行った。[[第二次大本事件]]である。一回目の弾圧とは規模も威力も全く異なり、[[王仁三郎]]・[[澄子]]を始め987人もが検挙され、取り調べを受けた者は3千人を超えた<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c6212|出口聖師と幹部らの検挙}}」:「昭和一一年末までの検挙総数九八七人(内務省警保局『昭和11年中ニ於ケル社会運動ノ状況』)とあるところからすれば、その後も引きつづいて、一時的検束をうけたり取調べをうけたりした者は、全国で三〇〇〇人をこすものと考えられる」</ref>。さらに当局は綾部・亀岡の聖地を始め全国の大本の施設を悉く破却した。また大本の出版物や神具・御神体なども信者宅から集め焼却した。これらは法的根拠のない違法な処分である。当局は違法なことをしてまで大本を地上から抹殺しようとしたのであった。
裁判は、61人が起訴された<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c6244|起訴と起訴猶予}}」、「{{obc|B195402c6311|未決の生活}}」:「出口すみは六一人の被告人中ただ一人の女性として」</ref>。当局の不法な拷問によって命を落としたり精神を病んでしまう者も多数おり、大審院(現在の最高裁)判決の時には被告が3分の2の40人になっていた<ref>16人が死亡。4人が召集により公訴棄却。『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c6522|大審院の判決}}」</ref>。
一審(昭和15年)は王仁三郎は不敬罪と治安維持法違反で無期懲役、二審(昭和17年)は不敬罪で懲役5年の判決が出た。同年8月7日、王仁三郎は6年8ヶ月ぶりに保釈出所し亀岡に帰った。
昭和19年12月末から王仁三郎は楽焼茶碗を作り出す。その数は1年3ヶ月ほどの間に3千個以上に上った<ref>正確な数は判明していない。</ref>。鮮やかに彩色されたその茶碗は王仁三郎の昇天後に陶芸界から評価されるようになり、「[[耀盌]]」と呼ばれるようになる。
戦争が終わり、GHQが日本を統治するようになると不敬罪などの思想犯罪は廃止するよう指令が出される。9月8日に出された大審院判決は上告棄却となり、二審判決が確定する。しかし10月17日の大赦令<ref>勅令第579号〔[https://dl.ndl.go.jp/pid/2962134/1/1 昭和20年10月17日の官報号外]〕で大赦令が発せられ、その第1条の1で刑法第74条(不敬罪)の罪が赦免されている。</ref>によって罪が赦免され、無罪となった。その年の12月8日、王仁三郎は綾部で[[第二次大本事件解決奉告祭]]を開き、弾圧で組織が壊滅した大本を「[[愛善苑]]」という名前で新生させることが発表された。
'''【大本の新生】'''
昭和21年(1946年)2月7日、[[愛善苑]]が発足する。王仁三郎は苑主となるが、委員会制にして、活動は弟子たちに任せた。王仁三郎は破壊された聖地の再建に取り組み、工事の陣頭指揮に立った。しかし同年8月、病気で倒れ、以後病床の身になってしまう。そして昭和23年1月19日、昇天した(76歳)。
妻の[[出口澄子]]が二代苑主となって王仁三郎の後を継いだ。澄子は[[世界連邦運動]]や[[原水爆禁止運動]]に取り組んだ。
教団名は昭和24年に「[[大本愛善苑]]」に改称され、昭和27年4月1日からは元の「大本」に改称することが決まった。その前日の3月31日に澄子は昇天する。長女の[[出口直日]]が大本の三代教主に就任した。
== 略年表 ==