大本の歴史
この項目はまだ書きかけです。内容が不十分だったり不明瞭だったりします。
大本の歴史(おおもとのれきし)では、大本の歴史について記す。
正史
大本の正史とは大本教団公認の歴史である。当然ながらそれが全てではないし、それが必ずしも正しいわけではない。教団の公式見解が正史である。
- 大本の正史を記した本格的な書物としては『大本七十年史』がある。1960年代に著わされた本で、その時点での正史が記されている。上下2巻で2千頁超の大著であり、21世紀の現在でもこれ以上の歴史書は出版されていない。絶版なので古書でしか入手できない。
- もう少し手軽な本としては出口京太郎著『巨人出口王仁三郎』がある。こちらも60年代に著わされた本であり、約500頁に収められている。大本七十年史には記されていない余談的なエピソードも多数記されている。こちらは現在でも天声社から発売されている。
- 『開祖伝#』:昭和24年(1949年)に発行された正史。
- 『聖師伝#』:昭和28年(1953年)に発行された正史。
- 歴史:大本教団の公式サイトだが、なぜか情報量が少なすぎる[1]。
- 大本神業:第三次大本事件によって大本教団から追放された大本信徒連合会の公式サイト。情報量は多い。
私史
私的な見解が加わった歴史。
略史
出口直と王仁三郎を軸として見た大本60年間の略史。(基本的には#正史を元に作成している)
草創期
【開教】
丹波の山間にある綾部という町で出口直という五十代半ばの女性に「艮の金神」と称する神が懸かったことが大本の始まりである。
直の夫・政五郎は腕のいい大工だったが、酒好きで放漫家だったため生活は苦しかった。直が48歳の時、政五郎は仕事先で負った怪我が原因で病床の身となってしまう。直が饅頭売りや紙屑・ボロ買いなどをして生活を支えた。政五郎は2年後、直が50歳の時に死んでしまう。直は貧しい生活の中8人の子供を育て上げた(出口直#家族)。
明治25年(1892年)旧正月、直(55歳)は突然、神懸かりとなる。「艮の金神」と称する神は「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」と叫んだ。この世の「立替立直し」が始まり、「大峠」(世界の破局)の後に「五六七の世」(地上天国)が建設されるという予言と警告を直に伝え出した。
最初は口頭だったが、後に半紙に筆で、自動書記により神示が書かれるようになった。これを「筆先」と呼ぶ。筆先は平仮名と漢数字だけで書かれたが、直は文盲なので読めない。やがて信奉者が集まり出すが、筆先に籠められた神意を理解する能力を持つ者はいなかった。
【直と王仁三郎との出会い】
直に「この神を判ける方は東から来られる」という神示が降った。三女の久子は綾部より東の方にある八木という町に茶店を出して、神が予言した人が現れるのを待っていた。すると三年後に上田喜三郎(後の出口王仁三郎)という霊能力を持った青年が現れた。
喜三郎は穴太(あなお)という農村(現・亀岡市曽我部町穴太)で生まれた。明治31年(1898年)3月、26歳の時に神様に導かれ、自宅近くの高熊山に登り一週間の霊的修業を行った。その時、霊界を探検して、宇宙剖判からはるか未来まで様々なことを見聞きした(その出来事を後に書物に著わしたのが『霊界物語』である)。また、霊能力を身に付け、自分の救世の使命に目覚めた。修業後、独自に宗教活動を行っていたが、神様から「西北を指して行け。お前の来るのを待っている人がいる」と命じられ、穴太を旅立った。途中で入った茶店で久子から、母・出口直のことを聞き、綾部に出向いた。こうして直と喜三郎は出会い、合流する。
【王仁三郎受難の十年間】
翌明治32年(1899年)に喜三郎は綾部に移住して大本での活動を開始した。翌33年には直の五女・澄子と結婚し、名実ともに出口直の後継者となる。しかしそれ以前から出口直の周りに集まっていた信者たちは、新参者で若年者の喜三郎を排斥した。喜三郎は彼らから何かと嫌がらせをされ、時には命を狙われた。
明治33年から34年にかけて「冠島開き」「沓島開き」「元伊勢水の御用」「出雲火の御用」などの御神業が神示によって次々と行われる。これはその地に押し籠められていた艮の金神(国祖・国常立尊)や坤の金神(国祖の妻神・豊雲野尊)の神霊を表に出すというような意義を持った神業であった。
喜三郎は明治36年頃から「王仁三郎」と名乗り出す(名の由来)。王仁三郎は古い信者たちから迫害されるということもあり、39年から41年にかけて綾部を離れ外で活動した。京都の皇典講究所(神職養成機関)で学び、建勲神社(織田信長を祭る神社)の神職として働いたり、教派神道の御嶽教の幹部職員として働いたりして、宗教経営のノウハウを学んだ。綾部に帰ったのは明治41年(1908年)12月である。王仁三郎はかつて神様より「十年間は研究・修業の時期であり、艱難辛苦が続く」ということを言われていた。明治31年に高熊山修業をしてからちょうど10年が経つ41年頃から、ようやく王仁三郎に従う弟子が現れるようになった。
【大本の拡大】


綾部に帰った王仁三郎は、明治42年(1909年)から少しずつ大本の活動を活性化させて行った。機関誌を発行したり、土地を買収して神苑整備を進めて行く。宣教活動も行い、組織も拡げて行く。しかし大正初年の信者数は千人に満たない[2]、田舎の小さな宗教団体に過ぎなかった。
大正5年(1916年)横須賀の海軍機関学校の英語教官・浅野和三郎が大本に入信し綾部に移住した。その頃より軍人の入信者が増え、大本の社会的影響が大きくなって行った。王仁三郎は浅野に機関誌『神霊界』の主筆兼編集長を任せた。これは大本初の本格的な機関誌である。王仁三郎は同誌上において「大本神諭」(平仮名と漢数字で書かれた「筆先」に王仁三郎が漢字を当てはめたもの)を発表し、また政治・経済の方策を示した「大正維新」論を発表した。
大本の勢力が拡大して行くさなか、大正7年(1918年)11月に開祖・出口直は昇天した(81歳)。
この当時は第一次世界大戦(1914~1918年)やスペイン風邪の大流行(1918~1920年)によって世界中で数千万人の人が亡くなり[3]、社会は終末的様相を帯びていた時代である。世界の立替立直し(破壊と再生)を叫ぶ大本の主張は人々の心に染みこみ、入信者が増加した。治安当局は大本の影響力が拡大することを警戒し、検挙することを決定した。これが第一次大本事件である。
第一次大本事件以降
【第一次大本事件】
大正10年(1921年)2月12日(紀元節の翌日)、出口王仁三郎・浅野和三郎・吉田祐定(機関誌発行人)の3人が検挙され、綾部の神苑は大勢の警官隊に取り囲まれ家宅捜索を受けた。容疑は不敬罪と新聞紙法違反である。当局は王仁三郎の居室に春画を置いて記者に写真を撮らせ、王仁三郎のイメージダウンを図った。新聞各社は挙って大本を妖教・国賊・淫祠邪教とバッシングした。
裁判は一審(同年10月)では王仁三郎に不敬罪で懲役5年が言い渡された。二審(大正13年)は一審通り有罪。その後、大正天皇の崩御によって大赦令が発せられ、第三審(昭和2年)では免訴という判決が出た。これによって足かけ7年に亘る第一次大本事件は終結した。
【大本のグローバル化】
弾圧によって大本に失望した一部の信者は大本から離教した。浅野和三郎も大本から出て行った。それまでの大本は開祖の大本神諭を中心にした信仰であり、「立替立直し」という、終末や革命を想起させる過激な信仰であった。王仁三郎はこれを改めるため、新しい教典『霊界物語』(全81巻)を作った。「立替立直し」は「天の岩戸開き」に言い換えられた。また、外国を邪悪視する排外的傾向を改めて、「人類愛善」を旗印に、グローバルな活動を展開した。
大正13年(1924年)には、政治的に混沌としていた蒙古に宗教的王国を建設しようという理想を掲げて蒙古へ行き、千人ほどの馬賊を従えて行軍した(入蒙)。11年から12年にかけては道院やバハイ教、普天教など外国の宗教と次々と提携し、14年には北京で「世界宗教連合会」を設立する。また、外郭団体「人類愛善会」を設立し、大本信者以外の参画を図る。欧州など外国にも宣伝使を派遣して、大本をグローバル宗教へと変化させようとした。
昭和3年(1928年)3月3日、王仁三郎は満56歳7ヶ月を迎え、「みろく大祭」を開いて「弥勒下生」を宣言する[4]。これ以降、王仁三郎は全国各地を巡教に駆け巡った。
【非常時日本】
昭和6年(1931年)9月8日、綾部の本宮山山頂に碑石三基を建立する。その十日後に満州事変が勃発。欧米諸国の介入により、社会は非常時体制へと傾いて行く。同年10月、王仁三郎は昭和青年会を設立した。この会は青年層に限らず、壮年・老年でも会員になることが出来る行動団体である。「防空思想」の普及運動や、農村救済・食料増産の「挙国更生運動」など、時局に応じた救国運動を展開した。
昭和9年(1934年)7月22日、王仁三郎は東京・九段の軍人会館で「昭和神聖会」の発会式を開いた。これは大本を超えて各界の憂国の人士を糾合した一大救国団体である。王仁三郎が「統管」に就任し、国家主義活動家の内田良平と、娘婿の出口宇知麿が副統管に就任した。政界・財界・軍部・学者・芸術家など各界から3千人余りが発会式に集まり、内務大臣や衆院議長などが祝辞を述べた。昭和神聖会の活動は大きく広まり、1年後には賛同者800万人を集めるほどになった。社会の支配層にまで浸透する王仁三郎というカリスマに脅威を感じた当局は再び鉄鎚を下すことにした。王仁三郎が武力蜂起して国家権力を奪い取り、自分が天皇に成り代わろうという陰謀を企んでいると疑ったのである。
第二次大本事件以降
【第二次大本事件】
昭和10年(1935年)12月8日、当局は二度目の弾圧を行った。第二次大本事件である。一回目の弾圧とは規模も威力も全く異なり、王仁三郎・澄子を始め987人もが検挙され、取り調べを受けた者は3千人を超えた[5]。さらに当局は綾部・亀岡の聖地を始め全国の大本の施設を悉く破却した。また大本の出版物や神具・御神体なども信者宅から集め焼却した。これらは法的根拠のない違法な処分である。当局は違法なことをしてまで大本を地上から抹殺しようとしたのであった。
裁判は、61人が起訴された[6]。当局の不法な拷問によって命を落としたり精神を病んでしまう者も多数おり、大審院(現在の最高裁)判決の時には被告が3分の2の40人になっていた[7]。
一審(昭和15年)は王仁三郎は不敬罪と治安維持法違反で無期懲役、二審(昭和17年)は不敬罪で懲役5年の判決が出た。同年8月7日、王仁三郎は6年8ヶ月ぶりに保釈出所し亀岡に帰った。
昭和19年12月末から王仁三郎は楽焼茶碗を作り出す。その数は1年3ヶ月ほどの間に3千個以上に上った[8]。鮮やかに彩色されたその茶碗は王仁三郎の昇天後に陶芸界から評価されるようになり、「耀盌」と呼ばれるようになる。
戦争が終わり、GHQが日本を統治するようになると不敬罪などの思想犯罪は廃止するよう指令が出される。9月8日に出された大審院判決は上告棄却となり、二審判決が確定する。しかし10月17日の大赦令[9]によって罪が赦免され、無罪となった。その年の12月8日、王仁三郎は綾部で第二次大本事件解決奉告祭を開き、弾圧で組織が壊滅した大本を「愛善苑」という名前で新生させることが発表された。
【大本の新生】
昭和21年(1946年)2月7日、愛善苑が発足する。王仁三郎は苑主となるが、委員会制にして、活動は弟子たちに任せた。王仁三郎は破壊された聖地の再建に取り組み、工事の陣頭指揮に立った。しかし同年8月、病気で倒れ、以後病床の身になってしまう。そして昭和23年1月19日、昇天した(76歳)。
妻の出口澄子が二代苑主となって王仁三郎の後を継いだ。澄子は世界連邦運動や原水爆禁止運動に取り組んだ。
教団名は昭和24年に「大本愛善苑」に改称され、昭和27年4月1日からは元の「大本」に改称することが決まった。その前日の3月31日に澄子は昇天する。長女の出口直日が大本の三代教主に就任した。
史料
- 伝記歴史書
- 「大本年表」
- 『大本七十年史』上・下巻、昭和39年(1964年)・昭和42年(1967年)発行
- 『大本関東教区七十年史』平成元年(1989年)発行
- 『大本梅松教会二十年誌』平成2年(1990年)発行
- 『大本島根本苑五十年史』平成19年(2007年)発行
- 『大本竹田別院五十年誌』昭和62年(1987年)発行
- 『はりまの神業──大本はりま本苑史』平成5年(1993年)11月発行、339頁、非売品、大本はりま本苑出版委員会・編、大本はりま本苑・発行
- 『大本広島本苑七十年誌』平成7年(1995年)発行
- 『大本大阪本苑八十年誌──なにはづ』平成10年(1998年)10月発行
- 『大本北海道七十年史』平成13年(2001年)発行
- 『稿本大本北陸五十年史』昭和52年(1977年)10月発行、176頁、大本北陸本苑・編
- 『輝け白鳥──大本白鳥分苑六十年史』昭和58年(1983年)発行
- 『かみのと──大本神戸本苑沿革史』平成3年(1991年)発行
- 『いづもの神業──出雲本苑誌』昭和59年(1984年)発行
- 『続いづもの神業──出雲本苑誌』昭和61年(1986年)発行
- 『みかわ──大本三河本苑二十年記念誌』平成5年(1993年)発行
- 『大本熊本主会七十年誌』平成8年(1996年)発行
- 『京都大本百十年史』平成21年(2009年)4月発行、859頁、大本京都本苑年史編纂委員会・編
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- ↑ 『大本七十年史 上巻』「事件のあらまし#」:「大正初年における大本の信者数は干人にみたない綾部の一地方教団にすぎなかった」
- ↑ 当時の世界人口18~19億人。第一次世界大戦の死者約1千万人。スペイン風邪の死者5千万人~1億人。
- ↑ 簡単に言うと王仁三郎が救世主として降臨したという宣言。
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「出口聖師と幹部らの検挙#」:「昭和一一年末までの検挙総数九八七人(内務省警保局『昭和11年中ニ於ケル社会運動ノ状況』)とあるところからすれば、その後も引きつづいて、一時的検束をうけたり取調べをうけたりした者は、全国で三〇〇〇人をこすものと考えられる」
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「起訴と起訴猶予#」、「未決の生活#」:「出口すみは六一人の被告人中ただ一人の女性として」
- ↑ 16人が死亡。4人が召集により公訴棄却。『大本七十年史 下巻』「大審院の判決#」
- ↑ 正確な数は判明していない。
- ↑ 勅令第579号〔昭和20年10月17日の官報号外〕で大赦令が発せられ、その第1条の1で刑法第74条(不敬罪)の罪が赦免されている。