大本
基本情報
- 開教日:明治25年(1892年)2月3日(旧正月5日)。出口直に艮の金神が神懸かり第一声を発したとされる日[1]。
- 教祖:出口直(でぐち なお)と出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)の二人いる。
- 出口直:福知山の桐村家に生まれ、綾部の出口家に嫁いだ。明治25年「艮の金神」が懸かり神示が降りるようになる。宗教活動を始めるがその能力・技術がないため初期は金光教の傘下という形で活動していた。後に王仁三郎が合流する。出口直は大本の道を開いたという意味での教祖である。肩書きは「開祖」。
- 出口王仁三郎:穴太(あなお。現・亀岡市内)の上田家で生まれる。明治31年、高熊山で霊的修業を行い自分の救世の使命に目覚めて独自に宗教活動を開始する。後に出口直と巡り会い大本に入って活動する。教団組織や教典、聖地、教義教理を整えたのは王仁三郎であり、そういう意味で実質的な教祖である。肩書きは「教主輔」。尊称として「聖師」と呼ばれる。
- 教典:「大本神諭」と「霊界物語」の二つある。
- 聖地:綾部の聖地「梅松苑(ばいしょうえん)」と、亀岡の聖地「天恩郷(てんおんきょう)」の二つある。どちらも王仁三郎在世中から存在するが、第二次大本事件で当局によって粉々に破壊された。現在の両聖地は大戦後に再建されたものである。
- 歴代教主・教主補
- 開祖:出口直。1837~1918年(81歳)。
- 教主輔:出口王仁三郎。1871~1948年(76歳)。王仁三郎は開祖と二代・三代教主の三人の「輔佐」をするという特別な役割で、王仁三郎だけは「補」(おぎなう)ではなく「輔」(たすける)という文字が使われる。
- 二代教主:出口澄子(すみこ)1883~1952年(69歳)。出口直の末子、王仁三郎の妻。
- 三代教主:出口直日(なおひ)1902~1990年(88歳)。王仁三郎・澄子の長女。
- 三代教主補:出口日出麿(ひでまる)1897~1991年(96歳)。岡山県倉敷で生まれる。旧名・高見元男。大正8年(1919年)大本入信。昭和3年(1928年)2月に直日と結婚。
- 四代教主:出口聖子(きよこ)1935~2001年(66歳)。直日の三女。
- 五代教主:出口紅(くれない)1956年~。直日の次女・麻子の娘だが聖子の養女となる。
- 内紛(第三次大本事件)によって大本教団から追放された信徒らによって擁立された他の教主もいる。→「大本信徒連合会」
- 大本は戦前は非公認宗教であったが、戦後は法人格を得て「宗教法人大本」として活動している。
略史
【開教】
丹波の山間にある綾部という町で出口直という五十代半ばの女性に「艮の金神」と称する神が懸かったことが大本の始まりである。
直の夫・政五郎は腕のいい大工だったが、酒好きで放漫家だったため生活は苦しかった。直が48歳の時、政五郎は仕事先で負った怪我が原因で病床の身となってしまう。直が饅頭売りや紙屑・ボロ買いなどをして生活を支えた。政五郎は2年後、直が50歳の時に死んでしまう。直は貧しい生活の中8人の子供を育て上げた(出口直#家族)。
明治25年(1892年)旧正月、直(55歳)は突然、神懸かりとなる。「艮の金神」と称する神は「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ」と叫んだ。この世の「立替立直し」が始まり、「大峠」(世界の破局)の後に「五六七の世」(地上天国)が建設されるという予言と警告を直に伝え出した。
最初は口頭だったが、後に半紙に筆で、自動書記により神示が書かれるようになった。これを「筆先」と呼ぶ。筆先は平仮名と漢数字だけで書かれたが、直は文盲なので読めない。やがて信奉者が集まり出すが、筆先に籠められた神意を理解する能力を持つ者はいなかった。
【直と王仁三郎との出会い】
直に「この神を判ける方は東から来られる」という神示が降った。三女の久子は綾部より東の方にある八木という町に茶店を出して、神が予言した人が現れるのを待っていた。すると三年後に上田喜三郎(後の出口王仁三郎)という霊能力を持った青年が現れた。
喜三郎は穴太(あなお)という農村(現・亀岡市曽我部町穴太)で生まれた。明治31年(1898年)3月、26歳の時に神様に導かれ、自宅近くの高熊山に登り一週間の霊的修業を行った。その時、霊界を探検して、宇宙剖判からはるか未来まで様々なことを見聞きした(その出来事を後に書物に著わしたのが『霊界物語』である)。また、霊能力を身に付け、自分の救世の使命に目覚めた。修業後、独自に宗教活動を行っていたが、神様から「西北を指して行け。お前の来るのを待っている人がいる」と命じられ、穴太を旅立った。途中で入った茶店で久子から、母・出口直のことを聞き、綾部に出向いた。こうして直と喜三郎は出会い、合流する。
【王仁三郎受難の十年間】
翌明治32年(1899年)に喜三郎は綾部に移住して大本での活動を開始した。翌33年には直の五女・澄子と結婚し、名実ともに出口直の後継者となる。しかしそれ以前から出口直の周りに集まっていた信者たちは、新参者で若年者の喜三郎を排斥した。喜三郎は彼らから何かと嫌がらせをされ、時には命を狙われた。
明治33年から34年にかけて「冠島開き」「沓島開き」「元伊勢水の御用」「出雲火の御用」などの御神業が神示によって次々と行われる。これはその地に押し籠められていた艮の金神(国祖・国常立尊)や坤の金神(国祖の妻神・豊雲野尊)の神霊を表に出すというような意義を持った神業であった。
喜三郎は明治36年頃から「王仁三郎」と名乗り出す(名の由来)。王仁三郎は古い信者たちから迫害されるということもあり、39年から41年にかけて綾部を離れ外で活動した。京都の皇典講究所(神職養成機関)で学び、建勲神社(織田信長を祭る神社)の神職として働いたり、教派神道の御嶽教の幹部職員として働いたりして、宗教経営のノウハウを学んだ。綾部に帰ったのは明治41年(1908年)12月である。王仁三郎はかつて神様より「十年間は研究・修業の時期であり、艱難辛苦が続く」ということを言われていた。明治31年に高熊山修業をしてからちょうど10年が経つ41年頃から、ようやく王仁三郎に従う弟子が現れるようになった。
【大本の拡大】
綾部に帰った王仁三郎は、明治42年(1909年)から少しずつ大本の活動を活性化させて行った。機関誌を発行したり、土地を買収して神苑整備を進めて行く。宣教活動も行い、組織も拡げて行く。しかし大正初年の信者数は千人に満たない[7]、田舎の小さな宗教団体に過ぎなかった。
大正5年(1916年)横須賀の海軍機関学校の英語教官・浅野和三郎が大本に入信し綾部に移住した。その頃より軍人の入信者が増え、大本の社会的影響が大きくなって行った。王仁三郎は浅野に機関誌『神霊界』の主筆兼編集長を任せた。これは大本初の本格的な機関誌である。王仁三郎は同誌上において「大本神諭」(平仮名と漢数字で書かれた「筆先」に王仁三郎が漢字を当てはめたもの)を発表し、また政治・経済の方策を示した「大正維新」論を発表した。
大本の勢力が拡大して行くさなか、大正7年(1918年)11月に開祖・出口直は昇天した(81歳)。
この当時は第一次世界大戦(1914~1918年)やスペイン風邪の大流行(1918~1920年)によって世界中で数千万人の人が亡くなり[8]、社会は終末的様相を帯びていた時代である。世界の立替立直し(破壊と再生)を叫ぶ大本の主張は人々の心に染みこみ、入信者が増加した。治安当局は大本の影響力が拡大することを警戒し、検挙することを決定した。これが第一次大本事件である。
【第一次大本事件】
大正10年(1921年)2月12日(紀元節の翌日)、出口王仁三郎・浅野和三郎・吉田祐定(機関誌発行人)の3人が検挙され、綾部の神苑は大勢の警官隊に取り囲まれ家宅捜索を受けた。容疑は不敬罪と新聞紙法違反である。当局は王仁三郎の居室に春画を置いて記者に写真を撮らせ、王仁三郎のイメージダウンを図った。新聞各社は挙って大本を妖教・国賊・淫祠邪教とバッシングした。
裁判は一審(同年10月)では王仁三郎に不敬罪で懲役5年が言い渡された。二審(大正13年)は一審通り有罪。その後、大正天皇の崩御によって大赦令が発せられ、第三審(昭和2年)では免訴という判決が出た。これによって足かけ7年に亘る第一次大本事件は終結した。
【大本のグローバル化】
弾圧によって大本に失望した一部の信者は大本から離教した。浅野和三郎も大本から出て行った。それまでの大本は開祖の大本神諭を中心にした信仰であり、「立替立直し」という、終末や革命を想起させる過激な信仰であった。王仁三郎はこれを改めるため、新しい教典『霊界物語』(全81巻)を作った。「立替立直し」は「天の岩戸開き」に言い換えられた。また、外国を邪悪視する排外的傾向を改めて、「人類愛善」を旗印に、グローバルな活動を展開した。
大正13年(1924年)には、政治的に混沌としていた蒙古に宗教的王国を建設しようという理想を掲げて蒙古へ行き、千人ほどの馬賊を従えて行軍した(入蒙)。11年から12年にかけては道院やバハイ教、普天教など外国の宗教と次々と提携し、14年には北京で「世界宗教連合会」を設立する。また、外郭団体「人類愛善会」を設立し、大本信者以外の参画を図る。欧州など外国にも宣伝使を派遣して、大本をグローバル宗教へと変化させようとした。
昭和3年(1928年)3月3日、王仁三郎は満56歳7ヶ月を迎え、「みろく大祭」を開いて「弥勒下生」を宣言する[9]。これ以降、王仁三郎は全国各地を巡教に駆け巡った。
【非常時日本】
昭和6年(1931年)9月8日、綾部の本宮山山頂に碑石三基を建立する。その十日後に満州事変が勃発。欧米諸国の介入により、社会は非常時体制へと傾いて行く。同年10月、王仁三郎は昭和青年会を設立した。この会は青年層に限らず、壮年・老年でも会員になることが出来る行動団体である。「防空思想」の普及運動や、農村救済・食料増産の「挙国更生運動」など、時局に応じた救国運動を展開した。
昭和9年(1934年)7月22日、王仁三郎は東京・九段の軍人会館で「昭和神聖会」の発会式を開いた。これは大本を超えて各界の憂国の人士を糾合した一大救国団体である。王仁三郎が「統管」に就任し、国家主義活動家の内田良平と、娘婿の出口宇知麿が副統管に就任した。政界・財界・軍部・学者・芸術家など各界から3千人余りが発会式に集まり、内務大臣や衆院議長などが祝辞を述べた。昭和神聖会の活動は大きく広まり、1年後には賛同者800万人を集めるほどになった。社会の支配層にまで浸透する王仁三郎というカリスマに脅威を感じた当局は再び鉄鎚を下すことにした。王仁三郎が武力蜂起して国家権力を奪い取り、自分が天皇に成り代わろうという陰謀を企んでいると疑ったのである。
【第二次大本事件】
昭和10年(1935年)12月8日、当局は二度目の弾圧を行った。第二次大本事件である。一回目の弾圧とは規模も威力も全く異なり、王仁三郎・澄子を始め987人もが検挙され、取り調べを受けた者は3千人を超えた[10]。さらに当局は綾部・亀岡の聖地を始め全国の大本の施設を悉く破却した。また大本の出版物や神具・御神体なども信者宅から集め焼却した。これらは法的根拠のない違法な処分である。当局は違法なことをしてまで大本を地上から抹殺しようとしたのであった。
裁判は、61人が起訴された[11]。当局の不法な拷問によって命を落としたり精神を病んでしまう者も多数おり、大審院(現在の最高裁)判決の時には被告が3分の2の40人になっていた[12]。
一審(昭和15年)は王仁三郎は不敬罪と治安維持法違反で無期懲役、二審(昭和17年)は不敬罪で懲役5年の判決が出た。同年8月7日、王仁三郎は6年8ヶ月ぶりに保釈出所し亀岡に帰った。
昭和19年12月末から王仁三郎は楽焼茶碗を作り出す。その数は1年3ヶ月ほどの間に3千個以上に上った[13]。鮮やかに彩色されたその茶碗は王仁三郎の昇天後に陶芸界から評価されるようになり、「耀盌」と呼ばれるようになる。
戦争が終わり、GHQが日本を統治するようになると不敬罪などの思想犯罪は廃止するよう指令が出される。9月8日に出された大審院判決は上告棄却となり、二審判決が確定する。しかし10月17日の大赦令[14]によって罪が赦免され、無罪となった。その年の12月8日、王仁三郎は綾部で第二次大本事件解決奉告祭を開き、弾圧で組織が壊滅した大本を「愛善苑」という名前で新生させることが発表された。
【大本の新生】
昭和21年(1946年)2月7日、愛善苑が発足する。王仁三郎は苑主となるが、委員会制にして、活動は弟子たちに任せた。王仁三郎は破壊された聖地の再建に取り組み、工事の陣頭指揮に立った。しかし同年8月、病気で倒れ、以後病床の身になってしまう。そして昭和23年1月19日、昇天した(76歳)。
妻の出口澄子が二代苑主となって王仁三郎の後を継いだ。澄子は世界連邦運動や原水爆禁止運動に取り組んだ。
教団名は昭和24年に「大本愛善苑」に改称され、昭和27年4月1日からは元の「大本」に改称することが決まった。その前日の3月31日に澄子は昇天する。長女の出口直日が大本の三代教主に就任した。
略年表
出口直と王仁三郎を軸として見た大本60年間の略史。(年齢は原則として満年齢)(明治5年12月2日までは旧暦。翌日改暦され新暦6年1月1日となる)
天保7年12月16日(新暦1837年1月22日) | 福知山で桐村直、生誕 |
嘉永6年(1853年) | 直(16歳)は綾部に移住し、叔母・出口ユリの養女となる。(時期は諸説あり→「出口直#最初の綾部移住の時期」) |
安政2年2月3日(新暦1855年3月20日) | 直(18歳)は豊助(とよすけ)と結婚[15]。豊助は「政五郎」を襲名する。 |
明治4年7月12日(新暦1871年8月27日) | 穴太で上田喜三郎、生誕 |
明治16年(1883年)2月3日(旧12月26日) | 出口澄子、生誕。 |
明治20年(1887年)3月1日(旧2月7日) | 出口直(50歳)の夫・政五郎が帰幽(60歳)。 |
明治25年(1892年)1月30日(旧1月1日) | 直(55歳)は霊夢を見る。 |
同年2月3日(旧1月5日)[16] | 直、帰神状態となる。 |
明治26年(1893年)4月~5月 | 4月21日、直は放火の嫌疑で警察署に留置される。翌日に嫌疑は晴れるが、発狂者として座敷牢に入れられる。その間、釘で柱に文字を書く(筆先の初まり)。5月30日、座敷牢から出される。 |
明治27年(1894年)11月12日(旧10月15日) | 直は大本の広前を初めて開く。大島景僕の離れ座敷(通称「別荘」)に艮の金神と金光大神を併祀。 |
明治30年(1897年)4月4日(旧3月3日) | 直(60歳)は綾部・裏町の梅原伊助の倉に広前を遷し、艮の金神を単独で奉斎する。 |
明治31年(1898年)3月1日(旧2月9日) | 喜三郎(26歳)、高熊山修業 |
同年10月8日(旧8月23日) | 綾部で出口直と上田喜三郎が初めて面会 |
明治32年(1899年)7月3日(旧5月26日) | 喜三郎(28歳)は綾部に移住し大本入りする |
明治33年(1900年)1月31日(旧1月1日) | 喜三郎(28歳)と澄子(16歳)が結婚 |
同年7月4日(旧6月8日) | 冠島開きの御神業。 |
同年8月2日(旧7月8日) | 沓島開きの御神業。 |
同年10月1日(旧閏8月8日) | 鞍馬山出修。その後、直は別荘(大島景僕の離れ座敷)に100日間籠もる。 |
同年11月1日(旧9月10日) | 広前を竜門館(大島景僕宅)に遷す。 |
明治34年(1901年)4月26日(旧3月8日) | 元伊勢水の御用。 |
同年7月1日(旧5月16日) | 出雲火の御用。 |
同年10月19日(旧9月8日)~25日 | 弥仙山岩戸籠もり。 |
同年10月28日(旧9月17日) | 直は別荘に100日間籠もる。 |
明治35年(1902年)3月7日(旧1月28日) | 王仁三郎と澄子の長女・あさの(出口直日)が生まれる。 |
明治36年(1903年)5月24日(旧4月28日) | 弥仙山岩戸開き。 |
明治37年(1904年)9月20日 | 喜三郎は(39歳)役場に改名届を出して「上田王仁三郎」になる |
明治38年(1905年)5月14日(旧4月10日)~25日 | 沓島籠もり。 |
明治43年(1910年)12月29日 | 王仁三郎(39歳)は出口家への養子手続きが終わり「出口王仁三郎」になる |
明治45年(1912年)4月24日(旧3月8日) | 伊勢内宮・外宮・香良洲神社へ参拝。 |
大正5年(1916年)6月25日(旧5月25日) | 「神島開き」 |
同年10月4日(旧9月8日) | 神島へ。翌5日(旧9月9日)王仁三郎がみろく様の霊であるという筆先が出る(見真実)。 |
大正6年(1917年)1月 | 機関誌『神霊界』誌上で『大本神諭』の発表を開始する |
大正7年(1918年)11月6日(旧10月3日) | 出口直、昇天(81歳) |
大正9年(1920年)9月 | 大正日日新聞社を買収 |
大正10年(1921年)2月12日(旧正月5日) | 第一次大本事件。王仁三郎(49歳)は投獄される。(大本事件) |
同年6月17日 | 王仁三郎は126日間の獄中生活を経て出獄 |
同年10月5日 | 第一次大本事件裁判の一審判決が出る。王仁三郎は不敬罪で懲役5年の判決を受ける。 |
同年10月18日 | 王仁三郎は霊界物語の著述を開始 |
大正11年~12年 | バハイ教や道院、普天教など世界の諸宗教と提携 |
大正13年(1924年)2月13日 | 王仁三郎(52歳)は綾部を発ってモンゴルへ(~11月1日)→「入蒙」 |
同年7月21日 | 二審判決。一審通り有罪。 |
大正14年(1925年)5月20日 | 北京で世界宗教連合会設立 |
同年6月9日 | 人類愛善会設立 |
昭和2年(1927年)5月17日(旧4月17日) | 大審院判決。大正天皇崩御による大赦令によって第一次大本事件の裁判は免訴となる。第一次大本事件終結。 |
昭和3年(1928年)3月3日(旧2月12日) | みろく大祭(王仁三郎、満56歳7ヶ月) |
昭和6年(1931年)9月8日 | 本宮山山頂に三基の碑石を建立(十日後に満州事変勃発) |
同年10月18日(旧9月8日) | 昭和青年会設立 |
昭和7年(1932年)8月13日 | 大日本武道宣揚会設立(道主・植芝盛平) |
昭和8年(1933年)10月4日(旧8月15日) | 霊界物語『天祥地瑞』編の著述開始 |
昭和9年(1934年)7月22日 | 東京・九段の軍人会館で「昭和神聖会」設立 |
昭和10年(1935年)12月8日 | 第二次大本事件。王仁三郎(64歳)は投獄される。 |
昭和15年(1940年)2月29日 | 一審判決。王仁三郎は無期懲役。 |
昭和17年(1942年)7月31日 | 二審判決。王仁三郎は懲役5年。 |
同年8月7日(旧6月26日) | 王仁三郎(71歳)は6年8ヶ月ぶりに出獄 |
昭和19年(1944年)12月29日 | 王仁三郎(73歳)は耀盌を作り出す |
昭和20年(1945年)9月8日 | 大審院判決。上告棄却(有罪確定)。 |
同年10月17日 | 大赦令で大本事件は解消する(無罪)。 |
12月8日 | 綾部で第二次大本事件解決奉告祭を執行。 |
昭和21年(1946年)2月7日 | 大本を「愛善苑」として新発足 |
昭和23年(1948年)1月19日 | 王仁三郎(76歳5ヶ月)昇天。澄子が二代苑主となる。 |
昭和24年(1949年)10月29日 | 愛善苑を「大本愛善苑」に改称。 |
昭和27年(1952年)3月31日 | 出口澄子、昇天(69歳)。直日が三代教主となる。 |
同年4月1日 | 大本愛善苑を「大本」に改称。 |
教団名の変遷
大本は開教時から教団組織があったわけではない。初めて組織が作られたのは、王仁三郎が綾部に来てからである。艮の金神の「金」と、日の大神・月の大神の「日」「月」を合わせて「金明会」と命名された[17]。
以後、次のように教団名が変遷する。[18]
- 明治32年(1899年)7月10日(旧6月3日):「金明会」を設立。
- 同年8月1日(旧6月25日):「金明会」と「霊学会」(園部で31年5月に設立)と合体させて「金明霊学会」に改称。[19]
- 明治41年(1908年)8月1日(旧7月5日):「大日本修斎会」に改称。
- 大正2年(1913年)7月12日(旧6月9日):「大本教(たいほんきょう)」と称する。正式に「大本」という言葉が使われたのはこれが初めて(ただしその後も大日本修斎会という名称も併用されている)[20]。
- 大正5年(1916年)4月22日(旧3月20日):大本教を「皇道大本(こうどうおおもと)」に改称。
- 大正10年(1921年)10月14日(旧9月14日):皇道大本を「大本」に改称。(王仁三郎と二代教主が隠退し直日が三代教主に就任)
- 大正11年(1922年)2月4日(旧正月8日、節分):大日本修斎会は「大本瑞祥会」に改称。
- 昭和8年(1933年)1月26日(旧元日):大本を「皇道大本」に再び改称。大本瑞祥会は解散。
- 昭和21年(1946年)2月7日(旧正月6日):弾圧によって組織が解体された大本は「愛善苑」という名称で新発足。
- 昭和24年(1949年)10月29日(旧9月8日):「大本愛善苑」に改称。
- 昭和27年(1952年)4月1日(旧3月7日):「大本」に改称。(前日に二代教主が昇天し三代教主が就任)
宗教名としても開教当初から「大本」と名乗っていたわけではないようである。大本神諭に「おほもと」[21]という言葉が登場するのは明治29年旧12月2日の神諭[22]が初めてであり、次は明治31年旧5月5日と旧7月16日、頻繁に登場するようになるのは明治32年旧2月3日以降である[23] [24]。従って宗教名として「おほもと」と呼ばれるようになったのは早くても明治29年、おそらく王仁三郎が大本入りした明治32年以降のことではないかと考えられる。
関連団体
- 天声社:大本の出版部門。https://tenseisha.co.jp/ (公式サイト)
- 人類愛善会:社会活動を行う団体。https://jinruiaizenkai.jp/ (公式サイト)
- 愛善みずほ会:農業の研究・指導や自然食品の小売などを行う団体。https://aizen-mizuho.or.jp/ (公式サイト)
関連項目
- 大本事件:王仁三郎在世中に起きた国家権力による二度の弾圧事件。及び昇天後に起きた内紛。
- 大本信徒連合会:内紛(第三次大本事件)によって追放された信徒有志が結成した団体で、自分たちはあくまでも大本の信徒であると主張する。出口直美を四代教主、出口直子を五代教主として仰ぐ。第三次大本事件は継続中であるという世界観を持つ。https://www.omt.gr.jp/ (公式サイト)
- 宗教法人愛善苑:内紛(第三次大本事件)によって追放された信徒有志が設立した団体で、大本から派生した新しい宗教団体。出口王仁三郎を「永遠の苑主」と仰ぎ、宗教的権威を持つ苑主(教主)を置かない。霊界物語のみを教典とする。第三次大本事件は愛善苑の誕生によって事実上終了したという世界観を持つ。http://www.aizenen.info/ (公式サイト)
外部リンク
- https://www.oomoto.or.jp/ (大本の公式サイト)
- 大本公式サイト内にある「関連サイト」のページ(地方機関等)
- https://www.youtube.com/@oomotoweb (ユーチューブの大本公式チャンネル)
- 大本 - コトバンク
- 大本 - ウィキペディア
脚注
- ↑ 昔の文献だとその日は2月8日(旧正月10日)としているものもある。
- ↑ 厳密に言えば王仁三郎が生まれた時は「穴太村」で明治22年に「曽我部村穴太」になり昭和30年に「亀岡市曽我部町穴太」になったので、当時の感覚としては亀岡は王仁三郎の故郷とは言えない。亀岡は「故郷の穴太の隣町」のような感覚であろう。
- ↑ 令和4年度版59頁 「宗教年鑑」(文化庁)
- ↑ 信者の定義はそれぞれの宗教法人によって異なる。大本の場合は何を信者と定義しているのかは不明だが、活動をしていない幽霊信者を除いたアクティブな信者の数はおそらくこの数分の1である。
- ↑ 宣伝使の人数か?
- ↑ ちなみに令和4年(2022年)の25年前の平成9年(1997年)版では信者数173,513人、教師数6,168人である。
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「事件のあらまし#」:「大正初年における大本の信者数は干人にみたない綾部の一地方教団にすぎなかった」
- ↑ 当時の世界人口18~19億人。第一次世界大戦の死者約1千万人。スペイン風邪の死者5千万人~1億人。
- ↑ 簡単に言うと王仁三郎が救世主として降臨したという宣言。
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「出口聖師と幹部らの検挙#」:「昭和一一年末までの検挙総数九八七人(内務省警保局『昭和11年中ニ於ケル社会運動ノ状況』)とあるところからすれば、その後も引きつづいて、一時的検束をうけたり取調べをうけたりした者は、全国で三〇〇〇人をこすものと考えられる」
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「起訴と起訴猶予#」、「未決の生活#」:「出口すみは六一人の被告人中ただ一人の女性として」
- ↑ 16人が死亡。4人が召集により公訴棄却。『大本七十年史 下巻』「大審院の判決#」
- ↑ 正確な数は判明していない。
- ↑ 勅令第579号〔昭和20年10月17日の官報号外〕で大赦令が発せられ、その第1条の1で刑法第74条(不敬罪)の罪が赦免されている。
- ↑ 四方豊助は直より先に出口ユリの養子になっていた。
- ↑ 日付は諸説ある
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「金明会の発足#」
- ↑ 「大本年表」による。
- ↑ 金明霊学会の設立時期については諸説ある。「大本年表」144頁参照。『大本資料集成 3』裁判資料「予審終結決定#」では明治33年2月頃になっている。
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「大本教の教規と信条#」
- ↑ 「大本」とか「大元」という漢字が使われているが、その漢字は王仁三郎が当てはめたもの
- ↑ 大本神諭 明治29年旧12月2日#:「此大本へ立寄りて、神の御話を聞かして貰ふた人民だけなりと改心を致して」
- ↑ 大本神諭 明治25年1月の「初発の神諭」#や、大本神諭 年月日不明の神諭#にも「大本」という言葉が登場するが、前者は半紙に筆先が書かれる以前に出口直に伝達された神示を王仁三郎が想像して書いたものであり、後者も王仁三郎が作った可能性が高い(『神霊界』誌で大本神諭として一番最初に掲載された神諭)。それを除くと明治29年旧12月2日の神諭が「おほもと」が登場する最初の神諭となる。
- ↑ 大本神諭化されていない筆先に「おほもと」が登場しているかも知れないが、公開されていないので調べようがない。