第三次大本事件
第三次大本事件(だいさんじおおもとじけん)とは、1980年代に起きた大本教団の内紛である。三代教主・出口直日が教嗣(教主継承者)を変更したことに端を発し、教団執行部の方針に反対する二つの信徒グループが勃興した。執行部側は反対派の職員・信徒を教団から追放することで解決を図ろうとするが、追放された側から訴訟を起こされ事件は長期化する。だが三代教主の昇天によって鎮静化した。教団から追放された二つの信徒グループはそれぞれ大本信徒連合会と愛善苑を結成した。「第三次大本事件」は追放された側での呼び方であり、追放した執行部側からは「反教団事件」と呼ばれている。また反対派信徒グループは「反教団グループ」と呼ばれている。
概要
三代教主(出口直日)の時代に勃発したこの内紛は、端的に言えば教団経営の主導権争いである。三代教主及び教団執行部の方針に異議を唱える信徒の不満は大別して二種類あった。一つは「道統が歪められた」という不満であり、もう一つは「教えが歪められた」という不満である。
本来、道統(教主継承権)を継いで四代教主になる予定だった出口直美(三代直日の長女)が、後述する理由によって教嗣(教主継承者)の座から外されてしまい、三諸聖子(直日の三女)が新たな教嗣となった。そのことに異議を唱える信徒グループは通称「守る会」を結成した。直美は綾部に住んでおり、「守る会」の拠点は綾部の「愛善荘」に置かれた。機関誌として『愛善世界』が発行された。
一方、道統問題で揺れる教団のあり方に疑問を感じ「根本教典である霊界物語の研鑽によって大本の原点に立ち帰ろう」と考える信徒グループが現れた。彼らは出口和明を中心に「いづとみづの会」を結成した。その拠点は和明の自宅である亀岡の「熊野館」に置かれ、機関誌『いづとみづ』が発行された。
二つのグループは全く別個なのではなく、両方に関わる信徒も少なくなかった。また、いずれのグループにも属さず独自に活動する信徒や、争いに疲れて信仰をやめてしまう信徒もいた。
二つの信徒グループは教団から追放されたが、その後両者がたどった道は対照的である。「守る会」は三代教主の昇天後、出口直美を四代教主として擁立し、新たに「大本信徒連合会」が設立された。彼らは、今でも自分たちは大本信徒であると主張して活動している。それに対して「いづとみづの会」からは「宗教法人愛善苑」が誕生し、大本から独立した新宗教として活動している。
この内紛によって出口家を含め教団は三分裂した。さらにそれぞれのグループで内紛が起きたため、三分裂ではなく「四分五裂した」と評する意見もある。
訴訟は出口栄二(直美の夫)が起こした訴訟と、いづとみづの会側の訴訟2件の計3件あったが、三代教主昇天前後に全ての訴訟は取り下げられた。しかし「事件」が終結したかについては三者三様の見解がある。端的に言うと、大本教団執行部では「反教団事件は終結した」、大本信徒連合会では「第三次大本事件は継続中」、愛善苑では公式見解はないが、「真正の大本である愛善苑の誕生によって第三次大本事件は事実上終結した」という見方をしているようである。
概史
【主な関係者】
- 出口直日:三代教主。王仁三郎・澄子の長女。明治35年(1902年)~平成2年(1990年)。
- 出口日出麿:三代教主補。直日の夫。明治30年(1897年)~平成3年(1991年)。
- 出口直美:直日の長女。昭和4年(1929年)~令和2年(2020年)。
- 出口栄二:直美の夫。大正8年(1919年)~平成18年(2006年)。
- 出口和明:八重野(王仁三郎の三女)・伊佐男の長男。昭和5年(1930年)~平成14年(2002年)。
- 出口聖子:直日の三女。昭和10年(1935年)~平成13年(2001年)。
- 出口京太郎:直日の長男。昭和11年(1936年)~。
【出口直美・出口栄二】
昭和27年(1952年)出口直日が三代教主に就任した。夫の三代教主補・出口日出麿は第二次大本事件の取り調べの際、苛酷な拷問を受け精神に来してしまったため、別の者が教主の補佐役となり教団活動を指導する必要があった。出口伊佐男(王仁三郎の三女・八重野の夫)が大本総長という役職に就き教主を補佐して教団を指導していたが、昭和33年(1958年)新たに出口栄二(四代・直美の夫)が大本総長となる。
栄二の母・家口いくは、熾仁親王と田中たまの娘であり、やはり熾仁親王の落胤である王仁三郎とは血縁上、異母兄妹の関係にあった。王仁三郎から家口いくを通し栄二に入り婿の話があり、昭和20年、栄二は直美と結婚した。
米ソ冷戦のさなか、総長に就任した栄二は平和運動に邁進した。出口和明によると、〈国際的緊張の切迫する中、原水爆禁止世界大会でのイデオロギー論争と政党レベルの主導権争いは平和団体の中にまで対立と混乱をまきこす。その影響は大本にも及び、教団内部の派閥争いがからみ、イデオロギー的にも平和路線をとる栄二派と安保賛成を表明する京太郎派との分裂を鋭くした〉[1]。栄二は宗教家として世界平和のためソ連や中国に接近したが、それは政治的に左傾化していると見られかねなかった。教団活動に政治色が強くなると再び弾圧されるのではないかと危惧した三代教主直日は、昭和37年(1962年)栄二を総長職から更迭した。
栄二を敬遠する動きはその後も続き、昭和56年(1981年)9月、ついに栄二は全役職を剥奪され、教団を追放された。
同年12月8日、栄二は教団を提訴する。自分の地位確認等を求めた提訴だったが、真の目的は直美の教嗣変更を防ぐことにあった。[2]
しかし提訴は事態をますます悪化させ、翌57年5月、教嗣が直美から聖子に変更された。もともとは栄二の行動が問題視されたのだが、それを制止しないどころか同調しているということで直美も連座することになった。
直美は昭和4年(1929年)、三代教主・直日の長女として生まれた。生まれたとき王仁三郎によって「開祖の生まれ変わり」だと審神された〔玉鏡「直美と操」#[3]〕。直美が四代教主だということは、王仁三郎や二代教主澄子によって指名されている[4]。しかし直日は前述の事情により〈断腸のおもい〉[5]で直美を教嗣から外し、三女の聖子を教嗣とした。しかし教祖(王仁三郎)が定めた四代教主を、三代教主が変更していいのかということで、直美・栄二を支持する信徒グループから非難された。栄二に直美が連座した形だが、実は最初から直美を排除する(道統を歪める)ことを目的に仕組まれた陰謀だったのだという意見もある。
直美・栄二の支持者たちは「出口栄二を守る会」「出口直美様を守る会」(通称「守る会」)を結成した。
【出口和明】
一方、出口和明は若い時から亀岡を離れ東京や名古屋で働いていたが、昭和43年(1968年)亀岡に戻り、三代教主の肝いりで「大地の母」の執筆に励む。最初は『おほもと』誌に連載され、後に毎日新聞社から書籍化された。和明は教団のあり方を問題視し、昭和55年(1980年)3月、仲間たちと共に教団改革グループ「いづとみづの会」を結成した。
和明は昭和5年(1930年)に、王仁三郎の三女・八重野の長男として生まれた。王仁三郎は「和明は十和田湖の竜神の再生だ」と審神し、「本当は自分の子として生まれるはずだったが、それが出来なかったので八重野が生ましてもらった」と教え、「弥勒の神業を継承する」と予言した〔月鏡「十和田湖の神秘」#、玉鏡「男装坊の再生」#〕。
王仁三郎からそのようなことを言われて和明は迷惑だった[6]。だが周囲の信徒はその王仁三郎の教示によって和明を神秘化し、教団改革に大きな期待を寄せた。
【567】
昭和56年(1981年)1月、三代教主は「道を護らむ」と題する声明を機関誌上で発表。教団批判を行う信徒を粛正することが宣言された。〈この節分を機といたしまして、私たちの教団から離れてもらいまして、別に、独立してくれることを希望するものでございます。〉〈私の時代に生じました不祥事は、信頼できる役員や、皆さまの代表の方々とも相議りまして、ご了承を得て、きれいにいたしたいと思うものでございます。〉〈教団に不平もつ人去りたまへ清きがのこり道を護らむ〉[7]
同年秋に、栄二が教団から追放され(9月)、「守る会」が結成され(10月)、栄二が教団を提訴(12月)する。
翌57年4月には、出口和明ら3人が、剥奪された地位の確認を求めて大本総長(宇佐美龍堂)を提訴する。
同年5月、教団執行部は反教団グループの信徒に対して離脱勧告を行った。そして教嗣が直美から聖子へ変更された。
このように、第三次大本事件は昭和30年代から水面下で火種が燻り続けていたが、昭和55年(1980年)のいづとみづの会結成から57年の教嗣変更まで、55・56・57の3年間で一挙に表に吹き出したということになる。
【訴訟終結】
昭和61年(1986年)11月、いづとみづの会を母体として愛善苑が発足する。彼らは霊界物語等の教えの研鑽によって宗教思想に変化が生じ、大本教団に今さら帰る気はなかった。「愛善苑が真正の大本」という位置づけを行った。
それに対して守る会では「自分たちは大本信徒である」という主張を一貫して続けた。
平成2年(1990年)9月、三代教主・出口直日が昇天し、出口聖子が四代教主を継承する。栄二が直美の教団復帰を目指して起こした訴訟はもはや意味がなくなり、栄二は訴訟を取り下げた。翌平成3年4月、守る会は「大本信徒連合会」となる。
いづとみづの会関係の2件の訴訟は昭和63年(1988年)9月と平成3年(1991年)4月に取り下げられ、第三次大本事件関係の訴訟3件はすべて終了した。
これによって教団執行部は、平成3年(1991年)12月8日、反教団事件訴訟終結奉告祭を執行した。出口栄二が提訴してからちょうど10年目であった。
【現在】
愛善苑は大本から独立したものの、大本信徒連合会は「大本信徒」という立場を主張し続け、独立を拒否している。そのため、訴訟は終結したものの、事件は解決したとは言い難い状態であり、大本教団はいくつかの問題を抱えている。
その問題の一つは、綾部の聖地梅松苑の中に、出口直美が住んでいることだった。直美・栄二夫妻は、みろく殿の後方、金竜海の横に建つ建物(掬水荘や要荘等と呼ぶ複数の建物)を自宅とし、事件前から住んでいた。教嗣変更後、教団執行部は昭和58年から直美夫妻に対してこの建物から退去するようたびたび要請したが直美夫妻は拒否。執行部は平成21年(2009年)出口直美に対し建物明け渡しの訴訟を起こす(出口栄二は平成18年に昇天)。しかし〈裁判所が審判すべき法律上の争訟に当たらない〉[8]つまり宗教問題なので裁判所は関知しないという理由で却下。最高裁まで争われたがいずも却下された[9]。直美は令和2年(2020年)に昇天したが、五代教主として出口直子(直美の長女)がその後も居住を続けている。
事件の影響
【信仰への影響】
内紛は信徒の間に信仰への失望や嫌悪を与え、信仰熱の低下や離教を招いた側面があったのと同時に、護教的信仰熱の高まりや教団改革への期待を与えたという側面もある。
執行部側につく信徒も、それに反対する二つの信徒グループも、いずれも自派を正当化するためではあるものの、教えの研鑽に励んだ。特にいづとみづの会は、それまで教団内でほとんど手つかずだった霊界物語の研鑽に努め、さまざまな知見を機関誌等で発表した。
【社会への影響】
大本の内紛は教団外へもいろいろな影響を与えている。戦前二度の弾圧を喰らった教団が今度は内紛で揺れているというスキャンダルリズム的好奇心からジャーナリズムが飛びついたり、宗教団体の封建的体質に信徒が異議申し立てをしているという民主主義的観点から学者や社会活動家が注目したりした。『大地の母』の著者として教団外でも知名度が高い出口和明は、外部の団体から講演等に招かれることも多かった。
オニペディアの「雑誌記事一覧」に収集された情報[10]によると、第三次大本事件前後の年代別記事件数は次のようになる。
- 昭和40年(1965年)から昭和54年(1979年)までの15年間で44件(年2.9件)
- 昭和55年(1980年)から平成3年(1991年)までの12年間で54件(年4.5件)
- 平成4年(1992年)から平成30年(2018年)までの26年間で47件(年1.8件)
つまり80年代の第三次大本事件の期間は、雑誌記事数が大きく増加していることが分かる。内紛という騒動が外部メディアで報道されることは信徒にとって恥ずかしいことであったが、それによって世間は大本を「再発見」したり、新たに王仁三郎という人物を知るきっかけにもなった。
【多様化】
内紛によって組織が分裂したが、それによって生じた大きな変化として、王仁三郎に関する出版物が多様化したということが挙げられる。
平成元年(1989年)に八幡書店、平成4年(1992年)に愛善世界社が霊界物語の刊行を開始した。どちらも、昭和62年(1987年)刊行開始の天声社修補版とは異なる発想で編纂されたものである。
愛善世界社は大本信徒連合会の出版部門であり、八幡書店の霊界物語は愛善苑の直接の出版物ではないものの、愛善苑側の出版物である。王仁三郎の著作権は1998年末まで有効だが、著作権を共有する出口家が分裂したことにより、天声社以外から霊界物語を出版することが可能となった[11]。
また、愛善苑からは、入手困難な戦前の王仁三郎の著書が、復刻版として多数発行された。王仁三郎に関するさまざまな資料集も発行された。(発行元は「いづとみづ」や「あいぜん出版」。現在は「みいづ舎」)
一方、愛善世界社からは大本神諭も刊行された。
書籍だけでなく、王仁三郎の肉声レコードをカセットテープやCDにしたものも、愛善世界社や愛善苑から頒布されている。
これらの書籍等はいずれも内紛で組織が分裂しなかったら、世に出ることはなかった。現在の天声社が扱わない出版物が、追放された信徒たちによって出版されたことになる。これはそれぞれの組織の経営方針が異なるからである。教団の経営権をめぐる紛争は最終的に組織分裂によってそれぞれの経営理念を追求することが可能になった。それは次に記すように、信仰者個人も、組織の方針に関わらず自由に宗教活動ができる状況になったことを意味する。
平成11年(1999年)に王仁三郎の著作権が消滅した後、平成15年(2003年)から非信徒の飯塚弘明が霊界物語等を電子化してインターネット上で公開するようになった。飯塚によると、仮に大本が分裂しておらず霊界物語がただ一つの宗教団体の教典という位置づけであったら、たとえ著作権法的に合法であったとしても、インターネットで公開するようなことはしていなかったという。一教団が専有している教典を部外者が出版するということは、たとえ合法でも心理的に行いづらく、分裂によって「王仁三郎が宗教団体から解放された」と感じたので、公開を決意したのだという。
つまりインターネットを用いた飯塚の活動は、第三次大本事件が社会に与えた影響の一つだと言える。
略年表
この年表は『大本略年表』『第三次大本事件の真相』を主な資料として作成した。
分裂後の出来事については、どのグループの出来事なのか区別が付くように、項目の頭に (連)守る会・大本信徒連合会 (愛)いづとみづの会・愛善苑 と入れた。
- 昭和21年(1946年)2月7日:大本は「愛善苑」として新発足する。初代苑主・出口王仁三郎。
- 昭和23年(1948年)1月19日:出口王仁三郎昇天。二代苑主・出口澄子。
- 昭和24年(1949年)10月29日:「大本愛善苑」に改称。
- 昭和27年(1952年)
- 昭和33年(1958年)
- 昭和37年(1962年)
- 昭和42年(1967年)
- 昭和43年(1968年)
- 昭和44年(1969年)
- 7月:出口栄二の宣伝使剥奪・教学委員解任。
- 10月:出口和明著『大地の母』毎日新聞社から発刊。
- 12月:出口直美が四代教主継承者に決定される。
- 昭和51年(1976年)
- 3月:総長制が復活。出口京太郎が総長に就任。
- 昭和55年(1980年)
- 昭和56年(1981年)
- 昭和57年(1982年)
- 昭和58年(1983年)
- 5月:(連)守る会の機関誌『愛善世界』創刊。
- 昭和59年(1984年)
- 3月24日:(連)愛善荘(綾部市上野町)鎮座祭。
- 昭和60年(1985年)
- 昭和61年(1986年)
- 1月30日:出口京太郎が教主補補佐に任命される。
- 11月7日:(愛)愛善苑発足奉告祭。
- 昭和62年(1987年)
- 昭和63年(1988年)
- 1月23日:出口聖子が教主代行に就任。
- 9月22日[15]:(愛)出口和明、昭弘、坂田が訴訟取り下げ。10月6日に成立。
- 平成元年(1989年)
- 3月:(愛)八幡書店が『霊界物語』刊行開始。
- 8月6日:(愛)愛善苑会館(亀岡市中矢田)完成祭。
- 平成2年(1990年)
- 8月:(愛)『いづとみづ』が『神の国』に改題。
- 9月23日:三代教主・出口直日昇天。出口聖子が四代教主に就任。
- 同日:(連)出口直美は四代教主に就任。
- 10月12日:(連)出口栄二は訴訟取り下げ。15日に成立。
- 平成3年(1991年)
- 4月1日:(連)大本信徒連合会が発足。
- 4月3日:(愛)窪田、梅園は和解調停を受け入れて訴訟取り下げ。[16]
- 8月21日(旧7月12日):出口王仁三郎生誕120年
- 12月8日:教団執行部は反教団事件訴訟終結奉告祭を執行。
- 12月25日:三代教主補・出口日出麿が昇天。
- 平成4年(1992年)
- 平成21年(2009年)
- 7月21日:大本教団執行部は梅松苑内に居住する出口直美に対して、建物を明け渡して退去するよう、京都地裁に提訴。
- 平成23年(2011年)
- 平成24年(2012年)
- 11月2日:出口直美への建物明け渡し訴訟の最高裁判決が出る。上告棄却。[9]
予言
- 王仁三郎は第二次事件の保釈出所後に「大本事件は松竹梅事件だ。第三次は竹だ」と言って、三度目の事件があることを予言していた。第一次大本事件は大阪・梅田の大正日日新聞社で王仁三郎は検挙された。第二次大本事件は島根の松江別院で王仁三郎は検挙された。第三次大本事件は兵庫県の竹田に新たに主会(地方機関)を作ろうとして火がついた[17]。[18] [19]
主な参考文献
【大本教団側の資料】
- 大本本部、平成3年12月8日付「出口栄二事件 いづとみづ事件 訴訟終結報告」、『愛善苑』平成4年(1992年)1月号付録、全32頁
- 「反教団事件」の本質 - 大本本部公式サイト
【大本信徒連合会側の資料】
【愛善苑側の資料】
- 十和田龍(出口和明)『第三次大本事件の真相』
- 出口和明『スサノオと出口王仁三郎』195~205頁
関連項目
脚注
- ↑ 『第三次大本事件の真相』152頁
- ↑ 大本信徒連合会公式サイト「なぜ栄二先生は提訴されたか?」
- ↑ 玉鏡「直美と操」#は昭和57年(1982年)10月発行の第四刷194頁には存在するが、昭和61年(1986年)1月発行の第六刷192頁では、直美に関する文章が削除され、操に関する文章だけになり、項目名が「生まれかわり」に変更されている。
- ↑ 大本信徒連合会公式サイト「神定の教主」:〈四代教主の出口直美は、生まれたときに出口王仁三郎聖師から肉体的・霊統的条件を満たすことを審神(さにわ)され、「直美は開祖の生まれ変わりだ」と言われており、また二代教主の澄子が書いた『大福帳』(だいふくちょう)には、直美が御世継であるとはっきり指名されています。 昭和21年4月に王仁三郎が直美に与えた三冊の歌集等には、「四代に与ふ」と王仁三郎が署名しており、直美もまた、その母親である直日と同様、生まれたときから教主として神業に奉仕することが宿命づけられていたのでした。〉
- ↑ 「清泉の小川を」
- ↑ 『第三次大本事件の真相』170頁
- ↑ 『愛善苑 (機関誌)』昭和56年(1981年)1月号、1~3頁(年頭の辞)/『教主御教示集 (三代教主)』317~319頁。
- ↑ 大本信徒連合会公式サイト「地裁判決文」
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 大本信徒連合会公式サイト「勝訴判決確定のお知らせ」
- ↑ 主に大宅壮一文庫で採録した情報であり、主要な雑誌の記事はほとんど掲載されているはずである。
- ↑ 著作権は特別な契約がない限り遺産相続者が共同で権利を持つことになる。著作物を出版するときには権利者全員の許可が必要となる。つまり大本教団(天声社)は愛善世界社や八幡書店に対して霊界物語の出版差し止めを求めることが可能である。しかし両社とも権利者(愛善世界社なら出口直美、八幡書店なら出口和明)がいるため、逆に天声社に対して出版差し止めを求めることも可能である。愛善世界社や八幡書店は、もし教団側から訴えられたら訴え返すという前提で霊界物語の出版に踏み切ったのだと思われる。
- ↑ 『おほもと』昭和37年(1962年)8・9月合併号、18~21頁/『教主御教示集 (三代教主)』75~78頁。
- ↑ 「株式会社いづとみづの会」設立登記。
- ↑ 略年表
- ↑ 大本年表(まつのよ第6号付録)
- ↑ 『神の国』平成3年(1991年)5月号、34頁「第三次大本事件裁判終結について」
- ↑ 昭和55年(1980年)に執行部側で、三丹主会から分離独立して「宮垣主会」を作ろうとしたことが、反執行部側で問題視された。結局同年8月7日に宮垣分苑が設立された。
- ↑ 三度目の事件 - 大本信徒連合会公式サイト
- ↑ 『第三次大本事件の真相』214頁