天恩郷

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昭和7年(1932年)頃の天恩郷。(『天恩郷全景』より)

天恩郷(てんおんきょう)は、綾部梅松苑と並ぶ大本二大聖地の一つで、宣教の拠点となる神苑。京都府亀岡市(旧・南桑田郡亀岡町)にあり、明智光秀の居城だった亀山城址に造営された。

旧称「万寿苑」、雅称「花明山(かめやま)」。

綾部の聖地は「天国」を、亀岡の聖地は「霊国」を地上に移写したものとして造営された。[1] [2]

現在は大本本部亀岡宣教センターが置かれている。

目次

造営

亀山城明智光秀(?~1582年)が天正5年(1577年)頃、丹波攻略の拠点とするために築城したもので、保津川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に築かれた。光秀は天正8年(1580年)に丹波国を拝領し、城下町の整備と領国経営に着手するが、2年後の天正10年(1582年)に「本能寺の変」が起こり、その後の「山崎の戦い」で光秀は死んでしまう。[3]

亀山城はその後、小早川秀秋によって修築され、慶長15年(1610年)に五重の天守閣を持った城が完成する。[3]

幕末には松平家の居城になっており、明治に入ると田中源太郎(貴族院議員)らの所有となっていた。大本が入手した時には天主閣はもちろん城の石垣までが売り払われ、雑木雑草が生い茂り、すっかり荒れ果てていた。[4]

王仁三郎が幼い頃はまだ天守閣があったが、13~4歳の頃にはもう天守閣がなくなり、光秀の手植えの樹と伝えられている公孫樹の大木と、角櫓(すみやぐら、城廓の隅に立てた櫓のこと)、石垣だけが残っていた。王仁三郎は当時を回顧して次の歌[5]を詠んでいる。[6]

  • いとけなき頃は雲間に天守閣白壁はえしを懐かしみけり[7]
  • 旧城跡落ちたる瓦の片あつめ城のかたちを造りて遊びぬ[7]
  • 待てしばし昔の城にかへさむと雄たけびしたる若き日の吾

大正8年(1919年)11月18日、王仁三郎は穴太の小幡神社の社務所で、亀山城址の所有者と買収の交渉を行い、城址1万3500坪を3千円(現在の貨幣価値で400万円前後[8] [9])で購入する契約が成立した。[4]

この地は神教宣布と瑞霊の神業の聖地と定められ、大正9年(1920年)4月27日に山開式、6月13日に地鎮祭が行われ、造営が始まった。[4]

大正9年(1920年)8月に大道場としてバラック建ての建物が一棟建てられ、翌10年7月10日は王仁三郎の居室兼事務所として「瑞祥閣」が建てられた。しかし第一次大本事件(大正10年2月)によってその他の建設工事は中断した。[10]

大正14年(1925年)の節分大祭を期に、本格的に神苑整備が始まった。それまで「万寿苑」と呼ばれていたが、同年2月24日「天恩郷」と命名された。また、天恩郷の月照山より北側の部分を「万寿苑」、南側を「千秋苑」と呼ぶことになった。[10] [11]

まず第一着手として、瑞祥閣の前に「月の輪台」(大正14年3月完成)が造られ、続いて「光照殿」(大正14年10月完成)が建てられ人類愛善会総本部と世界宗教連合会東洋本部が置かれた。それまではランプが使われていたが、同年5月23日に天恩郷に電灯が点けられた。(綾部は9月24日に電灯が点く)[10]

昭和5年(1930年)の8月と9月に、隣接する東側の土地1万1千坪を5万6700円で買収した。現在の万祥殿や植物園、東光苑がある辺りで、当時は竹ヤブや田地だった。[12]

主な建造物(戦前)

昭和10年の第二次大本事件までに造られた主な建造物は次の通りである。

破壊と再建

昭和10年(1935年)12月8日、第二次大本事件が勃発する。翌11年5月以降、当局によって天恩郷は全て破壊された。

土地は王仁三郎名義だったが、不法に売却され、昭和11年3月21日に亀岡町に移転登記された。2万4503坪が2214円12銭(現在の貨幣価値で約400万円前後[13])で売却されたが、当時の地価の百分の一にも及ばない不当に安い値段だった。[14]

売却後の土地は、亀岡町役場や商工会で利用方法が協議され、昭和15年5月に亀岡町会で京都大学に寄付することが決議されたが、6月に土地返還請求の提訴がなされたため、実現されなかった。[15]

第二次大戦後、和解によって亀岡町から土地が返還されることになり、昭和20年10月18日に土地移転の登記が完了した(綾部は11月15日)。[16]

食糧事情が困難な時代だったので、天恩郷の広場を一定期間、町民らに畑地として貸し出すことになった。[17]

天恩郷の再建にあたって最初に建造が決まったのは王仁三郎澄子夫妻の居館となる「瑞祥館」(昭和21年12月完成)で、次に月照山月の輪台が築造されて行った。[18]

現在の天恩郷の総面積は約8万2千平方メートル(約2万5千坪)ある。[19]

主な建造物(戦後)

略年表

(未作成)

映画撮影

天恩郷で撮影した映画には、次のものがある。

大本の映画

  • 昭和10年(1935年)8月、王仁三郎主演『昭和の七福神』を撮影。16ミリフィルム、全2巻、800フィート。同年9月6日に透明殿で試写。9月25日に大祥殿にて一般公開。
  • 昭和10年(1935年)10月13日、穴太で十六神将の撮影。 →「十六神将
  • 昭和10年(1935年)11月、王仁三郎の自伝映画『聖師伝』撮影。

他にもある。『大本七十年史 下巻』「あらたな展開#」を参照。

一般の映画

  • 昭和7年(1932年)4月公開『異色水戸黄門』日活、94分、無声:「大本年表」によると昭和7年3月2日に天恩郷と穴太で二日間、日活映画のロケを行った。「異色 水戸黄門(日活公式サイト)」を参照。
  • 昭和7年(1932年)5月11日に「日活映画の片岡千恵蔵ら一行、ロケに来亀」と「大本年表」に書いてあるが、どの映画なのかは不明。
  • 昭和50年(1975年)公開『激突!合気道』、東映:植芝盛平の若き日の苦闘を描いたアクション映画。 →「激突!合気道

その他

霊界物語に登場するメソポタミヤの顕恩郷は、当初は「天恩郷」という名称だった。 →「顕恩郷」を見よ

脚注

  1. 『出口王仁三郎著作集 第3巻』「庭園#」、初出『月明』昭和2年5月号「言林」の「庭園」
  2. 『大本七十年史 下巻』「みろく大祭#
  3. 3.0 3.1 明智光秀~1人でも多くの人に知ってもらいたい(亀岡市観光協会の公式サイト内)
  4. 4.0 4.1 4.2 『大本七十年史 上巻』「亀岡大道場#
  5. 故郷の二十八年」に収録されている23~4歳の頃の思い出。『出口王仁三郎全集 第8巻』「城跡#
  6. 『大本七十年史 上巻』「亀山城のあと#
  7. 7.0 7.1 追懐歌碑にも彫られている。
  8. 日本円貨幣価値計算機」で計算すると、1919年の3000円は2017年の約345万円(GDP)から約457万円(CPI)に相当する。
  9. 現在の亀岡駅周辺の地価は坪単価約33万円なので、1万3500坪は約45億円になる。参考サイト:土地代データ
  10. 10.0 10.1 10.2 『大本七十年史 上巻』「国内宣教と造営#
  11. 水鏡「天恩郷の命名」#:「天恩郷を南北に別けて、月照山の以北を万寿苑と名づけ、以南を千秋苑と命名した」
  12. 『大本七十年史 下巻』「本部の体制#
  13. 日本円貨幣価値計算機」で計算すると、1936年の2214円は2017年の約375万円(GDP)から約441万円(CPI)に相当する。
  14. 『大本七十年史 下巻』「土地の不法処分#
  15. 『大本七十年史 下巻』「土地返還請求の提訴#
  16. 『大本七十年史 下巻』「土地返還訴訟の解決#
  17. 『大本七十年史 下巻』「3 新生への準備#
  18. 『大本七十年史 下巻』「両聖地の整備#
  19. 天恩郷内の案内図の説明による。

関連項目

外部リンク