亀岡

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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亀岡(かめおか)は、出口王仁三郎の出身地。大本の二大聖地の一つ「天恩郷」がある。

歴史

現在は京都府亀岡市だが、当時は京都府南桑田郡亀岡町だった。

  • 明治22年(1889年)4月、町村制が施行され、亀岡町が誕生。
  • 明治31年(1898年)2月、高熊山修業
  • 大正8年(1919年)11月、王仁三郎は亀山城址を購入。その後神苑(天恩郷)として整備。
  • 昭和30年(1955年)1月、隣村と合併し、亀岡市となる。
  • 昭和30年(1955年)6月、日本で二番目に、世界連邦都市宣言を行う。(一番目は綾部市)
  • 昭和31年(1956年)9月、国道9号線の亀岡地区の工事完了[1]
  • 昭和34年(1959年)9月、篠村が亀岡市に編入され、南桑田郡は消滅。

鉄道

  • 明治32年(1899年)8月15日:亀岡駅・八木駅・園部駅が開業する。嵯峨駅(現・嵯峨嵐山駅)~園部駅間が開通(現在の山陰本線、当時は京都鉄道)。[2]

穴太と亀岡

王仁三郎の生地は穴太村である。明治22年に合併により曽我部村穴太になり、昭和30年に亀岡町と合併して亀岡市曽我部町穴太となる。そのため「亀岡は王仁三郎の出身地」という認識は昭和30年以降のことである。

晩年の居住地

王仁三郎は明治32年(1899年)に穴太から綾部に移住してからは、綾部に住み、綾部を活動の拠点としていたが、大正10年(1921年)の大本事件以後、活動の中心を亀岡に移すことにし、大正14年(1925年)の節分大祭を機に天恩郷の造営を開始。亀岡に居を移し、自ら造営の陣頭指揮を取った[3]

昭和10年(1935年)第二次大本事件で検挙・投獄された王仁三郎は、昭和17年(1942年)8月7日、責付出獄し亀岡に帰り、中矢田農園内の家を居宅とした。それ以降、昭和23年(1948年)1月19日に昇天するまで亀岡で過ごす。

地理

亀岡は周囲を山に囲まれた亀岡盆地にある。中心部を大井川(桂川)が流れている。

古代

  • 「太古は亀岡地方はおおきな湖水となっていたようで、亀山城のあたりはその丘陵地であった。口碑のつたえるところでは、大国主命が保津川を掘り、流水の便をはかったという。また一説には、丹波とは「赤い波」の意で「あかなみ」=丹波といったともいう」〔『大本七十年史 上巻』「亀岡大道場#」〕
  • 古代は丹波国桑田郡たったが、明治12年(1879年)に南桑田郡と北桑田郡に分離する。
  • 亀岡市内には丹波国分寺や、丹波国一宮の出雲大神宮があり、10世紀には丹波国の国府が桑田郡にあったと考えられている。
  • もともとは「亀山」と呼んでおり、江戸時代は亀山藩が置かれていた。明治2年(1869年)三重県の亀山と混同するため「亀岡」藩と改称。明治4年(1871年)7月14日[4]、廃藩置県により亀岡県となり、同年11月22日に近隣の県と統廃合し京都府となる。

亀山城と天恩郷

明智光秀(1528~1582年)が天正6年(1578年)から「亀山城」を築城。明治22年(1889年)に払い下げられ、大正8年(1919年)に王仁三郎が購入し、神苑「天恩郷」を造営した。

大本の聖地・霊地

神社・寺院

  • 小幡神社:王仁三郎の産土神社。
  • 出雲大神宮(元出雲):戦前は「出雲神社」と称していた。大正15年(1926年)6月17日王仁三郎が出雲神社に参拝した時の歌日記「仰ぎ見るさへも畏き御影山《みかげやま》は国常立の神の隠れ処《が》」[5]。神殿背後の神体山の祭神が国祖だということを王仁三郎は認識していた。
  • 愛宕神社(元愛宕)
  • 盤栄稲荷神社(元稲荷)
  • 安行山晴明神社
  • 鍬山神社

霊界物語での亀岡

  • 第37巻第38巻の自叙伝で、亀岡(亀岡町)が舞台として登場する。
  • 太古の神代の物語としては、亀岡という地名は登場しない。

脚注

  1. 『亀岡市史 下巻』p.212 ----国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『亀岡市史 下巻』 PID:2988978/1/117
  2. 国立国会図書館デジタルコレクション蔵書『官報 明治32年(1899年)8月23日p291』 PID:2948134/6
  3. 『大本七十年史 上巻』「国内宣教と造営#
  4. 王仁三郎が生まれた時点(明治4年7月12日)では、廃藩置県前なので、まだ亀岡藩だった。
  5. 『真如の光』大正15年(1926年)6月25日号p.24

関連項目

外部リンク