天恩郷の三基の歌碑

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
懐古歌碑から転送)
昭和8年に建立された教歌碑(中)と懐古歌碑(左右)。
戦後再建された教歌碑(中)と懐古歌碑(左右)。2007年11月撮影。

天恩郷の三基の歌碑(てんおんきょうの さんきの かひ)とは、昭和8年(1933年)11月25日に天恩郷内に建立された三基の歌碑のことである[1]。かつては「東光苑歌碑」と呼ばれていた。第二次大本事件で破壊されたが、戦後三基とも再建された。

名称

中央の一基を「教歌碑」と呼び、左右の二基を「懐古歌碑」と呼ぶ。ただし名称は一定していない。下記のように教歌碑を「教碑」「神声歌碑」と呼んだり、懐古歌碑を「追懐歌碑」と呼んでいる場合もある。

  • 神の国』昭和9年2月号93頁に〈天恩郷の歌碑は中央を「教碑」左右を「追懐碑」とそれぞれ今度聖師によつて命名された〉とある。
  • 大本写真大観』(昭和9年8月刊)[2]では三基全体を「東光苑歌碑」と呼び、中央を「教碑」、左右を「懐古歌碑」と呼んでいる。
  • 出口総裁歌碑集』(昭和10年1月刊)では「神声歌碑」「懐古歌碑」と呼んでいる。
  • 出口王仁三郎全集 第七巻(歌集)』(昭和10年8月刊)[3]では「教歌碑」「追懐歌碑」と呼んでいる。
  • 「皇道大本 綾部総本部 亀岡本部 見取図」[4]では「神声歌碑」「懐古歌碑」と呼んでいる。

名称は戦後も一定していない。

  • 大本年表」の昭和8年11月25日の項[5]では「教歌碑」「追懐歌碑」と呼んでいる。
  • 大本年表(まつのよ6号付録)」[6]では「神声歌碑」「懐古歌碑」と呼んでいる[7]
  • 大本七十年史 下巻』(昭和42年刊)では「教碑」「懐古歌碑」と呼んでいる場合が多いが[8]、「教碑」「追懐碑」と呼んでいる場合もある[9]

現在の大本教団では「教歌碑」「懐古歌碑」と呼んでいるようである[10]

本項では現在の大本教団に準拠して「教歌碑」「懐古歌碑」と呼ぶことにする。戦前は三基全体を「東光苑歌碑」と呼んでいたようだが、現在は、三基全体を呼ぶ時には「教歌碑・懐古歌碑」と呼んだり、代表して「教歌碑」と呼んだりするようである。本項の「天恩郷の三基の歌碑」という呼び方は、記事を書くために便宜的に付けた名前である。

【教歌碑(中央)】

鶴山に妻は錦の機を織り吾亀岡に万代を教ふ

【懐古歌碑(右)】

いとけなき頃は雲間に天守閣白壁はえしを懐かしみけり

旧城跡落ちたる瓦の片あつめ城のかたちを造りて遊びぬ

【懐古歌碑(左)】

玉の井の池に湧き立つ真清水はみつの三魂の命なりけり

寝ながらに月を仰ぎしあばら家のむかしの住居吾眼に新らし

(『出口王仁三郎全集 第七巻』「巻上#」にフリガナ付きの歌が掲載されている)

略史

  • 昭和8年(1933年)11月25日(旧10月8日):天恩郷の東光苑に建立された教歌碑と追懐歌碑二基、計三基の除幕式が行われた。同じ日に、月照山山麓に建立された前田夕暮の歌碑の除幕式も行われている。どちらの除幕式も大勢の歌人が参列して行われた。[11] [12]
  • 第二次大本事件で破壊される。
  • 昭和37年(1962年)8月7日、教歌碑が再建される。(大本開教70年記念)
  • 昭和46年(1971年)8月6日、二基の懐古歌碑が再建される。(王仁三郎生誕100年記念)

戦後再建された三基の歌碑が建っている場所は、戦前の歌碑の位置とは少し異なる。

ギャラリー

関連項目

脚注

  1. 「天恩郷の三基の歌碑」という固有名詞なのではなく、オニペディアにおいて便宜的に名付けただけである。
  2. みいづ舎復刻版では136頁
  3. 口絵写真、及び本文2頁
  4. 大本写真大観』みいづ舎復刻版の付録として付いている第二次大本事件裁判資料。8頁に亀岡本部の見取図がある。
  5. 『[[大本教学 (教学誌)|]] 第13号』収録「大本年表(七)」
  6. 平成15年(2003年)発行
  7. 昭和8年、昭和37年・46年再建、3ヶ所とも。
  8. 大本七十年史 下巻』「内外多事#」など
  9. 大本七十年史 下巻』「神苑の造営と祭事#
  10. 【例】天恩郷のパンフレットや、『みろくのよ』平成24年(2012年)4月号、21頁「現在の東松林には、南向きに教歌碑(中央)と懐古歌碑(左右に一基ずつ)が立っていた」。
  11. 『大本七十年史 下巻』「内外多事#
  12. 『神の国』昭和9年(1934年)1月号125頁