「出口王仁三郎」の版間の差分

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* 曽孫・[[出口恒]](ひさし):昭和32年(1957年)生まれ。和明の三男。『[[誰も知らなかった日本史]]』著者。平成31年(2019年)帰幽。 ({{wp|出口恒}})
* 曽孫・[[出口恒]](ひさし):昭和32年(1957年)生まれ。和明の三男。『[[誰も知らなかった日本史]]』著者。平成31年(2019年)帰幽。 ({{wp|出口恒}})
* 曽孫・[[出口鯉太郎]](こいたろう):昭和35年(1960年)生まれ。王仁三郎の五女(四女)[[尚江]]の長男・[[尚雄]]の長男。備前焼の陶芸家。人間国宝・金重陶陽(かねしげ とうよう)の孫でもある(金重陶陽の三女・美和子が尚雄と結婚した)。
* 曽孫・[[出口鯉太郎]](こいたろう):昭和35年(1960年)生まれ。王仁三郎の五女(四女)[[尚江]]の長男・[[尚雄]]の長男。備前焼の陶芸家。人間国宝・金重陶陽(かねしげ とうよう)の孫でもある(金重陶陽の三女・美和子が尚雄と結婚した)。
== 略史 ==
出口王仁三郎の人生の主要な部分は大本の歴史と同じである。
 →「[[大本#略史]]」


== 略年表 ==
== 略年表 ==
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* 昭和23年(1948年)1月19日(76歳):昇天
* 昭和23年(1948年)1月19日(76歳):昇天


== 少年青年時代 ==
== 略史 ==
<書きかけ>
出口王仁三郎は明治32年(1899年)綾部に移住し大本での活動を開始した。それ以降の人生は大本の歴史と同じである。
 
→「[[大本の歴史]]」
 
ここではそこに書き切れない細かな事柄を記す。
 
=== 少年青年時代 ===


* 祖父の[[吉松]]は喜三郎が生まれて半年後に病気で亡くなった。亡くなる直前に喜三郎の両親を枕頭に招いて次のように遺言した。「上田家は古来から七代目に必ず偉人が現れて天下に名を顕したものである。有名な画伯・[[円山応挙]](本名は上田主水)は自分の五代前の祖先である。今度の孫はちょうど七代目に当たるから、必ず何かの事で天下に名を顕すものになるであろう。先日も易者に孫の人相を観てもらったら、この子はあまり学問をさせると親の屋敷に居らぬようになる。しかし善悪に由らず、いずれにしても変わった子であるから十分気をつけて育てよ、とのことであった。私は死んでも霊魂は生きて、孫の生い先を守ってやる。この子は成長して名を顕しても我が家の力にはならないが、天下に美名を上げてくれれば祖先の名誉であり、天下のためであるから、大事に養育せよ」と言い終わると、眠るように帰幽した。<ref>『[[出口王仁三郎全集]] 第八巻』[[故郷の二十八年]]「{{obc|B121808c09|祖父の遺言}}」</ref>
* 祖父の[[吉松]]は喜三郎が生まれて半年後に病気で亡くなった。亡くなる直前に喜三郎の両親を枕頭に招いて次のように遺言した。「上田家は古来から七代目に必ず偉人が現れて天下に名を顕したものである。有名な画伯・[[円山応挙]](本名は上田主水)は自分の五代前の祖先である。今度の孫はちょうど七代目に当たるから、必ず何かの事で天下に名を顕すものになるであろう。先日も易者に孫の人相を観てもらったら、この子はあまり学問をさせると親の屋敷に居らぬようになる。しかし善悪に由らず、いずれにしても変わった子であるから十分気をつけて育てよ、とのことであった。私は死んでも霊魂は生きて、孫の生い先を守ってやる。この子は成長して名を顕しても我が家の力にはならないが、天下に美名を上げてくれれば祖先の名誉であり、天下のためであるから、大事に養育せよ」と言い終わると、眠るように帰幽した。<ref>『[[出口王仁三郎全集]] 第八巻』[[故郷の二十八年]]「{{obc|B121808c09|祖父の遺言}}」</ref>
* [[タダアイ事件]]:上田喜三郎が12歳の時、教師と対立して退学処分になった事件。
* [[タダアイ事件]]」:上田喜三郎が12歳の時、教師と対立して退学処分になった事件。
* [[久兵衛池事件]]:上田喜三郎が15歳の時、自宅にある久兵衛池の埋め立てをめぐり上田家と村人たちが対立した事件。
* [[久兵衛池事件]]」:上田喜三郎が15歳の時、自宅にある久兵衛池の埋め立てをめぐり上田家と村人たちが対立した事件。


== 高熊山修業以降 ==
=== 高熊山修業以降 ===
<書きかけ>


=== 高熊山修業 ===
==== 高熊山修業 ====
明治31年(1898年)3月1日(旧2月9日)、上田喜三郎は神使([[松岡仙人]])に導かれ、自宅近くの[[高熊山]]で一週間の霊的修業を行った。→「[[高熊山修業]]」
明治31年(1898年)3月1日(旧2月9日)、上田喜三郎は神使([[松岡仙人]])に導かれ、自宅近くの[[高熊山]]で一週間の霊的修業を行った。→「[[高熊山修業]]」


=== 長沢雄楯との出会い ===
==== 長沢雄楯との出会い ====
<書きかけ>
 
明治31年(1898年)4月3日、[[稲荷講社]]総本部の配札係<ref>「配札(はいさつ)」とは御札を配ること。</ref>・[[三矢喜右衛門]]が綾部の喜三郎のもとを訪ねて来た。総本部の総理・[[長沢雄楯]]に、因縁のある人物だから調べて来いと言われたという。
明治31年(1898年)4月3日、[[稲荷講社]]総本部の配札係<ref>「配札(はいさつ)」とは御札を配ること。</ref>・[[三矢喜右衛門]]が綾部の喜三郎のもとを訪ねて来た。総本部の総理・[[長沢雄楯]]に、因縁のある人物だから調べて来いと言われたという。


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</ref>
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)、喜三郎は生まれて初めて汽車に乗り、三矢の案内で静岡の長沢の宅へ向かった。
)、喜三郎は生まれて初めて汽車に乗り、三矢の案内で静岡の長沢の宅へ向かった。
<書きかけ>


4月22日の夜、穴太の自宅に帰宅した。
4月22日の夜、穴太の自宅に帰宅した。


=== 「王仁三郎」の名の由来 ===
==== 「王仁三郎」の名の由来 ====
* 上田喜三郎がまだ亀岡で幽斎研究を続けていた頃、ひそかに出修に行けという神示が降りた。そこで友人の斎藤だけに話して、母には心配しないように書き置きを残して出かけた。このとき書き置きに、ふと「鬼三郎(きさぶろう)」と署名した。<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1432|布教活動と警察の干渉|P156-157}}」</ref>
* 上田喜三郎がまだ亀岡で幽斎研究を続けていた頃、ひそかに出修に行けという神示が降りた。そこで友人の斎藤だけに話して、母には心配しないように書き置きを残して出かけた。このとき書き置きに、ふと「鬼三郎(きさぶろう)」と署名した。<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1432|布教活動と警察の干渉|P156-157}}」</ref>
* 明治36年(1903年)旧4月27日(新5月23日)の筆先で「会長(喜三郎のこと)は神界では出口おに三郎と名を致すから」云々と出た(筆先なので本来は全文平仮名)。喜三郎は「おに」に「王仁」の文字を宛て、以後「王仁三郎(おにさぶろう)」と名乗るようになった。<ref>出口和明『[[大地の母]] 第8巻』「岩戸開き」</ref> <ref>この筆先は大本神諭にはなっていない。『[[大本史料集成]]Ⅰ』p211(5月23日の筆先)、『大本神諭([[五巻本]])第三集』p76(旧4月27日の筆先)に掲載されている。両者の文面が多少異なるが、史料集成のものが原文に近いと思われる。大地の母(第8巻「岩戸開き」)に引用されているものは五巻本のもの。</ref> <ref>「[[故郷の二十八年]]」では「王仁三郎と名告《なの》つたのは参綾後に神界より賜つた名」だと記している。『出口王仁三郎全集 第八巻』「{{obc|B121808c06|上田の家庭}}」</ref>
* 明治36年(1903年)旧4月27日(新5月23日)の筆先で「会長(喜三郎のこと)は神界では出口おに三郎と名を致すから」云々と出た(筆先なので本来は全文平仮名)。喜三郎は「おに」に「王仁」の文字を宛て、以後「王仁三郎(おにさぶろう)」と名乗るようになった。<ref>出口和明『[[大地の母]] 第8巻』「岩戸開き」</ref> <ref>この筆先は大本神諭にはなっていない。『[[大本史料集成]]Ⅰ』p211(5月23日の筆先)、『大本神諭([[五巻本]])第三集』p76(旧4月27日の筆先)に掲載されている。両者の文面が多少異なるが、史料集成のものが原文に近いと思われる。大地の母(第8巻「岩戸開き」)に引用されているものは五巻本のもの。</ref> <ref>「[[故郷の二十八年]]」では「王仁三郎と名告《なの》つたのは参綾後に神界より賜つた名」だと記している。『出口王仁三郎全集 第八巻』「{{obc|B121808c06|上田の家庭}}」</ref>
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* 明治45年(1912年)2月21日、出口家の戸主となり家督相続する。
* 明治45年(1912年)2月21日、出口家の戸主となり家督相続する。


=== 思想形成 ===
==== 思想形成 ====
王仁三郎の思想は明治30年代後半にすでに形成されていた。
王仁三郎の思想は明治30年代後半にすでに形成されていた。


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* 感謝祈願の祝詞はこの時初めての出版にして朝夕唱へし〔527頁〕
* 感謝祈願の祝詞はこの時初めての出版にして朝夕唱へし〔527頁〕


== 第一次大本事件以降 ==
=== 第一次大本事件以降 ===
<書きかけ>


王仁三郎は第一次大本事件以降は大衆の前に立つことがなく、再び大衆の前に現れたのは昭和9年8月12日、昭和神聖会京都地方本部発会式においてである。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5304|地方組織の拡大}}」p177「第一次大本事件以後、かつて一度も公衆の前に立つことのなかった聖師が、統管として壇上にあがり、聖師みずからによる昭和神聖会結成の決意がひれきされた」</ref> <ref>[[大国美都雄]]『[[真偽二道]]』p183「出口聖師は、第一次大本事件以来、一度も大衆の前に立ったことがなかったが、今回は神聖会の統管として壇上に上がり、来会者に叫びかけた」</ref> (信者以外を対象にした講演等を行わなかったという意味)
* 王仁三郎は第一次大本事件以降は大衆の前に立つことがなく、再び大衆の前に現れたのは昭和9年8月12日、昭和神聖会京都地方本部発会式においてである。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5304|地方組織の拡大}}」p177「第一次大本事件以後、かつて一度も公衆の前に立つことのなかった聖師が、統管として壇上にあがり、聖師みずからによる昭和神聖会結成の決意がひれきされた」</ref> <ref>[[大国美都雄]]『[[真偽二道]]』p183「出口聖師は、第一次大本事件以来、一度も大衆の前に立ったことがなかったが、今回は神聖会の統管として壇上に上がり、来会者に叫びかけた」</ref> (信者以外を対象にした講演等を行わなかったという意味)


=== Onisavulo ===
==== Onisavulo ====
「王仁三郎」の[[エスペラント語]]での表記「Onisavulo」は、救世主というような意味になる。大正12年(1923年)頃にその事実が判明した。 →「[[Onisavulo]]」
「王仁三郎」の[[エスペラント語]]での表記「Onisavulo」は、救世主というような意味になる。大正12年(1923年)頃にその事実が判明した。 →「[[Onisavulo]]」


=== 入蒙 ===
==== 入蒙 ====
王仁三郎は大正13年(1924年)2月、信者を3人だけ連れて中国大陸に渡り、政治的に混乱していた蒙古を統一して宗教的王国を建設するため、馬賊を約1千名引き連れ、外蒙の庫倫(クーロン。現モンゴル首都ウランバートル)目指して行軍した。しかし途中で現地軍に捕まり強制帰国となった。 →「[[入蒙]]」
王仁三郎は大正13年(1924年)2月、信者を3人だけ連れて中国大陸に渡り、政治的に混乱していた蒙古を統一して宗教的王国を建設するため、馬賊を約1千名引き連れ、外蒙の庫倫(クーロン。現モンゴル首都ウランバートル)目指して行軍した。しかし途中で現地軍に捕まり強制帰国となった。 →「[[入蒙]]」


=== 綾部町議に当選 ===
==== 綾部町議に当選 ====
[[ファイル:京都日出新聞大正14年5月綾部町議選記事.jpg|thumb|大正14年(1925年)5月、王仁三郎の綾部町議選出馬及び当選を伝える『[[京都日出新聞]]』。]]
[[ファイル:京都日出新聞大正14年5月綾部町議選記事.jpg|thumb|大正14年(1925年)5月、王仁三郎の綾部町議選出馬及び当選を伝える『[[京都日出新聞]]』。]]


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* 一年間一度も出席しなかったことも歌に詠んでいる。「珍しく町会議員の肩書で奈良県各地を視察せし哉《かな》」「町会に一度も顔を出さずして一年間を過ぎにける哉」どちらも昭和3年(1928年)12月31日に詠んだ歌<ref>『真如の光』昭和4年(1929年)1月15日号p.4</ref>。
* 一年間一度も出席しなかったことも歌に詠んでいる。「珍しく町会議員の肩書で奈良県各地を視察せし哉《かな》」「町会に一度も顔を出さずして一年間を過ぎにける哉」どちらも昭和3年(1928年)12月31日に詠んだ歌<ref>『真如の光』昭和4年(1929年)1月15日号p.4</ref>。


== 第二次大本事件以降 ==
=== 第二次大本事件以降 ===
<書きかけ>


== 生活 ==
== 生活 ==