「出口王仁三郎」の版間の差分
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* この時に著述し置かずば後年に暇《いとま》の無きをさとりし故なり〔366頁〕 | * この時に著述し置かずば後年に暇《いとま》の無きをさとりし故なり〔366頁〕 | ||
* 感謝祈願の祝詞はこの時初めての出版にして朝夕唱へし〔527頁〕 | * 感謝祈願の祝詞はこの時初めての出版にして朝夕唱へし〔527頁〕 | ||
== 第一次大本事件以降 == | == 第一次大本事件以降 == | ||
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王仁三郎は第一次大本事件以降は大衆の前に立つことがなく、再び大衆の前に現れたのは昭和9年8月12日、昭和神聖会京都地方本部発会式においてである。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5304|地方組織の拡大}}」p177「第一次大本事件以後、かつて一度も公衆の前に立つことのなかった聖師が、統管として壇上にあがり、聖師みずからによる昭和神聖会結成の決意がひれきされた」</ref> <ref>[[大国美都雄]]『[[真偽二道]]』p183「出口聖師は、第一次大本事件以来、一度も大衆の前に立ったことがなかったが、今回は神聖会の統管として壇上に上がり、来会者に叫びかけた」</ref> (信者以外を対象にして講演等を行わなかったという意味) | 王仁三郎は第一次大本事件以降は大衆の前に立つことがなく、再び大衆の前に現れたのは昭和9年8月12日、昭和神聖会京都地方本部発会式においてである。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5304|地方組織の拡大}}」p177「第一次大本事件以後、かつて一度も公衆の前に立つことのなかった聖師が、統管として壇上にあがり、聖師みずからによる昭和神聖会結成の決意がひれきされた」</ref> <ref>[[大国美都雄]]『[[真偽二道]]』p183「出口聖師は、第一次大本事件以来、一度も大衆の前に立ったことがなかったが、今回は神聖会の統管として壇上に上がり、来会者に叫びかけた」</ref> (信者以外を対象にして講演等を行わなかったという意味) | ||
=== Onisavulo === | |||
「王仁三郎」の[[エスペラント語]]での表記「Onisavulo」は、救世主というような意味になる。大正12年(1923年)頃にその事実が判明した。 →「[[Onisavulo]]」 | |||
=== 入蒙 === | |||
王仁三郎は大正13年(1924年)2月、信者を3人だけ連れて中国大陸に渡り、政治的に混乱していた蒙古を統一して宗教的王国を建設するため、馬賊を約1千名引き連れ、外蒙の庫倫(クーロン。現モンゴル首都ウランバートル)目指して行軍した。しかし途中で現地軍に捕まり強制帰国となった。 →「[[入蒙]]」 | |||
=== 綾部町議に当選 === | === 綾部町議に当選 === | ||