「回顧録」の版間の差分
ページの作成:「'''回顧録'''(かいころく)とは、出口王仁三郎が第一次大本事件の前に執筆した青年時代の自叙伝で、機関誌『神霊界』に大正10年(1921年)1月から3月まで3号に亘って連載された。 == 1月1日号 == 見出し「高熊山」と「初陣」の2篇が掲載された。 どちらも最初は機関誌『このみち』第三号(大正5年6月10日刊)に、それぞれ「実説 本心─…」 |
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[[ファイル:神霊界大正10年2月1日号p59回顧録.jpg|thumb|『神霊界』大正10年2月号の「回顧録」]] | |||
'''回顧録'''(かいころく)とは、[[出口王仁三郎]]が[[第一次大本事件]]の前に執筆した青年時代の自叙伝で、機関誌『[[神霊界]]』に大正10年(1921年)1月から3月まで3号に亘って連載された。 | '''回顧録'''(かいころく)とは、[[出口王仁三郎]]が[[第一次大本事件]]の前に執筆した青年時代の自叙伝で、機関誌『[[神霊界]]』に大正10年(1921年)1月から3月まで3号に亘って連載された。 | ||
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「高熊山」と「初陣」に記されたエピソードは、新たな文章となって[[霊界物語]][[第37巻]]に収録された。「高熊山」のエピソードは{{rms|37|2|葱節}}、{{rms|37|6|手料理}}、{{rms|37|11|松の嵐}}に収録され、「初陣」は{{rms|37|13|煙の都}}、{{rms|37|14|夜の山路}}、{{rms|37|15|盲目鳥}}に収録されている。 | 「高熊山」と「初陣」に記されたエピソードは、新たな文章となって[[霊界物語]][[第37巻]]に収録された。「高熊山」のエピソードは{{rms|37|2|葱節}}、{{rms|37|6|手料理}}、{{rms|37|11|松の嵐}}に収録され、「初陣」は{{rms|37|13|煙の都}}、{{rms|37|14|夜の山路}}、{{rms|37|15|盲目鳥}}に収録されている。 | ||
* 『[[神霊界]]』大正10年(1921年)1月1日号「{{obc|M192919210101c22|回顧録 高熊山}}」 - 霊界物語ネット | |||
* 『[[神霊界]]』大正10年(1921年)1月1日号「{{obc|M192919210101c23|回顧録 初陣}}」 - 霊界物語ネット | |||
== 2月1日号・3月1日号 == | == 2月1日号・3月1日号 == | ||
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発端~第12章を霊界物語に収録するにあたり、王仁三郎は当時の大本幹部の激しい攻撃に遭って、『神霊界』掲載の文章から大幅な改変を余儀なくされた。 | 発端~第12章を霊界物語に収録するにあたり、王仁三郎は当時の大本幹部の激しい攻撃に遭って、『神霊界』掲載の文章から大幅な改変を余儀なくされた。 | ||
霊界物語筆録者の一人である[[桜井八洲雄]](桜井重雄)は、機関誌『[[神の国]]』大正14年(1925年)5月20日号に「霊界物語発刊当時を顧みて」と題して次のように書いている<ref>この桜井八洲雄の文章は[[愛善苑 (1986)|]]の機関誌『[[神の国 (1990)]] | 霊界物語筆録者の一人である[[桜井八洲雄]](桜井重雄)は、機関誌『[[神の国]]』大正14年(1925年)5月20日号に「霊界物語発刊当時を顧みて」と題して次のように書いている<ref>この桜井八洲雄の文章は[[愛善苑 (1986)|愛善苑]]の機関誌『[[神の国 (1990)|神の国]]』平成2年(1990年)10月号6頁に転載されているものから引用した。</ref>。 | ||
{{inyou|『霊界物語』の第一篇<ref>当初は「巻」ではなく「篇」と呼ばれていた。</ref>がいよいよ発刊されるといふことになって、発端の校正も済んで既に紙型にもとった後の事です。私は用があって瑞月先生のところへ伺ひますと、[[浅野和三郎]]、[[浅野正恭]]、[[今井梅軒]]、[[谷口雅春]]の諸氏が先生を取り巻いて何か話して居られるところでした。先生は『私はどうでもいいのや、皆のよいやうにして呉れたらいいのや』と言われて非常に当惑されてゐられたやうにお見うけしました。そして私が這入って行きますと『これはもうやめて呉れんか』と言われて渡されたのが、即ち『霊界物語』の第一篇の発端として既に紙型までとって印刷にかかってゐる校正刷なのです。すると浅野和三郎氏は、それを手にとって鉛筆で文章を直したり、弧線を引いて?をつけたりしました。}} | {{inyou|『霊界物語』の第一篇<ref>当初は「巻」ではなく「篇」と呼ばれていた。</ref>がいよいよ発刊されるといふことになって、発端の校正も済んで既に紙型にもとった後の事です。私は用があって瑞月先生のところへ伺ひますと、[[浅野和三郎]]、[[浅野正恭]]、[[今井梅軒]]、[[谷口雅春]]の諸氏が先生を取り巻いて何か話して居られるところでした。先生は『私はどうでもいいのや、皆のよいやうにして呉れたらいいのや』と言われて非常に当惑されてゐられたやうにお見うけしました。そして私が這入って行きますと『これはもうやめて呉れんか』と言われて渡されたのが、即ち『霊界物語』の第一篇の発端として既に紙型までとって印刷にかかってゐる校正刷なのです。すると浅野和三郎氏は、それを手にとって鉛筆で文章を直したり、弧線を引いて?をつけたりしました。}} | ||
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こうして王仁三郎は文章の大幅な改変をせざるを得なくなった。 | こうして王仁三郎は文章の大幅な改変をせざるを得なくなった。 | ||
[[大本神諭]] | [[大本神諭]]に不敬な箇所があるということが弾圧の理由となったが、その大本神諭に代わる新教典として霊界物語が作成された。しかし当時の大本幹部は開祖中心の宗教観のままであり、その視点から見た場合、回顧録(特に「序=発端」)の記述は問題だらけであった。そのため新教典に収録するにあたり王仁三郎に対して、無難な文章になるよう書き直しを要求することになった。 | ||
削除や訂正など改変された文章は主に次のような箇所である。 | 削除や訂正など改変された文章は主に次のような箇所である。 | ||
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* 大本の幹部や信者を批判した箇所。【例】〈大本の信者の大部分は真正に神諭の了解が出来て居ないから、体的経綸の神業者ヨハネ(注・出口直)を主とし、霊的経綸の神業者(注・王仁三郎)を従として居る人が多い。否な全部体主霊従の信仰に堕落して居るのである〉は削除。 | * 大本の幹部や信者を批判した箇所。【例】〈大本の信者の大部分は真正に神諭の了解が出来て居ないから、体的経綸の神業者ヨハネ(注・出口直)を主とし、霊的経綸の神業者(注・王仁三郎)を従として居る人が多い。否な全部体主霊従の信仰に堕落して居るのである〉は削除。 | ||
* 出口直より王仁三郎を重視しているような箇所。(上の例を参照) | * 出口直より王仁三郎を重視しているような箇所。(上の例を参照) | ||
* | * 当局を批判的に発言した箇所や、不敬・過激だと思われかねない箇所。【例】〈官憲の圧迫〉を〈其筋の誤解〉に、〈革命〉を〈改造〉に、〈皇徳〉を〈神徳〉に、〈天津日嗣天皇〉を〈天津日の神〉に変更。 | ||
特に「序=発端」は全体の半分以上が書き直しとなった。弾圧まで[[浅野和三郎]]ら幹部が大本に関する著書を多数発行していたが、それによって神意がねじ曲げられていることを王仁三郎は強く批判した。 | 特に「序=発端」は全体の半分以上が書き直しとなった。弾圧まで[[浅野和三郎]]ら幹部が大本に関する著書を多数発行していたが、それによって神意がねじ曲げられていることを王仁三郎は強く批判した。 | ||
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【参考文献】 | 【参考文献】 | ||
* 『[[出口王仁三郎著作集]] 第一巻』編者・[[村上重良]]による「解説」491~492頁 | * 『[[出口王仁三郎著作集]] 第一巻』編者・[[村上重良]]による「解説」491~492頁 | ||
* 『[[神の国 (1990)]] | * 『[[神の国 (1990)|神の国]]』平成2年(1990年)10月号、6~8頁掲載、[[窪田英治]]著「解説/愛善主義の主体は誰か」(回顧録の解説) | ||
* | * 『「回顧録」の真偽照合〔研修資料〕』平成10年(1998年)6月7日、愛善苑・編集、[[あいぜん出版]]・発行(回顧録と霊界物語を対照させ改変箇所を明示) | ||
== 脚注 == | == 脚注 == |