愛善苑 (1986)
この項目では、昭和61年(1986年)に発足した宗教団体について説明しています。その他の用法については「愛善苑 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
愛善苑(あいぜんえん)は、大本から派生した宗教団体。「いづとみづの会」を母体に昭和61年(1986年)に発足した。本部(事務局)は亀岡市中矢田町にあり、機関誌として『神の国』を発行する。
概要
大本教団改革運動として始まったいづとみづの会の運動は、宗教団体として独立する方向へ進み、昭和61年(1986年)11月に「愛善苑」が発足した。
発足当初は任意団体だったが、昭和62年(1987年)12月に京都府知事認証の宗教法人となる。
熊野館(出口和明の自宅)の西側隣接地に事務所棟と愛善苑会館を建て活動の拠点とした。
発足当初は「世界改造団体愛善苑」と称していた。また「神素盞嗚大神の宣伝使集団」とも称していた。
特徴
- 教主制を廃し、出口王仁三郎を「永遠の苑主」と仰ぐ。大本教団のように二大教祖・二大教典とせず、王仁三郎のみを教祖とし、霊界物語のみを根本教典とする。
- 奉斎主神として「神素盞嗚大神」を崇める。
- 御神号奉唱は「神素盞嗚大神」だけで、「惟神真道弥広大出口国直霊主命」は唱えない。[1]
- 「感謝祈願詞」は、大本教団が用いている途中省略バージョンではなく、「感謝」と「祈願」に分かれている完全バージョン(霊界物語第60巻第16章「祈言」#参照)を用いる。
- 祭式は皇道大本祭式を採用する。
- 彩色した十曜の神旗(霊界物語第13巻総説に基づくもの)を使用する。彩色された十曜の神旗は平成26年(2014年)に宗教法人愛善苑の登録商標として登録された。「登録5649697」(特許情報プラットフォーム)。
略年表
- 昭和55年(1980年)3月9日、いづとみづの会設立。
- 同年4月1日、機関誌『いづとみづ』創刊。
- 昭和56年(1981年)6月18日、運営委員会で愛善苑への方向を確認。
- 同年11月7日、世界改造団体愛善苑発足奉告祭を執行。
- 昭和57年(1982年)12月16日、宗教法人登記。
- 平成元年(1989年)7月19日~21日、総代会。御神号を「神素盞嗚大神」にすることを決議。
- 同年8月6日、愛善苑会館完成祭を執行。
- 同年11月6日、熊野館から愛善苑大神を遷座。
- 平成2年(1990年)8月号から『いづのみづ』誌を『神の国』に改題。
〔『神の国』平成3年(1991年)11月号p12-13「愛善苑再生5周年略年譜」をもとに作成した〕
数運
出口和明著『予言と神話』[2]p286-288によると──いづとみづの会・愛善苑の中心人物の一人だった出口和明は、いづとみづの会設立総会から愛善苑発足奉告祭まで(1980年3月9日~1986年11月7日)の日数が、王仁三郎が獄中に繋がれていた期間(1935年12月8日~1942年8月7日)や、日本が連合国軍の占領下にあった期間(連合軍先発隊が厚木飛行場に到着した1945年8月28日~日米講和条約発効前日の1952年4月27日)と全く同じ6年8ヶ月(2435日)であることから、愛善苑の誕生は神の意志であるとした。
また、王仁三郎が保釈出所した日から第二次大本事件の解決をみた大審院判決まで(1942年8月7日~1945年9月8日)の日数が3年1ヶ月1日であり、愛善苑発足(王仁三郎出所に相応)から3年1ヶ月1日を経過した日(1989年12月8日)に「一二・八記念祭典」(1945年12月8日に第二次大本事件解決奉告祭が執行され、出口伊佐男によって大本が愛善苑として新発足することが発表された記念日)を執行していたことから、第三次大本事件は終わったとした。
そして「「世界のかがみ」という大本の特質は、大本教団の変質化にともない、受動的な鏡は大本教団に残しながら、能動的な鑑(かがみ)は真正の大本と自認する愛善苑に移っていた」という見解を示した。
関連項目
- 出口和明
- 出口昭弘
- 出口三平
- 窪田英治
- 武田崇元
- 出口恒
- みいづ舎
- あいぜん出版
- いづとみづの会
- 丸山照雄:宗教評論家。1932~2011年。愛善苑の顧問を務めた。丸山照雄 - ウィキペディア
- 熊野館
外部リンク
- 出口王仁三郎聖師提唱の愛善苑(公式サイト)
- 愛善苑 - ウィキペディア
脚注
- ↑ 大本教団では「大天主太神」と「惟神真道弥広大出口国直霊主命」
- ↑ 1991年、八幡書店刊。1990年6月の講演録。