大本
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大本(おおもと)は、出口直と出口王仁三郎を二大教主とする宗教。
旧仮名遣いでは「おほもと」。
基本情報
- 開教日:明治25年(1892年)2月3日(旧正月5日)。出口直に艮の金神が神懸かり第一声を発したとされる日[1]。
- 教祖:出口直(でぐち なお)と出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)の二人いる。
- 出口直:福知山の桐村家に生まれ、綾部の出口家に嫁いだ。明治25年「艮の金神」が懸かり神示が降りるようになる。宗教活動を始めるがその能力・技術がないため初期は金光教の傘下という形で活動していた。後に王仁三郎が合流する。出口直は大本の道を開いたという意味での教祖である。肩書きは「開祖」。
- 出口王仁三郎:穴太(あなお。現・亀岡市内)の上田家で生まれる。明治31年、高熊山で霊的修業を行い自分の救世の使命に目覚めて独自に宗教活動を開始する。後に出口直と巡り会い大本に入って活動する。教団組織や教典、聖地、教義教理を整えたのは王仁三郎であり、そういう意味で実質的な教祖である。肩書きは「教主輔」。尊称として「聖師」と呼ばれる。
- 教典:「大本神諭」と「霊界物語」の二つある。
- 聖地:綾部の聖地「梅松苑(ばいしょうえん)」と、亀岡の聖地「天恩郷(てんおんきょう)」の二つある。どちらも王仁三郎在世中から存在するが、第二次大本事件で当局によって粉々に破壊された。現在の両聖地は大戦後に再建されたものである。
- 歴代教主・教主補
- 開祖:出口直。1837~1918年(81歳)。
- 教主輔:出口王仁三郎。1871~1948年(76歳)。王仁三郎は開祖と二代・三代教主の三人の「輔佐」をするという特別な役割で、王仁三郎だけは「補」ではなく「輔」という文字が使われる。
- 二代教主:出口澄子(すみこ)1883~1952年(69歳)。出口直の末子、王仁三郎の妻。
- 三代教主:出口直日(なおひ)1902~1990年(88歳)。王仁三郎・澄子の長女。
- 三代教主補:出口日出麿(ひでまる)1897~1991年(96歳)。岡山県倉敷で生まれる。旧名・高見元男。大正8年(1919年)大本入信。昭和3年(1928年)2月に直日と結婚。
- 四代教主:出口聖子(きよこ)1935~2001年(66歳)。直日の三女。
- 五代教主:出口紅(くれない)1956年~。直日の次女・麻子の娘だが聖子の養女となる。
- 内紛(第三次大本事件)によって大本教団から追放された信徒らによって擁立された他の教主もいる。→「大本信徒連合会」
- 大本は戦前は非公認宗教であったが、戦後は法人格を得て「宗教法人大本」として活動している。
略年表
出口直と王仁三郎を軸として見た大本60年間の略史。(年齢は原則として満年齢)(明治5年12月2日までは旧暦。翌日改暦され新暦6年1月1日となる)
天保7年12月16日(新暦1837年1月22日) | 福知山で桐村直、生誕 |
嘉永6年(1853年) | 直(16歳)は綾部に移住し、叔母・出口ユリの養女となる。(時期は諸説あり→「出口直#最初の綾部移住の時期」) |
安政2年2月3日(新暦1855年3月20日) | 直(18歳)は豊助(とよすけ)と結婚[7]。豊助は「政五郎」を襲名する。 |
明治4年7月12日(新暦1871年8月27日) | 穴太で上田喜三郎、生誕 |
明治16年(1883年)2月3日(旧12月26日) | 出口澄子、生誕。 |
明治20年(1887年)3月1日(旧2月7日) | 出口直(50歳)の夫・政五郎が帰幽(60歳)。 |
明治25年(1892年)1月30日(旧1月1日) | 直(55歳)は霊夢を見る。 |
同年2月3日(旧1月5日)[8] | 直、帰神状態となる。 |
明治26年(1893年)4月~5月 | 4月21日、直は放火の嫌疑で警察署に留置される。翌日に嫌疑は晴れるが、発狂者として座敷牢に入れられる。その間、釘で柱に文字を書く(筆先の初まり)。5月30日、座敷牢から出される。 |
明治27年(1894年)11月12日(旧10月15日) | 直は大本の広前を初めて開く。大島景僕の離れ座敷(通称「別荘」)に艮の金神と金光大神を併祀。 |
明治30年(1897年)4月4日(旧3月3日) | 直(60歳)は綾部・裏町の梅原伊助の倉に広前を遷し、艮の金神を単独で奉斎する。 |
明治31年(1898年)3月1日(旧2月9日) | 喜三郎(26歳)、高熊山修業 |
同年10月8日(旧8月23日) | 綾部で出口直と上田喜三郎が初めて面会 |
明治32年(1899年)7月3日(旧5月26日) | 喜三郎(28歳)は綾部に移住し大本入りする |
明治33年(1900年)1月31日(旧1月1日) | 喜三郎(28歳)と澄子(16歳)が結婚 |
同年7月4日(旧6月8日) | 冠島開きの御神業。 |
同年8月2日(旧7月8日) | 沓島開きの御神業。 |
同年10月1日(旧閏8月8日) | 鞍馬山出修。その後、直は別荘(大島景僕の離れ座敷)に100日間籠もる。 |
同年11月1日(旧9月10日) | 広前を竜門館(大島景僕宅)に遷す。 |
明治34年(1901年)4月26日(旧3月8日) | 元伊勢水の御用。 |
同年7月1日(旧5月16日) | 出雲火の御用。 |
同年10月19日(旧9月8日)~25日 | 弥仙山岩戸籠もり。 |
同年10月28日(旧9月17日) | 直は別荘に100日間籠もる。 |
明治35年(1902年)3月7日(旧1月28日) | 王仁三郎と澄子の長女・あさの(出口直日)が生まれる。 |
明治36年(1903年)5月24日(旧4月28日) | 弥仙山岩戸開き。 |
明治37年(1904年)9月20日 | 喜三郎は(39歳)役場に改名届を出して「上田王仁三郎」になる |
明治38年(1905年)5月14日(旧4月10日)~25日 | 沓島籠もり。 |
明治43年(1910年)12月29日 | 王仁三郎(39歳)は出口家への養子手続きが終わり「出口王仁三郎」になる |
明治45年(1912年)4月24日(旧3月8日) | 伊勢内宮・外宮・香良洲神社へ参拝。 |
大正5年(1916年)6月25日(旧5月25日) | 「神島開き」 |
同年10月4日(旧9月8日) | 神島へ。翌5日(旧9月9日)王仁三郎がみろく様の霊であるという筆先が出る(見真実)。 |
大正6年(1917年)1月 | 機関誌『神霊界』誌上で『大本神諭』の発表を開始する |
大正7年(1918年)11月6日(旧10月3日) | 出口直、昇天(81歳) |
大正9年(1920年)9月 | 大正日日新聞社を買収 |
大正10年(1921年)2月12日(旧正月5日) | 第一次大本事件。王仁三郎(49歳)は投獄される。(大本事件) |
同年6月17日 | 王仁三郎は126日間の獄中生活を経て出獄 |
同年10月5日 | 第一次大本事件裁判で王仁三郎は懲役5年の判決を受ける。 |
同年10月18日 | 王仁三郎は霊界物語の著述を開始 |
大正11年~12年 | バハイ教や道院、普天教など世界の諸宗教と提携 |
大正13年(1924年)2月13日 | 王仁三郎(52歳)は綾部を発ってモンゴルへ(~11月1日)→「入蒙」 |
大正14年(1925年)5月20日 | 北京で世界宗教連合会設立 |
同年6月9日 | 人類愛善会設立 |
昭和2年(1927年)5月17日(旧4月17日) | 大正天皇崩御による大赦令によって第一次大本事件の裁判は免訴となる。 |
昭和3年(1928年)3月3日(旧2月12日) | みろく大祭(王仁三郎、満56歳7ヶ月) |
昭和7年(1932年)8月13日 | 大日本武道宣揚会設立(道主・植芝盛平) |
昭和8年(1933年)10月4日(旧8月15日) | 霊界物語『天祥地瑞』編の著述開始 |
昭和9年(1934年)7月22日 | 東京・九段の軍人会館で「昭和神聖会」設立 |
昭和10年(1935年)12月8日 | 第二次大本事件。王仁三郎(64歳)は投獄される。 |
昭和15年(1940年)2月29日 | 一審判決。王仁三郎は無期懲役。 |
昭和17年(1942年)7月31日 | 二審判決。王仁三郎は懲役5年。 |
同年8月7日(旧6月26日) | 王仁三郎(71歳)は6年8ヶ月ぶりに出獄 |
昭和19年(1944年)12月29日 | 王仁三郎(73歳)は耀盌を作り出す |
昭和20年(1945年)9月8日 | 大審院判決。上告棄却(有罪確定)。 |
同年10月17日 | 大赦令で大本事件は解消する(無罪)。 |
12月8日 | 綾部で第二次大本事件解決奉告祭を執行。 |
昭和21年(1946年)2月7日 | 大本を「愛善苑」として新発足 |
昭和23年(1948年)1月19日 | 王仁三郎(76歳5ヶ月)昇天。澄子が二代苑主となる。 |
昭和24年(1949年)10月29日 | 愛善苑を「大本愛善苑」に改称。 |
昭和27年(1952年)3月31日 | 出口澄子、昇天(69歳)。直日が三代教主となる。 |
同年4月1日 | 大本愛善苑を「大本」に改称。 |
教団名の変遷
大本は開教時から教団組織があったわけではない。初めて組織が作られたのは、王仁三郎が綾部に来てからである。艮の金神の「金」と、日の大神・月の大神の「日」「月」を合わせて「金明会」と命名された[9]。
以後、次のように教団名が変遷する。[10]
- 明治32年(1899年)7月10日:「金明会」を設立。
- 同年8月1日(旧6月25日):「金明会」と「霊学会」(園部で31年5月に設立)と合体させて「金明霊学会」に改称。[11]
- 明治41年(1908年)8月1日(旧7月5日):「大日本修斎会」に改称。
- 大正2年(1913年)7月12日:「大本教(たいほんきょう)」と称する。正式に「大本」という言葉が使われたのはこれが初めて(ただしその後も大日本修斎会という名称も併用されている)。[12]。
- 大正5年(1916年)4月22日:大本教を「皇道大本(こうどうおおもと)」に改称。
- 大正10年(1921年)10月14日(旧9月14日):皇道大本を「大本」に改称。(王仁三郎と二代教主が隠退し直日が三代教主に就任)
- 大正11年(1922年)2月4日(節分):大日本修斎会は「大本瑞祥会」に改称。
- 昭和8年(1933年)1月26日(旧元日):大本を「皇道大本」に再び改称。大本瑞祥会は解散。
- 昭和21年(1946年)2月7日:弾圧によって組織が解体された大本は「愛善苑」という名称で新発足。
- 昭和24年(1949年)10月29日:「大本愛善苑」に改称。
- 昭和27年(1952年)4月1日:「大本」に改称。(前日に二代教主が昇天し三代教主が就任)
宗教名としても開教当初から「大本」と名乗っていたわけではないようである。大本神諭に「おほもと」(「大本」という漢字は王仁三郎が当てはめたもの)という言葉が登場するのは明治29年旧12月2日の神諭[13]が初めてであり、次は明治31年旧5月5日と旧7月16日、頻繁に登場するようになるのは明治2年旧2月3日以降である[14] [15]。従って宗教名として「おほもと」と呼ばれるようになったのは早くても明治29年、おそらく王仁三郎が大本入りした明治32年以降のことではないかと考えられる。
関連団体
- 天声社:大本の出版部門。https://tenseisha.co.jp/ (公式サイト)
- 人類愛善会:社会活動を行う団体。https://jinruiaizenkai.jp/ (公式サイト)
- 愛善みずほ会:農業の研究・指導や自然食品の小売などを行う団体。https://aizen-mizuho.or.jp/ (公式サイト)
関連項目
- 大本事件:王仁三郎在世中に起きた国家権力による二度の弾圧事件。及び昇天後に起きた内紛。
- 大本信徒連合会:内紛(第三次大本事件)によって追放された信徒有志が結成した団体で、自分たちはあくまでも大本の信徒であると主張する。出口直美を四代教主、出口直子を五代教主として仰ぐ。第三次大本事件は継続中であるという世界観を持つ。https://www.omt.gr.jp/ (公式サイト)
- 宗教法人愛善苑:内紛(第三次大本事件)によって追放された信徒有志が設立した団体で、大本から派生した新しい宗教団体。出口王仁三郎を「永遠の苑主」と仰ぎ、宗教的権威を持つ苑主(教主)を置かない。霊界物語のみを教典とする。第三次大本事件は愛善苑の誕生によって事実上終了したという世界観を持つ。http://www.aizenen.info/ (公式サイト)
外部リンク
- https://www.oomoto.or.jp/ (大本の公式サイト)
- 大本公式サイト内にある「関連サイト」のページ(地方機関等)
- https://www.youtube.com/@oomotoweb (ユーチューブの大本公式チャンネル)
- 大本 - コトバンク
- 大本 - ウィキペディア
脚注
- ↑ 昔の文献だとその日は2月8日(旧正月10日)としているものもある。
- ↑ 厳密に言えば王仁三郎が生まれた時は「穴太村」で明治22年に「曽我部村穴太」になり昭和30年に「亀岡市曽我部町穴太」になったので、当時の感覚としては亀岡は王仁三郎の故郷とは言えない。亀岡は「故郷の穴太の隣町」のような感覚であろう。
- ↑ 令和4年度版59頁 「宗教年鑑」(文化庁)
- ↑ 信者の定義はそれぞれの宗教法人によって異なる。大本の場合は何を信者と定義しているのかは不明だが、幽霊信者を除いたアクティブな信者の数はおそらくこの数分の1である。
- ↑ 宣伝使の人数か?
- ↑ ちなみに令和4年(2022年)の25年前の平成9年(1997年)版では信者数173,513人、教師数6,168人である。
- ↑ 四方豊助は直より先に出口ユリの養子になっていた。
- ↑ 日付は諸説ある
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「金明会の発足#」
- ↑ 「大本年表」による。
- ↑ 金明霊学会の設立時期については諸説ある。「大本年表」144頁参照。『大本資料集成 3』裁判資料「予審終結決定#」では明治33年2月頃になっている。
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「大本教の教規と信条#」
- ↑ 大本神諭 明治29年旧12月2日#:「此大本へ立寄りて、神の御話を聞かして貰ふた人民だけなりと改心を致して」
- ↑ 大本神諭 明治25年1月の「初発の神諭」#や、大本神諭 年月日不明の神諭#にも「大本」という言葉が登場するが、前者は半紙に筆先が書かれる以前に出口直に伝達された神示を王仁三郎が想像して書いたものであり、後者も王仁三郎が作った可能性が高い(『神霊界』誌で大本神諭として一番最初に掲載された神諭)。それを除くと明治29年旧12月2日の神諭が「おほもと」が登場する最初の神諭となる。
- ↑ 大本神諭化されていない筆先に「おほもと」が登場しているかも知れないが、公開されていないので調べようがない。