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* 「出口王仁三郎は刑務所暮らしをしていた」等と言われる場合がある<ref>【例】出口京太郎『巨人出口王仁三郎』p437「王仁三郎は一生のうちに何度も投獄のうきめにあい、合わせて七年半も刑務所ぐらしをせねばならないのだ」</ref>が、それは大きな語弊がある。王仁三郎が囚人(既決囚)として刑務所で服役したことは一度もない。刑事被告人(未決囚)として拘置所に収監されただけである。拘置所が刑務所内に併設されていたため、便宜上、王仁三郎は刑務所に入れられた等と表現されるのだと思われる。
出口王仁三郎
,→概要
'''出口王仁三郎'''(でぐち おにさぶろう、1871~1948年)は、[[大本]]の[[二大教祖]]の一人。『[[霊界物語]]』著者。霊能者、予言者、歌人、芸術家としても知られている。幼名は上田喜三郎(うえだ きさぶろう)。大本を開教した[[出口直]]の娘婿となり、教団を組織し教典を作成し教義教理を整備した。大本における肩書きは「[[教主輔]]」。尊称「[[聖師]]」。
== 概要 基本情報 ==* 生年月日:明治4年(1871年)旧暦7月12日(新暦8月27日)生まれ。** 新暦(グレゴリオ暦)に改暦されたのは明治6年であり、5年12月3日を6年1月1日として改暦した。従って明治5年12月2日までの月日は旧暦での表記になる。* 没年月日:昭和23年(1948年)1月19日昇天。享年満76歳(数え78歳)。* 出生地:京都府南桑田郡穴太村。現在の京都府亀岡市曽我部町穴太。 →「[[穴太]](あなお)」** 生家跡は現在「[[瑞泉苑]](ずいせんえん)」と名づけられ大本の施設になっている。* 名前:出生名は「上田喜三郎(うえだ きさぶろう)」。後に「王仁三郎(おにさぶろう)」に改名し、出口家に養子に入って「出口王仁三郎」になった。 →「[[#「王仁三郎」の名の由来]]」** 「わにさぶろう」と呼ぶのは俗称であって正式な読み方ではない。* 家族:上田家の家業は農業。** 祖父:[[上田吉松]](きちまつ)。喜三郎が生まれて数ヶ月後に亡くなった。** 祖母:[[上田宇能]](うの)。言霊学者・[[中村孝道]]の妹。** 父:[[上田吉松]](きちまつ)。旧名:佐野梅吉(さの うめきち)。上田家の婿養子となった。*** 世祢と王仁三郎の主張だと、王仁三郎の実父は有栖川宮熾仁親王である。 →「[[有栖川宮熾仁親王]]」** 母:[[上田世祢]](よね)。** 兄弟姉妹:男5人・女3人の8人兄弟の長子。(ただし2人は成人前に夭折している) →「[[#兄弟姉妹]]」** 妻:[[出口澄子]](大本開祖・出口直の末子で第五女)** 子供:男2人・女6人の計8人。(ただし3人は成人前に夭折している) →「[[#子供]]」* 王仁三郎は明治31年(1898年)26歳の時、郷里にある高熊山で一週間の霊的修業を行い、自分の救世の使命を自覚し、霊能力を身に付けた。その後、宗教活動を開始する。 →「[[高熊山]]」「[[高熊山修業]]」* 王仁三郎は綾部で明治25年(1892年)に大本を開教していた出口直と出会い、明治32年(1899年)綾部に移住して、大本での活動を開始する。明治33年(1900年)1月、出口直の娘・澄子と結婚。* 大本は大正10年(1921年)2月と昭和10年(1935年)12月の二度に亘り、当局から弾圧を受ける。これを[[大本事件]]と呼ぶ。二度目の弾圧では6年8ヶ月間も獄中生活を強いられた。 →「[[第一次大本事件]]」「[[第二次大本事件]]」** 「出口王仁三郎は刑務所暮らしをしていた」等と言われる場合がある<ref>【例】出口京太郎『巨人出口王仁三郎』p437「王仁三郎は一生のうちに何度も投獄のうきめにあい、合わせて七年半も刑務所ぐらしをせねばならないのだ」</ref>が、それは大きな語弊がある。王仁三郎が囚人(既決囚)として刑務所で服役したことは一度もない。刑事被告人(未決囚)として拘置所に収監されただけである。拘置所が刑務所内に併設されていたため、便宜上、王仁三郎は刑務所に入れられた等と表現されるのだと思われる。* 王仁三郎は大正10年(1921年)10月から霊界物語の著述を開始する。自分は横になって口述し、側近に筆録させるという形で著述が進められた。全81巻83冊。 →「[[霊界物語]]」** 大本の教典は大本神諭と霊界物語の二つある。大本神諭は、出口直に艮の金神が懸かって書いた「筆先」を元にして王仁三郎が作ったものである。筆先は平仮名と漢数字だけで書いてあり、王仁三郎が筆先に漢字を当てはめて意味づけを行ったものが大本神諭である。* 王仁三郎は生涯で数十万首の和歌(短歌)を詠んだ。 →「[[和歌]]」* 王仁三郎は晩年(昭和20年)彩り鮮やかな楽焼茶碗を数千個作成した。「天国茶碗」とも呼ばれる。 →「[[耀盌]](ようわん)」
* 王仁三郎は職業を「世界改造業者」と称したことがある。<ref>[[出口和明]]『[[大地の母]] 第九巻「丹波の曙」』(みいづ舎版)p226「四月、直日は数え七つで綾部尋常小学校に入学した。家庭調査表の父の職業欄に、王仁三郎はこう書いている。
――世界改造業者。」</ref> <ref>[[出口京太郎]]・編著『[[出口王仁三郎の示した未来へ]]』p283「初期のころの話ですが、祖父は名刺をつくりまして、職業欄には「世界改造業者」「人間改造業者」という肩書きをかきました。これはいわば祖父のアイデンティティの表明と受け取れます。それが祖父の生涯を貫いた思想であり、言動であり、目標であったと思います。</ref>
== 家族 ==