出口王仁三郎
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出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871~1948)は、世界改造業者。大本教祖、宗教家、霊能者、予言者としても知られている。幼名は上田喜三郎。
明治4年(1871年)7月12日生まれ。
昭和23年(1948年)1月19日(旧12月9日)昇天。
目次
出生
明治4年(1871年)7月12日(当時はまだ改暦前。新暦だと8月27日になる)上田家に生まれる。幼名・喜三郎(きさぶろう)。
8人兄弟の長男。他の弟妹は次の通り[1]。
- 長男 喜三郎
- 次男 由松(よしまつ)
- 三男 幸吉(こうきち)
- 四男 政一(まさいち)
- 五男 久太郎(きゅうたろう)…出生後数十日で帰幽。
- 長女 絹子(きぬこ)…4才で帰幽。
- 次女 雪子(ゆきこ)
- 三女 君子(きみこ)
略年表
(年齢は原則として満年齢)
明治4年(1871年)7月12日 | 上田喜三郎生誕 |
明治31年(1898年)3月1日(26歳) | 高熊山修業 |
同年10月 | 綾部で出口直と会見 |
明治32年(1899年)7月(28歳) | 大本に入る |
明治33年(1900年)1月(28歳) | 出口澄子(16歳)と結婚 |
同年7月・8月 | 舞鶴沖の「冠島開き」「沓島開き」 |
明治34年(1901年)4月 | 元伊勢皇大神社で「元伊勢お水の御用」 |
同年7月 | 出雲大社で「出雲火の御用」 |
明治43年(1910年)12月(39歳) | 正式に「出口王仁三郎」に改名 |
大正5年(1916年)6月25日(44歳) | 瀬戸内海・高砂沖の「神島開き」 |
大正6年(1917年)1月 | 機関誌『神霊界』誌上で『大本神諭』の発表を開始 |
大正7年(1918年)11月6日 | 出口直、昇天(81歳) |
大正9年(1920年)9月(49歳) | 大正日日新聞社を買収 |
大正10年(1921年)2月12日(49歳) | 第一次大本事件で入獄 |
同年6月17日 | 126日間の獄中生活を経て出獄 |
同年10月18日 | 霊界物語の著述を開始 |
大正11年~12年 | バハイ教や道院、普天教など世界の諸宗教と提携 |
大正13年(1924年)2月13日(53歳) | 綾部を発ってモンゴルへ(~11月1日)→「入蒙」 |
大正14年(1925年)5月20日(54歳) | 北京で世界宗教連合会設立 |
同年6月9日 | 人類愛善会設立 |
昭和3年(1928年)3月3日(旧2月12日) | みろく大祭(満56歳7ヶ月) |
昭和7年(1932年)8月13日 | 大日本武道宣揚会設立(道主・植芝盛平) |
昭和8年(1933年)10月4日(旧8月15日) | 霊界物語『天祥地瑞』編の著述開始 |
昭和9年(1934年)7月22日(63歳) | 東京・九段の軍人会館で「昭和神聖会」設立 |
昭和10年(1935年)12月8日(64歳) | 第二次大本事件で入獄 |
昭和17年(1942年)8月7日(71歳) | 6年8ヶ月ぶりに出獄 |
昭和19年(1944年)12月29日(73歳) | 耀盌を作り出す |
昭和20年(1945年)9月8日(74歳) | 大審院判決で有罪(後に恩赦) |
昭和21年(1946年)2月7日(74歳) | 大本を「愛善苑」として新発足 |
昭和23年(1948年)1月19日(76歳) | 昇天 |
少年青年時代
高熊山修業以降
長沢雄楯との出会い
明治31年(1898年)4月3日、稲荷講社総本部の配札係[2]・三矢喜右衛門が綾部の喜三郎のもとを訪ねて来た。総本部の総理・長沢雄楯に、因縁のある人物だから調べて来いと言われたという。
4月13日(諸説あり [3] )、喜三郎は生まれて初めて汽車に乗り、三矢の案内で静岡の長沢の宅へ向かった。
<書きかけ>
4月22日の夜、穴太の自宅に帰宅した。
「王仁三郎」の名の由来
まだ亀岡で幽斎研究を続けていた頃、ひそかに出修に行けという神示が降りた。そこで友人の斎藤だけに話して、母には心配しないように書き置きを残して出かけた。このとき書き置きに、ふと「鬼三郎(きさぶろう)」と署名した。後に綾部に来てからナオの筆先で「おにさぶろう」と命名されので、「王仁三郎」と名乗るようになった。[4]
戸籍上、正式に「出口王仁三郎」になったのは明治43年(1910年)の暮れである。
第一次大本事件以降
王仁三郎は第一次大本事件以降は大衆の前に立つことがなく、再び大衆の前に現れたのは昭和9年8月12日、昭和神聖会京都地方本部発会式においてである。[5] [6]
綾部町議に当選
大正14年(1925年)5月11日の綾部町会議員選挙に王仁三郎は立候補し当選する。定員20名に対して29名が立候補し、王仁三郎は55票を得てトップ当選した。『大本七十年史』は「綾部町労働者団の有志に推されて」と記しているが、『京都日出新聞』は「信者有志の者に推され」と報じている。大本関係者としては他に2名(岩田久太郎ともう1名)立候補したようである。[7] [8]
第二次大本事件以降
家族
澄子との間に男子2人・女子6人の子ができたが、そのうち男子2人・女子1人は小さい時に帰幽したので、一般的には子は女子5人と思われている。
続柄 | 名前 | 生誕日 | 帰幽日 | 年齢 |
---|---|---|---|---|
長女 | 直日(なおひ) | 明治35年(1902年)3月7日(旧1月28日) | 平成2年(1990年)9月23日(旧8月5日) | 88歳 |
二女 | 梅野(うめの) | 明治37年(1904年)5月30日(旧4月16日) | 不明 | 歳 |
三女 | 八重野(やえの) | 明治42年(1909年)5月1日(旧3月12日) | 平成10年(1998年)12月20日(旧11月2日) | 89歳 |
四女 | 一二三(ひふみ) | 明治44年(1911年)8月8日(旧閏6月14日) | 昭和2年(1927年)12月21日(旧11月28日) | 16歳 |
長男 | 六合大(くにひろ) | 大正2年(1913年)8月29日(旧7月28日) | 大正3年(1914年)4月9日(旧3月14日) | およそ7ヶ月 |
五女(四女) | 尚江(ひさえ) | 大正4年(1915年)3月5日(旧1月20日) | 昭和52年(1977年)7月28日(旧6月13日) | 62歳 |
二男 | 相生(すけなり) | 大正7年(1918年)4月3日(旧2月2日) | 大正7年(1918年)8月25日(旧7月19日) | およそ5ヶ月 |
六女(五女) | 住之江(すみのえ) | 大正7年(1918年)4月3日(旧2月2日) | 不明 | 歳 |
交友関係
恋人
王仁三郎に影響を与えた人物
主な著作
単行本として出版されたものを中心に掲載した。これ以外に、機関誌で発表され、単行本化されていない著作も多数ある。
- 伊都能売神諭:大正7年(1918年)~8年に機関誌『神霊界』誌上で発表。
- 『王仁文庫』全10巻:大正9年(1920年)~10年刊。
- 『霊界物語』全81巻83冊:大正10年(1921年)
- 「錦の土産」:大正13年(1924年)作。
- 『王仁蒙古入記』:
- 『エス和作歌辞典』:
- 『霊の礎(たまのいしずえ)』:大正13年(1924年)刊。
- 『道の栞』:大正14年(1925年)刊。
- 『道の大本』:昭和2年(1927年)刊。
- 三鏡(次の3冊の総称)
- 「大鏡」:
- 『出口王仁三郎全集』全8巻:昭和8年(1933年)~10年刊。
- 『惟神の道』昭和10年(1935年)刊。
- 『愛善の道』(大本の道):昭和22年(1947年)刊。
- 『出口王仁三郎著作集』全5巻:昭和47年(1972年)~48年刊。
歌集
- 第1歌集『花明山(かめやま)』:昭和6年(1931年)刊。
- 第2歌集『彗星』:
- 第3歌集『故山の夢』:10歳から27歳にかけての出来事を詠んだ歌。
- 第4歌集『霞の奥』:昭和6年6~7月に発表された歌。
- 第5歌集『東の光』:
- 第6歌集『霧の海』:
- 第7歌集『白童子(はくどうじ)』:昭和6年8~12月に発表された歌。
- 第8歌集『青嵐(あおあらし)』:29歳の頃の出来事を詠んだ歌。
- 第9歌集『公孫樹(いちょう)』:昭和7年1~10月に発表された歌。
- 第10歌集『浪の音』:昭和8年(1933年)刊。30~31歳の頃の出来事を詠んだ歌。
- 第11歌集『山と海』:昭和7年9月~8年4月に発表された歌。
- 第13歌集『月照山』:昭和17年後半~19年末に詠んだ歌。
- 第14歌集『百千鳥(ももちどり)』:昭和8~10年にかけて詠んだ歌。内容は明治35~39年の回顧歌。
- 『言華(げんか)』:昭和3年1月~10年12月に詠んだ歌。
- 『東北日記』全8巻:昭和3年(1928年)に北陸~東北~北海道~樺太を巡教した時に詠んだ歌。
- 『朝嵐』:昭和35年(1960年)刊。第二次大本事件回顧歌集。
- 『二名日記』:
- 『日月日記』(全13巻):
- 『庚午日記』(全11巻):
- 『更生日記』(全12巻):
- 『壬申日記』(全8巻):
(歌集の主なものは「みいづ舎」で覆刻版が出ている)
芸術作品
伝記
出口王仁三郎の人生を記した伝記や研究書には、主に次のものがある。
脚注
- ↑ 「故郷乃二十八年 〔四〕上田の家庭」による。
- ↑ 「配札(はいさつ)」とは御札を配ること。
- ↑ 喜三郎が初めて長沢雄楯と会った日は、文献によって異なる。
(1) 霊界物語では穴太を出発したのは4月13日で、穴太に帰ったのは4月22日の夜である。第37巻第20章「仁志東」/a048#:「三矢の案内で愈同月の十三日、穴太を立つて」「一週間許り世話になつて、二十二日の夜漸く穴太の自宅に帰る事を得た」。
(2) 『神霊界』大正8年(1919年)8月15日号掲載の「随筆」p14によると、4月15日に出発し、16日に長沢から鎮魂帰神の高等得業の証を受けた。随筆『神霊界』大正8年8月15日号掲載#:「同月十五日東上して、長沢氏に合ふたのである」「長沢氏より四月十六日、先生に逢つた翌日、直ぐに「鎮魂帰神の高等得業を証す」と云ふ辞令を頂いて」。
(3) 「本教創世記」では4月15日付で喜三郎は中監督に任ぜられ、4月28日に出発。3日間滞在したというので、5月1日に穴太に帰ったことになる。第十章 幽斎修業#:「四月の二十八日に三ツ屋の案内にて、始めて参閣する事となったのである」、第十一章 出発#:「しかしただの三日の逗留であったから」。
(4) 「大本年表」は「本教創世記」と同じく、4月15日に中監督に任ぜられ、4月28日に出発。
(5) 『大本七十年史』では詳しい日付は書いていない。『大本七十年史 上巻』「稲荷講社と本田親徳#」 - ↑ 『大本七十年史 上』P156-157
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「地方組織の拡大#」p177「第一次大本事件以後、かつて一度も公衆の前に立つことのなかった聖師が、統管として壇上にあがり、聖師みずからによる昭和神聖会結成の決意がひれきされた」
- ↑ 大国美都雄『真偽二道』p183「出口聖師は、第一次大本事件以来、一度も大衆の前に立ったことがなかったが、今回は神聖会の統管として壇上に上がり、来会者に叫びかけた」
- ↑ 『京都日出新聞』大正14年(1925年)5月8日夕刊(9日付)p2、同5月12日夕刊(13日付)p2。
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「国内宣教と造営#」