天の真浦
概要
- 表記ゆれ:「真浦」(「天の」が付かない)[1]
- 初出:第20巻第1章「武志の宮」#
- ドラマの上では、本来「守彦(もりひこ)」という名だったが、第20巻第3章「山河不尽」#で「天の真浦」という名が付いた。ただし霊界物語の文章上は最初から「天の真浦」という名で記されている。守彦という名は第3章「山河不尽」#と第4章「六六六」#だけで使われている。「まうら」の名の由来は、男(田吾作)が誤って守彦の足の小指を鍬で切り落としてしまい、守彦は慌てて小指を裏表逆に、つまり真裏にして付けてしまったからである(小指はそのままくっついて治った)。[2]
- 元照彦の御霊の再来。[3]
- 大台ケ原の山麓で生まれ、木樵を業としていたが、綾の聖地に錦の宮が建設されたことを聞くと、木樵を廃業して錦の宮へ行き、言依別命に謁して、宣伝使となった。[4]
- 幼名は「松」。熊野の生まれで、幼少時に父母やきょうだいと生き別れていたが、第20巻第7章「再生の歓」#で自分の両親が松鷹彦・お竹だということが判明する。また、宗彦・お勝が弟妹だということも判明する。[5]
関係の深い人物
主なエピソード
天の真浦は言依別命から、宇都山郷へ行って初宣伝を試みよと命じられ、雪山を進んでいた。途中で秋彦・駒彦と出会う。二人は言依別命から天の真浦の信仰力を試すように命じられていた。三人は浮木の里の武志の宮の神主・松鷹彦に頼んで、バラモン教の友彦の館に案内してもらう。その途中、天の真浦は秋彦・駒彦によって崖から突き落とされた。天の真浦は雪の上に座ってニコニコしている。これは宣伝使としての試験だった。二人は天の真浦に及第点を与え、その場を去った。〔第20巻第1章「武志の宮」#前半〕
天の真浦は松鷹彦の家に滞在し、松鷹彦とその妻・お竹から「不言実行」を実地で学ばされる。〔第20巻第1章「武志の宮」#後半〕
天の真浦はバラモン教の友彦の館へ行く途中、畑の芋を踏み潰している留公を見つけて咎めた。畑の主である田吾作は怒って鍬を振り上げるが、誤って天の真浦の足の小指を切り落としてしまう。天の真浦はとっさに指を拾ってくっつけるが、裏表逆様に(真裏に)付けてしまった。これが「真浦」の名の由来である[2]。天の真浦は二人を諭し、二人は和解した。〔第20巻第3章「山河不尽」#前半〕
天の真浦は留公の屋敷で宣伝歌を歌うと、そこに滞在していた友彦は驚いてどこかに逃げてしまった。〔第20巻第3章「山河不尽」#後半~第4章「六六六」#前半〕
松鷹彦とお竹[6]が天の真浦の生き別れた両親だと判明する(天の真浦は長男で幼名は「松」[7])。また宗彦とお勝は弟妹だと判明する。天の真浦は武志の宮に留まり、お春と結婚し、父の後を継ぐことになった。〔第20巻第6章「梅花の痣」#~第7章「再生の歓」#〕
日本神話
日本神話に天の真浦に相応する人物が登場する。
古事記では「鍛人(かぬち)」(鍛冶屋)の「天津麻羅(あまつまら)」という名で、天の岩戸開きの時に鏡を作った。
日本書紀では「倭鍛部(やまとのかぬち)」の「天津真浦(あまつまら)」という名で、綏靖天皇(第二代天皇)の時代に、鹿を射る鏃(矢じり)を作った。
- 天津真浦 - コトバンク (あまつまら)
- 天津麻羅 - ウィキペディア (あまつまら)
脚注
- ↑ 使用回数は、「天の真浦」は29回、「真浦」(「天の」が付かない)は65回 (セリフの頭の人名は除く)
- ↑ 2.0 2.1 第20巻第3章「山河不尽」#:「男は怒り心頭に達し鍬を真向に翳し留公の頭を目蒐けて打ち下ろした。留公はヒラリと体を躱した機に、鍬は外れて真浦の足の小指を斬り落した。真浦は顔を顰め落ちた指を手早く拾つて傷口にあてた。指は其儘に密着した。余り慌てたと見えて小指の先は裏表に付けて仕舞つた。之迄は真浦に対し守彦と云ふ名が付いて居たが茲に初めて真浦と云ふ名が出来たのである」
- ↑ 第20巻第1章「武志の宮」#:「茲に元照彦の御霊の再来、天の真浦は」
- ↑ 第20巻第1章「武志の宮」#:「大台ケ原の山麓に生れ、木樵を業となし其日を送り居たるが、綾の高天に錦の宮の建造され、神徳四方に光り輝くと聞きて、樵夫の業を廃し、遥々聖地に訪ね来り、言依別命に謁し、新に宣伝使となることを得た」
- ↑ 第20巻第7章「再生の歓」#:「私は紀の国熊野の生れで御座います」「父も母も行方不明となり、三人の兄妹も何うなつたか、何分小さい時に分れたのものですから顔も知らず、全然世の中に親族も何もない一人ぼつちです」
- ↑ お竹は第20巻第5章「親不知」#で誤って川で死んでしまった。「婆アは川に誤つて 寂滅為楽となりました」
- ↑ 第20巻第7章「再生の歓」#:田吾作のセリフ「貴方の御長男松さまに間違ひありません」
- ↑ 第22巻第20章「三の魂」#:「国依別は兄の真浦が波斯の国へ出で行きしを以て、已むを得ず宇都山郷の武志の宮に仕へて神教を伝へ、父の松鷹彦に孝養を尽した」