「高天閣」の版間の差分
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* 昭和3年(1928年)2月7日、高天閣に絨緞(絨毯)を敷くにあたって王仁三郎は次のように注意を与えている。「絨椴の色は天火結水地の順序によって、足の下に敷くから青はいけない。また赤白の縞もいけない。赤は太陽、白は月であるから、黄色か黒がよい。足の下に青や赤白の縞のものを敷くとひっくりかえる事が出来る。」〔新月の光<ref>新月の光0129「絨緞の色」</ref>〕 | * 昭和3年(1928年)2月7日、高天閣に絨緞(絨毯)を敷くにあたって王仁三郎は次のように注意を与えている。「絨椴の色は天火結水地の順序によって、足の下に敷くから青はいけない。また赤白の縞もいけない。赤は太陽、白は月であるから、黄色か黒がよい。足の下に青や赤白の縞のものを敷くとひっくりかえる事が出来る。」〔新月の光<ref>新月の光0129「絨緞の色」</ref>〕 | ||
+ | * 昭和3年(1928年)3月2日午前3時33分に王仁三郎に神命が下り、王仁三郎はみろく菩薩として出現した。 →「[[みろく大祭]]」参照 | ||
* 高天閣は[[宣統帝]](愛新覚羅溥儀)を迎えるために造ったと王仁三郎は語っている。〔新月の光<ref>新月の光1220「高天閣」(昭和21年8月22日の発言)</ref>〕 | * 高天閣は[[宣統帝]](愛新覚羅溥儀)を迎えるために造ったと王仁三郎は語っている。〔新月の光<ref>新月の光1220「高天閣」(昭和21年8月22日の発言)</ref>〕 | ||
2022年6月1日 (水) 09:33時点における版
高天閣(こうてんかく)は、亀岡の天恩郷にあった建物。最初は「神集殿(しんしゅうでん)」という名で建設され、後に「高天閣」と改称された。昭和3年(1928年)2月完成。
概要
- 月宮殿のすぐ隣り(西隣)にあり、月宮殿と同時期に建設された。
- 王仁三郎の天恩郷における神務室・応接室に当てられた。[1]
- 霊界物語天祥地瑞の口述場所として使われ、第73巻・第75巻の一部が口述されている。
略年表
- 大正15年(1926年)3月31日、月宮殿と神集殿の敷地工事に着手。4月1日、神集殿の敷地整備に着手。[2]
- 同年12月6日、神集殿の敷地の堀が完成。12月17日、神集殿の設計成る。[2]
- 昭和2年(1927年)5月15日、地鎮祭。8月5日、斧始式。9月5日、立柱式。9月10日、上棟式。[2]
- 昭和3年(1928年)2月7日、神集殿の遷座祭、竣成式。(翌2月8日、月宮殿の上棟式。10月30日、月宮殿が完成。)[2] [1]
- 同年6月22日(旧5月5日)、神集殿を高天閣と改称。[2] [3]
- 昭和8年(1933年)10月27日(旧9月9日)、神島参拝。大正5年(1916年)の神島開きから18年目。この夜、綾部から高天閣に遷座してあったみろくの大神の神霊を、月宮殿に遷座する。[2] [4]
- 昭和9年(1934年)5月15日、大八洲彦命神像を照明館から高天閣に遷座。[2]
- 昭和11年(1936年)、第二次大本事件で破壊された。
その他
- 昭和3年(1928年)2月7日、高天閣に絨緞(絨毯)を敷くにあたって王仁三郎は次のように注意を与えている。「絨椴の色は天火結水地の順序によって、足の下に敷くから青はいけない。また赤白の縞もいけない。赤は太陽、白は月であるから、黄色か黒がよい。足の下に青や赤白の縞のものを敷くとひっくりかえる事が出来る。」〔新月の光[5]〕
- 昭和3年(1928年)3月2日午前3時33分に王仁三郎に神命が下り、王仁三郎はみろく菩薩として出現した。 →「みろく大祭」参照
- 高天閣は宣統帝(愛新覚羅溥儀)を迎えるために造ったと王仁三郎は語っている。〔新月の光[6]〕