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[[ファイル:入蒙時の出口王仁三郎(馬上).jpg|thumb|馬上の王仁三郎]] | [[ファイル:入蒙時の出口王仁三郎(馬上).jpg|thumb|馬上の王仁三郎]] | ||
'''入蒙'''(にゅうもう)とは、[[出口王仁三郎]]が大正13年(1924年)に、蒙古を宗教的・平和的に統一して東亜連盟の基礎を築くため<ref>{{rm|nm|5|心の奥}}</ref> | '''入蒙'''(にゅうもう)とは、[[出口王仁三郎]]が大正13年(1924年)に、蒙古を宗教的・平和的に統一して東亜連盟の基礎を築くため<ref>{{rm|nm|5|心の奥}}</ref>大陸に渡った行動のこと。「'''蒙古入り'''」とも呼ばれる。王仁三郎は[[奉天]]から馬賊約1千名の集団を引き連れ外蒙を目指して行軍したが、途中で現地軍に捕まり強制帰国となった。その記録は霊界物語の「[[入蒙記]]」に記されている。 | ||
== 概要 == | == 概要 == | ||
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* ルート: | * ルート: | ||
** 綾部から汽車で京都へ。京都から下関へ。連絡船で釜山へ渡る。朝鮮鉄道で奉天へ。 | ** 綾部から汽車で京都へ。京都から下関へ。連絡船で釜山へ渡る。朝鮮鉄道で奉天へ。 | ||
** [[奉天]]から自動車で[[洮南]]《とうなん》へ。これ以降は馬で移動となる。王仁三郎は轎車《きょうしゃ》(箱形の馬車)に乗る。[[興安嶺]] | ** [[奉天]]から自動車で[[洮南]]《とうなん》へ。これ以降は馬で移動となる。王仁三郎は轎車《きょうしゃ》(箱形の馬車)に乗る。[[興安嶺]]《こうあんれい》の聖地を目指し西北へ進むが、途中で進路が変わり南下する。[[パインタラ]]で支那軍に捕まる。 | ||
** 日本領事館に引き渡され大連へ。船で門司へ。汽車で大阪へ行き、収監される。 | ** 日本領事館に引き渡され大連へ。船で門司へ。汽車で大阪へ行き、収監される。 | ||
** 「入蒙」とは言っても、結果的には外蒙(現・モンゴル)へは行かず内蒙(現・中国の内蒙古自治区)だけに終わった。見方を変えると満州を行軍した「入満」であった。 | ** 「入蒙」とは言っても、結果的には外蒙(現・モンゴル)へは行かず内蒙(現・中国の内蒙古自治区)だけに終わった。見方を変えると満州を行軍した「入満」であった。 | ||
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ファイル: | ファイル:出口総裁入蒙進路要図1.jpg|出口総裁入蒙進路要図 | ||
ファイル:素尊汗進路要図.jpg|素尊汗進路要図 | ファイル:素尊汗進路要図.jpg|素尊汗進路要図 | ||
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* [[佐々木弥市]]/王昌輝:満州浪人 | * [[佐々木弥市]]/王昌輝:満州浪人 | ||
* [[大倉伍一]]/石大良:満州浪人 | * [[大倉伍一]]/石大良:満州浪人 | ||
* [[盧占魁]]《ろ せんかい》:東三省陸軍中将<ref>[https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A2%E5%8D%A0%E9%AD%81 卢占魁] - Wikipedia中国語版 (1923年に奉天軍によって殺されたことになっている。別人?)</ref> <ref>『柳絮地に舞ふ──満洲医科大学史』(1978年、輔仁会満洲医科大学史編集委員会 発行、{{ndldl|12115864/1/203}})という大本とは全く無関係の書物の〈第二回東蒙巡廻診療報告(自大正十三・六・二十二 至同七・二十一)〉という見出しの本文に、次のような記述がある。〈最初に決定した旅程は、豪雨あるいは匪賊の大頭目盧占魁白音太来にて殺害せられたため多数の残党本診療団の行手に横行せる等の突発事件等が起こったので著しく変更された。〉(293頁)。入蒙記によると盧占魁がパインタラで殺害された(及び王仁三郎らが捕まった)のは6月22日未明である。旅程初日にそういう事件が起きたため旅程の変更を迫られたということになる。これはこの日にパインタラで盧占魁が殺された客観的証拠となる。</ref> | * [[盧占魁]]《ろ せんかい》:東三省陸軍中将<ref>[https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A2%E5%8D%A0%E9%AD%81 卢占魁] - Wikipedia中国語版 (1923年に奉天軍によって殺されたことになっている。別人?)</ref> <ref>『柳絮地に舞ふ──満洲医科大学史』(1978年、輔仁会満洲医科大学史編集委員会 発行、{{ndldl|12115864/1/203}})という大本とは全く無関係の書物の〈第二回東蒙巡廻診療報告(自大正十三・六・二十二 至同七・二十一)〉という見出しの本文に、次のような記述がある。〈最初に決定した旅程は、豪雨あるいは匪賊の大頭目盧占魁白音太来にて殺害せられたため多数の残党本診療団の行手に横行せる等の突発事件等が起こったので著しく変更された。〉(293頁)。入蒙記によると盧占魁がパインタラで殺害された(及び王仁三郎らが捕まった)のは6月22日未明である。旅程初日にそういう事件が起きたため旅程の変更を迫られたということになる。これはこの日にパインタラで盧占魁が殺された客観的証拠となる。</ref> <ref>東三省(とうさんしょう)とは、中国東北部にある3つの省(奉天省・吉林省・黒竜江省)のこと。[[#外部リンク]]参照</ref> | ||
* [[揚萃廷]]《よう すいてい》:盧占魁の参謀長 | * [[揚萃廷]]《よう すいてい》:盧占魁の参謀長 | ||
* [[王元祺]]《おう げんき》:通訳 | * [[王元祺]]《おう げんき》:通訳 | ||
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* [[蘿水玉]]《ラ スイギョク》:蘿龍の母 | * [[蘿水玉]]《ラ スイギョク》:蘿龍の母 | ||
* [[王文泰]]《おう ぶんたい》/蘿清吉:蘿龍の父、日本人、[[出口清吉]]か? | * [[王文泰]]《おう ぶんたい》/蘿清吉:蘿龍の父、日本人、[[出口清吉]]か? | ||
== 略年表 == | |||
;2月12日 | |||
:月と太白星が白昼輝くのを目撃〔{{rm|nm|6|出征の辞}}〕 | |||
;2月13日 | |||
:午前3時半、[[綾部]]を汽車で出発〔{{rm|nm|7|奉天の夕}}〕 | |||
:夜、下関港を出航 | |||
;2月14日 | |||
:朝、釜山港に上陸、鉄道で北上 | |||
;2月15日 | |||
:夜、[[奉天]]に到着、[[盧占魁]]と面会〔{{rm|nm|8|聖雄と英雄}}〕 | |||
;3月3日 | |||
:奉天を出発〔10章〕 | |||
;3月6日 | |||
:[[鄭家屯]]《ていかとん》に到着〔{{rm|nm|12|焦頭爛額}}〕 | |||
;3月8日 | |||
:[[洮南]]《とうなん》に到着〔{{rm|nm|13|洮南旅館}}〕 | |||
;3月25日 | |||
:洮南を出発〔15章〕 | |||
;3月26日 | |||
:[[公爺府]]《こんえふ》に到着 | |||
;4月26日 | |||
:奥地へ向けて公爺府を出発〔{{rm|nm|20|春軍完備}}〕 | |||
;4月28日 | |||
:[[索倫]]《そうろん》の[[下木局子]]《しももっきょくし》に到着 | |||
;5月14日 | |||
:[[上木局子]]《かみもっきょくし》に移動〔{{rm|nm|24|木局の月}}〕 | |||
;6月3日 | |||
:[[興安嶺]]《こうあんれい》の聖地を目指して出発〔{{rm|nm|28|行軍開始}}〕 | |||
;6月5日 | |||
:進路が何故か南方に変わる〔{{rm|nm|29|端午の日}}〕 | |||
:[[天保山]]の跡を目撃 | |||
;6月11日 | |||
:[[熱河]]区内のラマ廟に到着〔{{rm|nm|31|強行軍}}〕 | |||
;6月21日 | |||
:[[白音太拉]]《パインタラ》に到着〔{{rm|nm|34|竜口の難}}〕 | |||
:支那軍に武装解除させられる | |||
;6月22日 | |||
:午前1時、捕縛される。 | |||
:[[盧占魁]]ら銃殺される、王仁三郎らも銃殺されそうになるが、助かる | |||
;6月23日 | |||
:早朝、[[鄭家屯]]の日本領事館の[[土屋書記生]]が面会〔{{rm|nm|35|黄泉帰}}〕 | |||
;7月5日 | |||
:日本領事館に引き渡される | |||
;7月21日 | |||
:大連に到着 | |||
;7月25日 | |||
:門司に到着 | |||
;7月27日 | |||
:[[大阪刑務所]]北区支所に収監〔{{rm|nm|36|天の岩戸}}〕 | |||
;11月1日 | |||
:保釈され98日ぶりに出所し帰綾 | |||
== 略史 == | == 略史 == | ||
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[[ファイル:2月12日の天文現象.png|thumb|大正10年と大正13年の2月12日に王仁三郎が目撃したであろう天文現象をシミュレーションした画像。詳細は画像の解説を参照。]] | [[ファイル:2月12日の天文現象.png|thumb|大正10年と大正13年の2月12日に王仁三郎が目撃したであろう天文現象をシミュレーションした画像。詳細は画像の解説を参照。]] | ||
大正10年(1921年)2月12日(旧1月5日)、[[第一次大本事件]]が勃発した。出口王仁三郎は大阪・梅田の[[大正日日新聞社]]社長室にて午前9時半頃に検挙された。この時、晴天の空に〈上弦の月〉と〈太白星〉が白昼にもかかわらず輝いているという珍しい現象を目撃した。 | 大正10年(1921年)2月12日(旧1月5日)、[[第一次大本事件]]が勃発した。出口王仁三郎は大阪・梅田の[[大正日日新聞社]]社長室にて午前9時半頃に検挙された。この時、晴天の空に〈上弦の月〉と〈太白星〉が白昼にもかかわらず輝いているという珍しい現象を目撃した。<ref>大正12年(1923年)12月8日または9日に、王仁三郎は金沢市で日月星が天に輝いているのを目撃した。その奇瑞をデザインして「宇宙紋章」を作った。→「[[宇宙紋章]]」</ref> | ||
それから3年後の大正13年(1924年)2月12日(旧1月8日)、綾部で王仁三郎は再び同じような天文現象を目撃した。白昼に〈楕円形の月〉と〈太白星〉が輝いていたのである。 | それから3年後の大正13年(1924年)2月12日(旧1月8日)、綾部で王仁三郎は再び同じような天文現象を目撃した。白昼に〈楕円形の月〉と〈太白星〉が輝いていたのである。 | ||
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3月8日午後9時30分、洮南駅に到着した。〔{{rm|nm|13|洮南旅館}}〕 | 3月8日午後9時30分、洮南駅に到着した。〔{{rm|nm|13|洮南旅館}}〕 | ||
== | === 洮南から索倫へ === | ||
3月25日早朝、[[王仁三郎]]は[[岡崎鉄首]]、[[植芝盛平]]、[[老印君]]、通訳の王と3台の轎車に分乗して[[洮南]]を出発。副官の[[温長興]]が数名の兵士と共に騎馬で前後を守った。 | |||
3月26日午後6時頃、[[公爺府]]《コンエフ》の老印君の館に到着〔{{rm|nm|15|公爺府入}}〕。公爺府で盧占魁や武器の到着を待つことになる。 | |||
4月14日、[[盧占魁]]は西北自治軍総司令として200人の兵を率い、轎車に乗って公爺府に到着した。〔{{rm|nm|18|蒙古気質}}〕 | |||
4月15日、十連発のモーゼル銃や機関銃が洮南から発送されたという報告が来る。 | |||
4月20日、神勅によって王仁三郎には「那爾薩林喀斉拉額都《ナルザリンカチラオト》」、松村真澄には「伊忽薩林伯勒額羅斯《イボサリンポロオロス》」という蒙古人名が与えられた。〔{{rm|nm|19|仮司令部}}〕 | |||
4月24日午後、洮南から武器が届く。 | |||
4月25日午後、盧占魁は数十の騎兵と200の歩兵を率いて[[索倫山]]へ向かって公爺府を出発した。 | |||
翌26日、王仁三郎と松村真澄は2台の轎車に分乗し、公爺府を出発する。200人の兵士のほか、日本人も皆武器を持ったが、王仁三郎と松村真澄は宗教家として武器は持たなかった。<ref>第67巻([[王仁蒙古入記]]として発行)の次に口述された第68巻([[第66巻]]として発行)に、三五教の宣伝使・[[照国別]]が、[[トルマン国]]の義勇軍に従軍するシーンがある。弟子の[[梅公]]が〈殺伐なる軍隊に参加し、砲煙弾雨の中に馳駆するのは決して宣伝使の本分ぢや厶いますまい〉と進言する。それに対して照国別は〈義勇軍に参加しようと云ふのは傷病者を救ひ、敵味方の区別なく誠の道を説き諭し、平和に解決し、このトルマン国は申すに及ばず、印度七千余国の国民を神の慈恩に浴せしむる為だ。其第一歩として従軍を願つて居るのだ〉と答えている。〔{{rm|66|5|愁雲退散}}〕</ref> | |||
4月28日午前9時20分、王仁三郎一行は索倫の[[下木局子]]に到着。先発の盧占魁一行が出迎えた。〔{{rm|nm|20|春軍完備}}〕 | |||
[[索倫山]]は[[興安嶺]]山脈の支脈であり、百里(400km)四方の地域を索倫と称している。ここは外蒙との連鎖点であった。盧占魁が大救世主を奉戴して蒙古救援軍を起こすというので、人々は大いに歓喜し、素晴らしい人気であった。蒙古の王や喇嘛、馬隊等が次々と噂を聞いて集まり、部下を率いて参加するので、瞬くうちに内外蒙古救援軍は編成された。盧占魁が軍に宛てた手紙によると、この時集まっていた兵員は5~600人であり、他に1千余人が数日以内に集まる予定だった。〔{{rm|nm|21|索倫本営}}〕 | |||
=== 索倫にて === | |||
[[ファイル:熱察綏の位置.png|thumb|200px|熱・察・綏の位置]] | |||
索倫山の本営には次々と兵が集まって来た。 | |||
5月1日、盧占魁は王仁三郎に「庫倫(クーロン。現モンゴル首都ウランバートル)に進出するためには、興安嶺に赤軍が7千人駐屯しているため、貴下の命令通りに直進したら一戦を交えて兵と弾薬を消費してしまう。そこで熱・察・綏<ref>熱河省《ねっかしょう》、察哈爾省《チャハルしょう》、綏遠省《すいえんしょう》</ref>の3地域に進出し、本年はそこで冬籠もりをして兵備を完全に整え、来春、庫倫に進むことにしましょう。庫倫には1万の赤軍が駐屯しているが、来春には10万の兵がここに集まる予定です」ということを進言した。〔{{rm|nm|22|木局収ケ原}}〕 | |||
5月14日、王仁三郎は[[下木局子]]から[[上木局子]]へ移動する。 | |||
5月21日、盧占魁が王仁三郎に「だんだん兵が集まって来ているし、救世主の噂がますます盛んになっているので、彼らを驚かすために風雨を呼び起こしてもらいたい」と、人々に奇蹟を見せてくれるよう頼んだ。しかし王仁三郎は「神界から必要と認められる場合以外には出来ない。奇術のように濫用することは[[兇党界]]に属することなので困る」と断った。自分の代わりに松村真澄に奇蹟を起こさせることにした。23日、松村が黙祷すると、晴天の空が瞬く間に雨雲に覆われ、暴風が襲来した。王仁三郎が天に向かって「ウー」と大喝すると、5分後に雨は止み、空は清朗に澄み切った。〔{{rm|nm|25|風雨叱咤}}〕 | |||
=== 日本での動き === | |||
綾部で軍資金の調達に苦労していた[[加藤明子]]は、王仁三郎が発ってから3週間ほど経った頃(3月初旬か?)王仁三郎からの密書を受け取った。そこには旧3月3日(新4月6日)までに4~5人選んで同道して王仁三郎の滞在地まで来いとの命令が書かれていた。しかしその後、「庫倫到着後に来るように」との連絡が入った。 | |||
4月18日、奉天の[[矢野祐太郎]]からの打電により[[国分義一]]、[[藤田武寿]]、[[加藤明子]]の3人は奉天に向かって出発し、20日奉天に到着した。王仁三郎がいる奥地へ行こうとしたが困難であるため、5月8日帰国の途に就いた。〔{{rm|nm|27|奉天の渦}}〕 | |||
=== 索倫出発 === | |||
6月3日午前3時、一行は索倫の上木局子を出発し、興安嶺の聖地を指して行軍を開始した。この日の夜、大英子児《タアインヅル》の部隊60余騎が脱退し、翌朝出発する時の人数は騎兵500、馬がなく牛車に乗る兵300余の、計800余人であった。〔{{rm|nm|28|行軍開始}}〕 | |||
6月5日、興安嶺の聖地を目指して西北に向かって行軍していたが、針路が突然なぜか南方へ変わった。理由は分からないが先鋒隊はすでに遠く進んでいるため、連絡はできず、後をついて行くしかない。 | |||
巨大な火山のクレーターがあり、王仁三郎は「霊界物語[[第1巻]]にある[[天保山]]の一部だ」と教えた。〔{{rm|nm|29|端午の日}}〕 | |||
6月11日、昼夜兼行の強行軍のため食料の補充ができず、落伍者が増えて行った。 | |||
6月13日、方向は依然として東南に向かい奉天へ近づいて行く。松村真澄が盧占魁にそれを糺すと、盧は「民家の多い所へ行かないと兵糧と馬糧が不足してどうする事もできない」と力なげに答えた。〔{{rm|nm|31|強行軍}}〕 | |||
=== パインタラの難 === | |||
6月20日、[[白音太拉]]《パインタラ》まで7~80支里(中国の1里を500mとして計算すると35 | |||
~40km)まで迫った。「武装解除してからでなくては白音太拉に来てはならない」という手紙が官兵側から届いた。盧軍の武器は全て官兵に引き渡し、白音太拉へ入った。〔{{rm|nm|33|武装解除}}〕 | |||
21日の朝、王仁三郎は白音太拉に入った。盧占魁は午後4時頃到着した。王仁三郎ら日本人は鴻賓旅館《こうひん りょかん》というホテルに泊まることになった。夜1時(22日午前1時)頃、兵士が室内に乱入し、[[萩原敏明]]、[[植芝盛平]]、[[井上兼吉]]、[[坂本広一]]、[[松村真澄]]、[[王仁三郎]]の順で6人を捕縛した。一行は宣伝歌を歌いながら白音太拉の町中を引き回された。盧占魁の部下たちはすでに銃殺され死体が沢山道端に転がっていた。 | |||
6人は一列に並ばされ、今や機関銃の弾が飛んでくると思う矢先、射手は銃の反動を受けて後ろに倒れたため数分を要した。王仁三郎は〈よしや身は蒙古のあら野に朽つるとも日本男子の品は落さじ〉〈いざさらば天津御国にかけ上り日の本のみか世界を守らむ〉〈日の本を遠く離れて我は今蒙古の空に神となりなむ〉等と辞世を7回詠み、大日本帝国万歳、大本万歳を三唱した。そうこうするうちに銃殺は中止となり、一行は通遼公署<ref>通遼は白音太拉の漢名</ref>附属の監獄へ連行された。〔{{rm|nm|34|竜口の難}}〕 | |||
=== 帰国 === | |||
[[ファイル:パインタラで捕まった出口王仁三郎一行.jpg|thumb|200px|白音太拉で捕まった王仁三郎たち]] | |||
[[ファイル:刑務所へ向かう王仁三郎.jpg|thumb|200px|若松支所へ向かう王仁三郎]] | |||
[[白音太拉]]の鴻賓旅館で王仁三郎一行が捕縛された時、そこに泊まっていた日本人が翌朝、庭に大本の神器の杓子が一本落ちているのを見つけた。その日本人はそれが大本のものだと気づき、王仁三郎一行の遭難を知り、朝一番の汽車に乗って[[鄭家屯]]の日本領事館に届けた。領事館から急行した[[土屋書記生]]は22日夕方、白音太拉に到着し、王仁三郎一行の引き渡しを交渉した。 | |||
4~5日経った時、日本から[[広瀬義邦]]が面会に来た。 | |||
7月5日、一行はようやく鄭家屯の日本領事館に引き渡され、翌6日、奉天総領事館へ収容された。他に[[名田音吉]]など4人が収容され、計10人は取り調べの結果、三ヶ年の退支処分で一件落着した。 | |||
7月21日、大連に着く。22日、大連からハルピン丸に乗り、25日午前、門司に着いた。数多の信者に迎えられ、その光景はあたかも凱旋将軍を迎えるが如き有様であった。〔{{rm|nm|35|黄泉帰}}〕 | |||
下関署には[[出口直日]]が待っていた。護送の警官と共に列車に乗ると、直日ほか役員信者が大勢乗っていた。25日は大竹(広島県)警察署、26日は上郡(兵庫県)警察署の拘留所に宿泊した。27日に大阪へ着き、大阪刑務所北区支所(若松町)に収監された(7月17日付で責付が取り消されていたため)。98日の牢獄生活を経て、11月1日午前11時11分に若松支所を出た。外には役員信者数百名、その他新聞記者や見物人が沿道に黒山の如くに並んでた。小雨が降る中を、さぬきや旅館に入り、食事をした後、無事帰綾した。〔{{rm|nm|36|天の岩戸}}、大本年表〕 | |||
== 関連項目 == | == 関連項目 == | ||
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* [[出口和明]]『[[出口王仁三郎 入蒙秘話]]』 | * [[出口和明]]『[[出口王仁三郎 入蒙秘話]]』 | ||
* 朽木寒三『[[馬賊戦記]]』:馬賊の[[小日向白朗]](こひなた はくろう)の伝記小説。小日向は入蒙した王仁三郎と秘かに面会しており、その時の様子が小日向の視点で描かれている。 | * 朽木寒三『[[馬賊戦記]]』:馬賊の[[小日向白朗]](こひなた はくろう)の伝記小説。小日向は入蒙した王仁三郎と秘かに面会しており、その時の様子が小日向の視点で描かれている。 | ||
== 外部リンク == | |||
* {{wp|東三省}} | |||
* {{wp|清#清の行政区画}} | |||
* [https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Qing_Dynasty_blank_map_1911.svg 1912年に中華民国臨時政府が成立した際に主張した領土1166萬平方公里] - WIKIMEDIA COMMONS | |||
== 脚注 == | == 脚注 == | ||
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{{デフォルトソート:にゆうもう}} | {{デフォルトソート:にゆうもう}} | ||
[[Category:入蒙|*]] | [[Category:入蒙|*]] | ||
[[Category:出来事]] | |||