十二段返しの宣伝歌

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
十二段返しの宣伝歌

十二段返しの宣伝歌(じゅうにだんがえしのせんでんか)とは、出口王仁三郎の作だと言われた暗号形式の宣伝歌。縦横12のマス目にカナが記され、ある特別な読み方をすると「綾部に天子(=天皇)を隠せり」「今の天子ニセモノなり」という文言が現れてくる。そのため第二次大本事件で不敬罪の証拠の一つとして追求された。しかし第一審で弁護側により、王仁三郎ではなく別人の作であることが明らかにされた[1]。略して「十二段の歌」等とも呼ばれる。

概要

「十二段返し」とは、12文字(段)ごとに改行する、という意味だと思われる。

1行12文字×12行+1文字で、次の計145文字からなる歌である。さらにこの"暗号文"を解読するためのヒントのような文章が、各行の下に分割して記されている。[2](丸括弧内は読む便宜を図り仮に漢字を当てはめた)

  • ①かみのあれにしりうぐうの(神の現れにし竜宮の)|十二通の十二段四段門の上流を
  • ②たかきやかたをなにぞしれ(貴き館を何ぞ知れ)|掬ひて天下の正段を知れ
  • ③かみすべたもふのちのよの(神統べ給う後の世の)|流れ流れて八段の
  • ④あやのにしきをものされて(綾の錦をものされて)|逆くに流るる逆汐に
  • ⑤ひろきてんかにせんでんし(広き天下に宣伝し)|潜む八岐の大おろち
  • ⑥こうてんこじきにつぽんの(皇典古事記日本の)|八つの頭に八つの尾は
  • ⑦もとつしぐみをしらしめつ(元つ仕組を知らしめつ)|られられて十六の
  • ⑧よびとをかいしんだい一と(世人を改心第一と)|またうらわかきさほひめを
  • ⑨ときつかたりつてるたえの(説きつ語りつ照妙の)|神代の夢と消えやらで
  • ⑩たまのくもりをのこりなく(魂の曇りを残りなく)|三千とせなりし今の世に
  • ⑪とりてせかひにまことなる(取りて世界に真なる)|化けて洋服身にまとひ
  • ⑫ただ一りんのみいづあふがん(唯一厘の御稜威仰がん)|大和島根の大空を
  • いつの日か いか那る人のとくやらむ このあめつちの おほひなるなぞ(何時の日か、いかなる人の解くやらむ、この天地の、大いなる謎)|帰りて茲に三千年 思池の鬼とやらわれて 神の稜威に照らされて 元の姿となる神は きくも邪悪の守護神

解読のヒント「四段門の上流を」つまり四段目を順に(原文は縦書きなので右から左へ順に)読むと「あやべにてんしをかくせり(綾部に天子を隠せり)」という文言が現れる。

次に「八段の 逆くに流るる」つまり八段目を逆に(左から右へ)読むと「いまのてんしにせものなり(今の天子偽者なり)」という文言が現れる。

第二次大本事件の第十回予審調書によると、王仁三郎は次のような内容を"自供"している。

  • この歌は自分が大正6年(1917年)12月頃に作ったもの。
  • 機関誌等で発表はしていない。加藤新子(加藤明子)や他1~2名の役員に見せた。歌を書いた紙は加藤新子に渡した。
  • 天子となるべき者は自分であり、綾部の大本に隠されている。今の天子つまり天皇陛下は偽の天皇あり、八頭八尾の大蛇である。
  • この歌は自分(王仁三郎)が日本を統治すべき真正の天子であるということを主張するために、自分が作ったものである。

ただしこの予審調書は予審判事による創作や、王仁三郎自身のウソの供述によって作られたものである。当局が作り上げたストーリーを受け入れないと拷問によって殺されてしまうため(実際に命を落とした被告もいた)王仁三郎や他の被告はウソの予審調書に捺印をした。第二審の裁判長(高野綱雄)が宗教に理解ある人物だったため、二審で王仁三郎は予審調書や一審の供述を一転して否定した。

裁判

「十二段返しの宣伝歌」は、被告人の一人・中野与之助の不敬罪の証拠の一つとして挙げられた。中野は治安維持法違反及び不敬罪で懲役4年を求刑された[3]

だが一審で弁護団は、石田卓次の証言によって、これは静岡県の安藤唯夫が作った歌であり、王仁三郎が作った歌ではないと主張した[1]

中野本人は王仁三郎作だと信じていたようである。

 大本教の静岡の准宣伝使であった中野與之助は、一九三二(昭和七)年一月、安藤から西洋紙にペンで書かれた〝十二段返ノ歌〟を見せられる。安藤はこの時、「この歌には御皇室に対して真に畏れ多きことが書いてあるから、無暗に持ち廻り誰にも見せてはならない」といったという。與之助はそれを家にもちかえり考えたすえ、出口王仁三郎こそ神の命により天子になり世界を統一するものだと確信するのだった。(略)與之助は、心の許せる信者にこの歌をみせ、信者に対してはこう説いてまわったのだった。一九三二、三年のことである。

「現在の皇室が我が国を治めているのは間違いで、出口王仁三郎が本当の我が国を治めて行かなければ我々が幸福に暮すことはできない。出口王仁三郎が現在の皇室に代って我が国を治めることになるのが大本の〝立替立直〟なのである。そして出口王仁三郎が真の日本の天皇となるべき人物なのである」。
出典: 林雅行『天皇を愛する子どもたち』1987年、青木書店、181~182頁、NDLDL蔵書 PID:12109741/1/95

二審判決書では、予審や一審判決の不当性が明らかにされている。「十二段返しの宣伝歌」を自分が作ったという王仁三郎の供述は〈措信《そしん》シ得サルコト明《あきらか》ナリ〉(信用できないということ)と裁判長(高野綱雄)は断定した[4][5]

肯定派

「十二段返しの宣伝歌」の作者が王仁三郎だということは、裁判で完全に否定された。しかしその後も、これが王仁三郎の作だと肯定し、それを公言している者がいる。

第二次大本事件当時の京都府特高課長だった杭迫軍二は、昭和29年(1954年)宇佐美龍堂が発行する月刊『現代人』に全6回で大本攻撃の記事を掲載した。その第1回目で「十二段返しの宣伝歌」を紹介し、二審判決で信用できないとされた予審調書の王仁三郎の供述を引用して、王仁三郎が現皇統を否定し自分が天皇に成り代わろうとしていたと主張した[6]。(これについては土井靖都が反論の論文を『現代人』に掲載している[7])(『現代人』記事は「雑誌記事一覧#昭和(20年~39年)」参照)

また杭迫は昭和46年(1971年)に著書『白日の下に』を出版し、「十二段返しの宣伝歌」を載せてやはり王仁三郎の不敬の証拠としている[8]

杭迫とは逆の立場で「十二段返しの宣伝歌」の作者王仁三郎説を肯定する者もいる。

山本昌司出口恒によると、この歌が安藤唯夫作だというのはウソだという。石田卓次(法廷で安藤作だと証言した信者)が王仁三郎を守るため、この歌が王仁三郎と無関係だということにしようとした。そこで、すでに帰幽していた安藤唯夫[9]に罪を被ってもらうことにして、「歌は安藤唯夫が作った」と他の信者と口裏を合わせたのだという。そのことは出口禮子が、石田から直接聞いて確認しているという。[10] [11]

杭迫は王仁三郎は不敬だと非難攻撃するために作者王仁三郎説を肯定している。それに対して山本や出口恒は、王仁三郎が真の天皇であるということを主張するために作者王仁三郎説を肯定している。

脚注

  1. 1.0 1.1 『大本七十年史 下巻』「弁護人の弁論#」:〈根上信は主として静岡県の五被告人を担当し、中野与之助にたいする証拠の一つとされている「十二段返しの歌」には、「いまのてんしにせものなり」という文字がかくされているが、これは石田卓次の証言のように安藤唯夫の作であることを、事例をあげて主張した。〉
  2. 杭迫軍二の著述「宗教界の野望」及び『白日の下に』をもとに作成した。
  3. 日本政治裁判史録 昭和・後』130頁、NDLDL蔵書 PID:2992897/1/71。一審判決は懲役3年6ヶ月。二審判決は治安維持法違反は無罪、不敬罪で懲役1年6ヶ月。
  4. 『大本七十年史 下巻』「判決#」:〈「不逞思想ヲ端的ニ表現シタルモノニシテ有カナル証拠ト目セラ」れていた「十ニ段返ノ宣伝歌(被告人中野与之助事件第一号ニ掲載ノ歌)」については、「王仁三郎ハ予審ニ於テ右宣伝歌ハ自己ノ作成シタルモノト詳述シ居レトモ 措信シ得サルコト明ナリ」と判決文((六)の(ロ))に指摘した。また、「凡ソ調書ノ記載カ犯罪ノ証拠ニ供セラルルハ其内容疑ノ余地ナキ場合又ハ反対ノ証拠ナキ場合ニシテ 暴行強迫ニ基因スルヤ否ヤハ現在ノ法制上採否ノ絶対事由ニ非ラサルナリ」とし、「本件検挙及取調ニ関シテハ……警察協会雑誌大本事件特輯及……警保局保安課発行大本事件ノ真相ナル小冊子ハ……其ノ事情考査上逸スヘカラサル資料ノ一タルヲ失ハス」と判定したことが注目される。〉
  5. 新月の光』0429「子指の拇印(第二次大本事件予審訊問調書)」:〈予審訊問調書の中、十二段返しの歌の点と制作の時機(第十回)、「いつのひかいかなる人のとくやらむこのあめつちのおほひなるなぞ」は王仁が作った歌、(第五十四回)及び、王仁及び出口家のものは神々の霊代ではない(第八回)との点が気に入らないので子指で拇印を押しておいた。(昭和十七年十一月)(控訴審の法廷で聖師が「気に食わないところには子指で捺印しました」と陳述されると、直ちに高野綱雄裁判長は予審訊問調書で確認した)
  6. 亀谷和一郎(杭迫軍二のペンネーム)「宗教界の野望─大本教について─」『現代人』昭和29年(1954年)7月号、34頁、NDLDL蔵書 PID:3547912/1/19
  7. 土井靖都「歪められた大本教事件について─亀谷和一郎氏の評説に応う─」『現代人』昭和29年(1954年)11月号、32~41頁・51頁、{ndldl|3547916/1/20}}
  8. 白日の下に』335頁。NDLDL蔵書 PID:12282488/1/163
  9. 帰幽した年は未確認
  10. 山本昌司大本に生きる』71頁:〈実は、重大な証言が出口和明夫人の出口禮子先生からもたらされた。右の資料に登場する石田卓次氏は戦後も大本の幹部として活躍なされたのであるが、聖師様の予審調書のままでは不敬罪の判決が下るのは間違いない、なんとか状況を覆したいと、既に死亡していた伊豆湯ヶ島、湯本館の当主であった安藤唯夫氏に罪をかぶって貰おうと関係者が口裏を合わす為、拘置所の便所や廊下ですれ違う際の目の合図で連絡を取り合って右の資料の様な証言にしたというのである。これは禮子先生が石田卓次氏本人に直接聞いた話で、御子息の石田泰雄氏(静岡県焼津市で歯科医師をされて居られ先年逝去された)も同様の証言を聞いておられる。石田卓次氏は厳格にして実直な御人柄で古武士の風格を持する大本人であった。その御人柄を考えるに、聖師様を守るために必死の思いで、右の様な証言をされたのであろう。〉
  11. 神の国 (愛善苑)』平成23年(2011年)10月号、71頁上段