霊主体従

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』

霊主体従(れいしゅたいじゅう)とは、

(1) 「霊」系を主とし「体」系を従とする宇宙の根本原則のこと。

(2) 霊界物語の一番目の輯の輯題。第1巻から第12巻までがこの輯に含まれる。[1]

(3) 大本神諭伊都能売神諭で「霊主体従」という言葉を「ひのもと」または「ぜん」と読ませている。[2]

本項では(1)について解説する。


概要

  • 霊系と体系に分類されるものは、神と人、天と地、男と女、陽と陰、霊界と現界、霊魂と肉体、火と水、左と右、心と体、精神と物質、理想と現実など多岐にわたる。陽主陰従、火主水従などと表現することもできる。
  • 「霊主体従」の反対語は「体主霊従」である。
  • 「主」と「従」という言葉が使われているが、霊が重要で、体は重要ではない、という意味ではない。どちらも重要であり、比率で言えば5対5である。肉体を軽視する禁欲主義のようなものとは異なる。霊体一致して調和を保ちつつ、霊(精神)が主導権を握る状態をいう。
  • 三五教は霊主体従(比率は霊5体5)の宗教である。ウラル教は体に偏重した(たとえば体6霊4の比率のような)宗教である。バラモン教は霊に偏重した(たとえば霊6体4の比率のような)宗教である。ウラル教もバラモン教も宇宙の根本原則から外れた宗教である。
  • 霊主体従が宇宙の根本原則であるにもかかわらず、人類はすっかり体主霊従の世界に堕落してしまった。これを霊主体従に立て直すことによって、ミロクの世が実現する。
  • 「霊主体従」は、宇宙の組織上・構造上の言い方であり、活用上・運動上からは「進左退右」と言う。

(以下の抜粋を参照)

抜粋

  • 第1巻発端#:〈宇宙一切は霊界が主であり、現界が従であるから、これを称して霊主体従といふのである。 霊主体従の身魂を霊の本の身魂といひ、体主霊従の身魂を自己愛智の身魂といふ。霊主体従の身魂は、一切天地の律法に適ひたる行動を好んで遂行せむとし、常に天下公共のために心身をささげ、犠牲的行動をもつて本懐となし、至真、至善、至美、至直の大精神を発揮する、救世の神業に奉仕する神や人の身魂である。体主霊従の身魂は私利私欲にふけり、天地の神明を畏れず、体欲を重んじ、衣食住にのみ心を煩はし、利によりて集まり、利によつて散じ、その行動は常に正鵠を欠き、利己主義を強調するのほか、一片の義務を弁へず、慈悲を知らず、心はあたかも豺狼のごとき不善の神や、人をいふのである。〉
  • 第3巻凡例#(編者による):〈盤古大神は体主霊従(われよし)で、国常立尊霊主体従(ひのもと)であります。(略)大自在天は、力主体霊(つよいものがち)であつて(略)〉
  • 第3巻第14章霊系の抜擢#磐長彦長白山の八頭神)の後妻問題で、霊主体従に適うかどうか議論されている。
  • 第6巻第26章体五霊五#:〈太陽の一霊四魂厳の身魂と総称し、かつ霊主体従の身魂ともいふなり。故に大空は霊を主とし、体を従とす。〉〈太陽の霊魂を厳の身魂と称するに対し、地の霊を瑞の身魂といひ、体主霊従の身魂といふ。〉〈体主霊従とは、体六霊四の意に非ず、霊主体従とは霊六体四の意に非ず、体主霊従なるものは体五霊五の意味なり。〉〈霊五体五(霊主体従)をひのもとの身魂といひ、体五霊五(体主霊従)を又ひのもとの身魂といふ。併し行動上の体主霊従は、之を悪の身魂または智慧の身魂といふなり。また霊主体従とは霊五体五の意味で、体主霊従とは体五霊五の意味なりといふ説明は、組織的の説明にして、行動上の説明にあらず。読者よくよく注意すべし。〉
  • 第15巻第1章破羅門#:〈婆羅門の教は(略)難行苦行を以て神の心に叶ふものとなし、霊主体従の本義を誤解し、肉体を軽視し、霊魂を尊重する事最も甚しき教なり。〉〈(略)バラモン教と云ふ怪体な宗教を開き、表面は三五教の信条の如く霊主体従を標榜し、数多の人民の肉体を傷つけ血を出させて、それが信仰の本義と、すべての者に強ひる(略)〉
  • 第48巻第1章聖言#:〈人間は霊界の直接又は間接内流を受け、自然界の物質即ち剛柔流の三大元質によつて、肉体なるものを造られ、此肉体を宿として、精霊之に宿るものである。其精霊は即ち人間自身なのである。要するに人間の躯殻は精霊の居宅に過ぎないのである。此原理を霊主体従といふのである。〉
  • 第48巻第12章西王母#:〈故に人は霊主体従と云つて自然界に身を置くとも、凡て何事も神を先にし、愛の善と信の智を主として世に立たねばならないのである。〉
  • 第52巻第17章飴屋#:〈霊主体従とは、人間の内分が神に向つて開け、唯神を愛し、神を理解し、善徳を積み、真の智慧を輝かし、信の真徳に居り、外的の事物に些しも拘泥せざる状態を云ふのである。斯の如き人は所謂地上の天人にして、生きながら天国に籍を置いて居る者で、この精霊を称して本守護神と云ふのである。〉〈どうしても人間が肉体を保つて現世にある間は、絶対的の善を為す事は出来ない。併しながら其内的生涯に於て天国に籍を置く事を得るならば、最早これを霊主体従の人と云ふ事が出来るのである。〉
  • 入蒙記第1章水火訓#:〈火の洗礼と云つても東京の大震災、大火災の如きものを云ふのではない。大火災は物質界の洗礼であるから、之は矢張り水の洗礼といふべきものである。火の洗礼は霊主体従的神業であつて、霊界を主となし、現界を従となしたる教理であり、水の洗礼は体主霊従といつて、現界人の行為を主とし、死後の霊界を従となして説き初めた教である。故に水洗礼に偏するも正鵠を得たものでないと共に、火洗礼の教に偏するも亦正鵠を得たものでない。要するに霊が主となるか、体が主となるかの差異があるのみである。〉
  • 大本神諭 明治33年旧8月8日#:〈此の経綸を判けて光りを出すのは、日本の霊主体従より無いので在るぞよ。〉
  • 大本神諭 明治36年旧6月12日#:〈体主霊従の世を平げて、霊主体従一と筋に成りて仕舞はんと〉
  • 大本神諭 明治42年旧10月6日#:〈日本の国は昔から霊主体従の基の国、神の国で、昔から外の国とは立別てある尊い国であるぞよ。〉
  • 大本神諭 明治43年旧4月15日#:〈今度の立替は日本の霊主体従の御血筋が、国常立尊の世の持方は辛いと申し成されて、斯んな辛い行り方は外の神等が能う勤めぬと、皆の神々が一つの心で、此方の行方に従て下さる神様は御一方も無かりたから、止むを得ず素直に神々の御意見通り押込められたので在るが〉
  • 伊都能売神諭 大正8年2月18日#:〈斯の結構な神国の神民が、霊主体従の行り方を薩張り忘れて了ふて、外国の体主霊従の世の持ち方に八分も九分も成りて了ふて居るのも、昔の神代に露国で育ちた八尾八頭の大蛇の悪霊に欺し込まれて、泥の世界に浸み切つて居るから(略)〉
  • 大本略義」内「霊主体従#[3]:〈天之御中主神は、活動の太初に於て陽を主と為し、陰を従と為し玉うた。大本霊学は此根本原則を普通「霊主体従」という言葉で言い現わして居る。陽主陰従でも火主水従でも意義は同一である。 「霊主体従」が宇宙の大原則である事は(略)〉
  • 「大本略義」内「進左退右#[4]:〈宇宙の二大原質の関係は「霊主体従」であるが、其活用から云えば霊は左で、進む性質を有し、体は右で、退く性質を有する。乃で「霊主体従」と云う事を、運動の上からは、「進左退右」と言う言葉で現わしたのである。 宇宙全体の運動という運動は、この「進左退右」を以て根本原則とし(略)〉
  • 霊主体従の精神#[5]:〈人として真の生命に住することは、物欲にとらわれぬ霊主体従の大道を体得する以外に途はないのである。〉〈霊主体従の精神は、すべてのものがますますその個性を発揮するとともに、いよいよ固く元に帰向し統一される途なのである。そこにこそ永遠に栄えゆく世界が開かれるのである。 結局、この世界もすべての国家も神の御心に帰向して、しかもその個性を縦横に発揮し、霊主体従の大精神に立脚して諸々の制度を確立するまでは、なんどもなんども戦争と革命の惨事をくりかえさねばならないであろう。〉
  • 神霊界』大正8年8月1日号掲載「随筆#」:〈霊主体従(幽の顕)の主宰神たる天照大神様は、世界を御統一遊ばさるるに就て、表現神たる天津日嗣天皇を、豊葦原中津国に降し玉ひ、体主霊従(顕の幽)たる大国主命を帰順せしめて、天の下四方国を安国と平らげく安らげく知食し給ふ時代が、既に到来したのであります。〉〈杢兵衛の肉体を守つて居るものは、杢兵衛に体内に賦与されたる一霊四魂そのものである。是が所謂本守護神と云ふものである。又杢兵衛の体内の霊魂を保ち留めて、其霊性を完全に発揮せしむるのは杢兵衛の肉体である。故に杢兵衛の肉体なるものは、杢兵衛に宿る霊魂に対しての守護神である。霊魂即ち真心が肉体を守護すれば、霊主体従、尊心卑体となりて善の本となり、肉体が勝て霊魂を守護すれば、体主霊従、尊体卑心となりて悪の始を為すのである。要するに善良なる守護神も悪逆なる守護神も、只だ霊主と体主との差異より生ずるので、決して他方(外部)に特殊の守護神なるものが有つて、杢兵衛の霊なり体なりを守護するものでは無いのである事は、万古不易の大真理である。〉
  • 神聖』昭和10年10月号掲載「回顧四十年#」:〈皇道精神とは霊主体従の精神である(略)〉〈日本精神とは霊主体従の精神の意であつて、物質よりも霊魂を重んじ社会制度よりも国民の精神を正しくして国家を治めんとするものである。〉
  • 第二次大本事件の「地裁公判速記録(3)#[6]:(裁判長の質問に対する王仁三郎の返答)〈霊主体従と云ふことは、字のごとく心を主とし体を従とすると云ふことで、体を──家を立派にする、身なりを立派にすると云ふことは是は体が主になる。即ち体主霊従であります。 詰り、さうすることは霊が──心が従になつて、体が主人になつて、しまひには悪いことをするやうになる。 所が、霊主体従、即ち霊が主になつて居れば、ぼろぼろの着物を着て居つても、心が真直ぐであれば宜い。又、体が従になるから、体は汚い着物を着て居つても、心さへ真直ぐなれば宜い。 霊主体従は善、体主霊従は悪を為すの本と書いてあります。霊主体従は善を為す本と書いてあります。〉

関連項目

脚注

  1. 初版発行時から輯題が付けられていたわけではない。12巻ごとに輯とし、第1~12巻に「霊主体従」という輯題が付けられたのは、大正12年1月からのようである。第50巻序文#:〈霊界物語第一巻より第十二巻までを第一輯とし改めて「霊主体従」と題し〉
  2. 大本神諭及び伊都能売神諭に「霊主体従」という言葉は57回使われている。
  3. 出口王仁三郎著作集 第1巻』所収
  4. 『出口王仁三郎著作集 第1巻』所収
  5. 『出口王仁三郎著作集 第3巻』収録、初出『人類愛善新聞』昭和10年11月3日
  6. 大本史料集成 3』収録
  7. 第59巻第5章有升#第59巻第18章手苦番#