内分・外分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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内分(ないぶん)と外分(がいぶん)は、人間の霊魂・霊界に関する方面(内分)と、肉体・現界に対する方面(外分)を指す用語である[1]

概要

内分とは

  • 「霊覚」[2]
  • 「人の霊的人格」[3]
  • 「善愛の想念や情動」[4]

である。

外分とは、

  • 人の自然的、即ち外的記憶に属するものを外分と称する。想念と、想像に関する一切の事物を言う。人間の知識や学問などから来る悦楽・快感の世間的趣味を帯びるもの、肉体の感官に属する諸々の快感・感覚、言語、動作を合わせて、外分となる。これらの外分は、大神より来る神的、即ち霊的内流が止まる所の終極点である。[5]
  • 外分とは「世間的影像」である。天人は外分を有しない。[6]
  • 「世間的、自然的事物」[7]
  • 外分とは「身体、動作、面貌、言語等」を指す。[8]

である。

  • 人間の死後、中有界において経過すべき状態が三つある。第一は外分の状態、第二は内分の状態、第三は準備の状態である。中有界にいる期間はまちまちだが、30年以上いる者は無い。三つの状態を経ずに直ちに天国に昇る者も、地獄に落ちる者もいる。その理由は、内分と外分の間に相応があるか否かによる。[9]
  • 三五教は内分的の教えを主とし、他の教え(ウラル教バラモン教ウラナイ教)は外分的の教えをもって開いた。[10]
  • 人間の理性心に達する道は内外の二つに分かれている。最も高い道は内分の道であり、愛の善と真の信とが大神より直接入って来る道である。もう一つは低い道、外分の道であり、根底の国からあらゆる罪悪と虚偽とが忍び入る。この内外二つの道の中間に位置しているのが理性心である。理性心というものは、その成立の最初は必ず精霊界(中有界)に相応するものである。[11]
  • (霊界において)精霊の内分はたちまち外分に現れる。[12]
  • (天国において)内分の同じ者は、外分も似るので、天国団体には変わった者がいない(みな似たような容姿をしている)。[13]
  • 内分とは、人の霊的人格である。各人の内分、即ち人の霊的人格をなせる霊界には二つの国土がある。意思の国と智性の国である。意思は善に対する情動によって、智性は真に対する情動によって、国土を統治している。これは天国と霊国に相応している。[14]
  • 人間の中にも自然界と霊界がある。心性に属して、智と意とに関する内分は霊界を作り、肉体に属して感覚と動作に関する外分は自然界を作っている。[15]
  • 現代の人間はほとんどが、外分のみ開けており、内分は完全に開けていない。物欲のために内分を閉ざしている。[16] [17]
  • 人の前額は愛善に相応し、顔面は神格の内分一切に相応する。大神の御神格の直接内流は必ず前額より始まり、顔面全部へと及ぶ。[18]
  • 天人は人の内分を通じて、地上の事物を見ることが出来る。天人は人間の内分によって世間の事物と和合し、世間はその内分によって天界と和合する。これを顕幽一致、霊肉不二と呼ぶ。[19]
  • 人間はその内分から見ると霊界に居るが、外分から見ると自然界(現界)に居る。[20]
  • 人間の内分に天界を有する者を「人」と言い、天界を有しない者を「人獣」と言う。[21]
  • 人間は、その内分において天界に向かい、その外分においては地獄界に向かっている。[22]
  • 大神の御神格をその内分に受けることが多い人間を「天的天人」と呼ぶ。また「内的天人」「高処天人」とも呼ぶ。[23]

その他

  • 霊界物語で「内分」「外分」という言葉が使われるようになるのは、第16巻巻末の「霊の礎」(大正11年12月)からである。大本神諭にはこの言葉は使われていない。

脚注

  1. 井上留五郎暁の烏』「(四)内流と外流(内外面、内外分)#」:「霊界物語にはこの霊魂の方面を内面、その霊能を内分と示してあります」「現界に対する方面が人の外面であり、その内容を外分と言うのでありまして、御神諭中の人間心、肉体心とは即ちこれであります」
  2. 第48巻第1章聖言#:「そは其人の内分(霊覚)は」…「内分」の直後にカギ括弧で「霊覚」と書いてある。
  3. 第47巻第20章間接内流#:「各人の内分、即ち人の霊的人格をなせる霊界の中にも亦二国土があつて」
  4. 第56巻第6章高圧#:「内分とは善愛の想念や情動である」
  5. 第48巻第10章天国の富#:「人の自然的即ち外的記憶に属するものを外分と称し、想念と、これよりする想像とに関する一切の事物を云ふのである。約言すれば、人間の知識や学問等より来る悦楽及び快感の総て世間的趣味を帯ぶるもの、又肉体の感官に属する諸々の快感及び感覚、言語、動作を合せて之を人間の外分となすのである。是等の外分は何れも大神より来る神的即ち霊的内流が止まる所の終極点に於ける事物である」
  6. 第49巻第1章地上天国#:「而して人間は天人の有せざる外分なるものを持つてゐる。其外分とは世間的影像である」
  7. 第49巻第1章地上天国#:「人間の外分をなせる世間的、自然的事物即ち是人格にして」
  8. 第56巻第6章高圧#:「外分とは概して言へば身体、動作、面貌、言語等を指すのである」
  9. 第16巻霊の礎(一)#:「此の如く時限に於て相違があるのは、人間の内外分の間に相応あると、あらざるとに由るからである」「人間の死後、高天原や根底の国へ行くに先だつて何人も経過すべき状態が三途ある。そして第一は外分の状態、第二は内分の状態、第三は準備の状態である。この状態を経過する境域は天の八衢(中有界)である」、第42巻総説に代へて#にもほぼ同じ記述あり。
  10. 第47巻総説#:「神素盞嗚尊が三五教を開き給ひ数多の宣伝使を四方に派遣し給ふ御神業は、決して現界ばかりの物語ではありませぬ。霊界即ち天国や精霊界(中有界)や根底の国まで救ひの道を布衍し給うた事実であります。ウラル教やバラモン教、或はウラナイ教なぞの物語は、大抵顕界に関した事実が述べてあるのです。故に三五教は内分的の教を主とし其他の教は外分的の教を以て地上を開いたのであります。故に顕幽神三界を超越した物語と云ふのは右の理由から出た言葉であります」
  11. 第47巻第8章中有#:「人間の理性心に達する道は内外二つに分れて居る。最も高き道即ち内分の道は愛の善と信の真とが大神より直接に入り来る道である、さうして一つは低い道、即ち外部の道である。此道は根底の国より所在罪悪と虚偽とが忍び入るの道である。此内部外部の道の中間に位して居るのが所謂理性心である」
  12. 第56巻第6章高圧#:「総て精霊の内分は忽ち外分に現はれるものである」
  13. 第47巻第18章一心同体#
  14. 第47巻第20章間接内流#
  15. 第47巻第21跋文章#
  16. 第48巻第1章聖言#:「現代の人間は百人が殆ど百人迄、本守護神たる天人の情態なく、何れも精霊界に籍をおき、そして精霊界の中でも外分のみ開けてゐる、地獄界に籍をおく者、大多数を占めてゐるのである」
  17. 第50巻第8章常世闇#:「大抵の人間は、高天原に向つて其内分が完全に開けてゐない」「現代の人間は高天原より物欲の為に自然に其内分を閉し」
  18. 第48巻第1章聖言#
  19. 第48巻第1章聖言#:「すべて天人と語り合ふ者は、又高天原の光によつて其処にある事物を見ることを得るものである。そは其人の内分(霊覚)は此光の中に包まれてゐるからである。而して天人は此人の内分を通じて、又地上の事物を見ることを得るのである。即ち天人は人間の内分によつて、現実界を見、人間は天界の光に包まれて、天界に在るすべての事物を見ることが出来る。天界の天人は人間の内分によつて世間の事物と和合し、世間は又天界と和合するに至るものである。之を現幽一致、霊肉不二、明暗一体といふのである」
  20. 第48巻第10章天国の富#:「人間はその内分より見て霊界に居るものであるが、それと同時に、外分より見て、人間は自然界に居るのである」
  21. 第48巻第12章西王母#:言霊別命のセリフ「即ち人間の内分に天界を有するものを人と云ひ、天界を有せないものを人獣と云ふのです。ここには決して人なる天人はあつても現界の如き人獣は居りませぬ。然し私が今人獣と云つたのは霊的方面から云つたのです」
  22. 第51巻総説#:「人間はその内分に於て至聖至美至善の天界即ち高天原に向ひ、その外分に於ては地獄界に向つて居るものである事は既に已に述べた処であります」
  23. 第52巻第2章哀別の歌#:「大神の御神格を其内分に受くること多き所の人間を称して天的天人といふ。又内的天人、高処天人とも別称するのである」

関連項目