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ページの作成:「'''中野与之助'''(なかのよのすけ)は、三五教 (中野与之助)の開祖。元大本信徒。正しくは「中野與之助」。 == 概要 == 中野は第一次大本事件の新聞報道(大正10年5月10日に報道解禁)によって出口王仁三郎を知った。その後、綾部に行き王仁三郎を訪ね、「この人なら自分が師匠としてゆける人だ」と思った<ref name="makoto_p77">『まこと…」 |
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* 明治20年(1887年)8月12日:静岡県焼津村で生まれる。 | * 明治20年(1887年)8月12日:静岡県焼津村で生まれる。 | ||
* 大正6年(1917年):建設工事請負業を始める。(大正10年、同業を止める) | * 大正6年(1917年):建設工事請負業を始める。(大正10年、同業を止める) | ||
2026年5月29日 (金) 03:44時点における版
中野与之助(なかのよのすけ)は、三五教の開祖。元大本信徒。正しくは「中野與之助」。
概要
中野は第一次大本事件の新聞報道(大正10年5月10日に報道解禁)によって出口王仁三郎を知った。その後、綾部に行き王仁三郎を訪ね、「この人なら自分が師匠としてゆける人だ」と思った[1]。
昭和4年(1929年)3月、大本に入信[1]。
第二次大本事件で投獄された。
王仁三郎昇天後の昭和24年(1949年)4月、清水で「三五教」を開教する。
略年表
(『まことのちから』を主な資料として作成した)
- 明治20年(1887年)8月12日:静岡県焼津村で生まれる。
- 大正6年(1917年):建設工事請負業を始める。(大正10年、同業を止める)
- 大正7年(1918年)、中野は長沢雄楯の元で神術霊術を学ぶため清水へ通うようになる[2]。
- 大正10年(1921年)5月以降(おそらく初冬[3]):綾部に出口王仁三郎を訪ねる。満34歳。
- 昭和4年(1929年)3月:大本に入信。満41歳。
- 昭和5年(1930年)から15年まで10年ほど、水野満年や水谷清などから言霊学、天津金木学などを学ぶ。
- 昭和7年(1932年)から15年まで、長沢雄楯から霊学を学ぶ。(長沢は昭和15年10月帰幽)
- 昭和10年(1935年)12月8日:第二次大本事件で検挙される。
- 昭和11年(1936年)3月から12年10月まで、入獄。
- 昭和20年(1945年)第二次大本事件終結。無罪。
- 昭和24年(1949年)4月:清水市玉ノ井で三五教を開教。満61歳(数え63歳)。
- 昭和49年(1974年)6月24日:東京の日本医科大学附属病院で帰幽。満86歳(数え88歳)。