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2025年6月5日 (木) 02:55時点における最新版



玉川研究所(たまがわけんきゅうじょ)は、昭和神聖会映画部の施設。東京市世田谷区の玉川[1]にあった。昭和10年6月の開設されたが、ここでの映画制作は失敗し、8月に閉鎖された。
概要
昭和10年(1935年)6月1日、昭和神聖会は映画部を設置。東京の多摩川の河畔に作られた「玉川研究所」の開所式及び鎮座祭が執行された。副統管の出口宇知麿が臨席した。[2] [3]
部長に原真平、次長に中山勇次郎が任命された[2]。映画部の中に、製作局、配給局、貿易局、経理局、研究局の5局が置かれた[4] [5]。
住所は世田谷区玉川町。地番は世田谷区660番地[6](二子玉川駅の近く、多摩川沿い)。→その具体的な場所について「トーク:玉川研究所」
原が所有していた元舞踊研究所の建物を改修して作られた。[7]
玉川に施設を建てる計画は遅くとも4月から動き出している。4月19日に宇知麿らが亀岡から東京・玉川に視察に訪れており、5月8日に研究所建築の修祓式が執行されている。[7]
統管の出口王仁三郎は7月26日に玉川研究所を訪問、宿泊し、翌27日に出発している。(27日夜に横浜で下記『皇軍と少女』の試写会)[7]
玉川研究所ではまず最初に、映画『皇軍と少女』制作に着手した。17.5mmフィルムを使用したトーキー(有声映画)で、全10巻。[2]
同年7月27日、横浜で王仁三郎臨席のもと、『皇軍と少女』の試写会が開かれた。 [3]
しかし試写だけで公開はされなかった。理由は技術的に未熟で公開できるようなものではなかったからである。第二次大本事件の裁判で、裁判長の質問に対して王仁三郎は〈迚も下手な映画〉だったと答えている。また〈玉川へ行きますと、面白うなかつたから、私が止めてしまへと止めさしてしまつたのです〉と答えており、王仁三郎の指示で映画部は廃止となった[8]。玉川研究所は8月中に閉鎖された[9]。
この映画は8月10日(旧7月12日)の聖師生誕祭までに公開するという予定で急ピッチで作られた。そのため7月27日に試写することが出来た。しかし演出その他の点においてスタッフが未経験であるばかりか、中心となる原真平の撮影技術も未熟だったようで、欠陥だらけの作品となってしまった。また玉川研究所の幹部役員の間で原真平の技術や指導力に対する不満が噴出し、資金調達も順調に行かないなど、複数の理由によって玉川研究所の事業継続が困難となった。そのため昭和神聖会首脳部は玉川研究所の解散を決め、8月上旬に関係者を引責辞任させ、8月下旬には原真平との関係も一切絶って、玉川研究所は名実ともに閉鎖となった。[10]
9月5日には玉川研究所に奉斎されてあった神霊が総本部へ遷座された。[7]
同じく9月5日、天恩郷に昭和神聖会の映画神劇部(映画部と神劇部)が設置される[9] [3]。10月8日から、自伝映画「聖師伝」のうち「霊山修業」の撮影が映画神劇部によって始められた。[9] [7]
関連項目
- 原真平:藤浪無鳴という芸名で無声映画の弁士として活躍。外国映画の輸入・配給を行う「大日本映画協会」を設立。
- 『戦前における右翼団体の状況 下巻 その一』昭和40年(1965年)11月、公安調査庁:本書は当局側の資料だが玉川研究所の内部事情に関して大本側の資料よりも詳しい情報が記されている。101~106頁「二、映画部の創設」、NDLDL蔵書 PID:3032347/1/61
- 昭和の七福神:出口王仁三郎主演・監督の映画。8月22日から25日にかけて亀岡で撮影された。
- 聖師伝:王仁三郎の自伝映画。
外部リンク
- キネマ週報 (247) 35頁「老フアン日記」:7月11日に映画部の原真平部長がキネマ週報社を訪問したことが記されている。
脚注
- ↑ 明治22年(1889年)に東京府荏原郡玉川村が発足。昭和7年(1932年)10月1日に荏原郡全域が東京市に編入され、世田谷区が設置。旧玉川村の地域の町名には頭に「玉川」が付けられた。玉川村_(東京府) - ウィキペディア
- ↑ 2.0 2.1 2.2 『大本七十年史 下巻』「創立一周年#」
- ↑ 3.0 3.1 3.2 「大本年表」
- ↑ 『戦前における右翼団体の状況 下巻 その一』101~102頁
- ↑ 『人類愛善新聞』昭和10年(1935年)6月中旬号、3頁
- ↑ 「総本部日記 昭和10年#」6月1日の項。
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 「総本部日記 昭和10年#」
- ↑ 「地裁公判速記録(10)#」
- ↑ 9.0 9.1 9.2 『大本七十年史 下巻』「文書宣伝#」
- ↑ 『戦前における右翼団体の状況 下巻 その一』101~106頁