皇軍と少女

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』

皇軍と少女(こうぐんとしょうじょ)は、昭和神聖会映画部玉川研究所が製作した映画。公開されずに終わった。

概要

昭和10年(1935年)6月1日に開所した玉川研究所(東京市世田谷区)の第一回製作作品。別名「愛の慰問袋」[1]。17.5ミリのトーキー(有声映画)で、全10巻[2]

東京だけでなく、静岡、名古屋、京都などへも出張して撮影された[3]

出演する俳優の全てが昭和神聖会員で、演技の素人である[4]。そのことがこの作品の一つのセールスポイントだったようである。

一般向けと児童向けの2種類を製作する予定だった[3]

8月10日(旧7月12日)の聖師生誕祭までに公開する予定で急いで作られた[5]

7月27日に横浜で、昭和神聖会の統管・出口王仁三郎も出席して試写会が開かれた。しかし演出その他の点においてスタッフが未経験であるばかりか、中心となる映画部部長・原真平の撮影技術も未熟だったようで、失敗作となってしまった[5]。王仁三郎も、第二次大本事件の裁判の中で〈迚も下手な映画〉だったと評している[6]。そのためこの映画は公開されずに終わり、玉川研究所自体が8月中に閉所となってしまった。

あらすじ

村の聖者・上山先生の思想的訓育を受けた北満派遣兵士・松本忠夫と、貧しき純情少女・村杉きみ子を中心に織りなされる銃後の物語。慰問袋に結ぶ温情、父の出奔、母娘の涙ぐましい情愛、ほとばしる祖国愛、皇道を叫ぶ野の聖者。背負い切れぬ貧窮と刻苦の重荷をも黙して忍ぶ人々の胸に、やがて皇国の平和が約束される──。[3] [4]

脚注

  1. 人類愛善新聞』昭和10年(1935年)6月中旬号、3頁
  2. 1巻あたり10~15分。
  3. 以下の位置に戻る: 3.0 3.1 3.2 人類愛善新聞』昭和10年(1935年)6月下旬号、3頁
  4. 以下の位置に戻る: 4.0 4.1 人類愛善新聞』昭和10年(1935年)7月下旬号、3頁
  5. 以下の位置に戻る: 5.0 5.1 戦前における右翼団体の状況 下巻 その一』101~102頁
  6. 地裁公判速記録(10)#