「回顧録」の版間の差分
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[[ファイル:神霊界大正10年2月1日号p59回顧録.jpg|thumb| | [[ファイル:神霊界大正10年2月1日号p59回顧録.jpg|thumb|『神霊界』大正10年2月号の「回顧録」]] | ||
'''回顧録'''(かいころく)とは、[[出口王仁三郎]]が[[第一次大本事件]]の前に執筆した青年時代の自叙伝で、機関誌『[[神霊界]]』に大正10年(1921年)1月から3月まで3号に亘って連載された。 | '''回顧録'''(かいころく)とは、[[出口王仁三郎]]が[[第一次大本事件]]の前に執筆した青年時代の自叙伝で、機関誌『[[神霊界]]』に大正10年(1921年)1月から3月まで3号に亘って連載された。 | ||
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発端~第12章を霊界物語に収録するにあたり、王仁三郎は当時の大本幹部の激しい攻撃に遭って、『神霊界』掲載の文章から大幅な改変を余儀なくされた。 | 発端~第12章を霊界物語に収録するにあたり、王仁三郎は当時の大本幹部の激しい攻撃に遭って、『神霊界』掲載の文章から大幅な改変を余儀なくされた。 | ||
霊界物語筆録者の一人である[[桜井八洲雄]](桜井重雄)は、機関誌『[[神の国]]』大正14年(1925年)5月20日号に「霊界物語発刊当時を顧みて」と題して次のように書いている<ref>この桜井八洲雄の文章は[[愛善苑 (1986)|]]の機関誌『[[神の国 (1990)]] | 霊界物語筆録者の一人である[[桜井八洲雄]](桜井重雄)は、機関誌『[[神の国]]』大正14年(1925年)5月20日号に「霊界物語発刊当時を顧みて」と題して次のように書いている<ref>この桜井八洲雄の文章は[[愛善苑 (1986)|愛善苑]]の機関誌『[[神の国 (1990)|神の国]]』平成2年(1990年)10月号6頁に転載されているものから引用した。</ref>。 | ||
{{inyou|『霊界物語』の第一篇<ref>当初は「巻」ではなく「篇」と呼ばれていた。</ref>がいよいよ発刊されるといふことになって、発端の校正も済んで既に紙型にもとった後の事です。私は用があって瑞月先生のところへ伺ひますと、[[浅野和三郎]]、[[浅野正恭]]、[[今井梅軒]]、[[谷口雅春]]の諸氏が先生を取り巻いて何か話して居られるところでした。先生は『私はどうでもいいのや、皆のよいやうにして呉れたらいいのや』と言われて非常に当惑されてゐられたやうにお見うけしました。そして私が這入って行きますと『これはもうやめて呉れんか』と言われて渡されたのが、即ち『霊界物語』の第一篇の発端として既に紙型までとって印刷にかかってゐる校正刷なのです。すると浅野和三郎氏は、それを手にとって鉛筆で文章を直したり、弧線を引いて?をつけたりしました。}} | {{inyou|『霊界物語』の第一篇<ref>当初は「巻」ではなく「篇」と呼ばれていた。</ref>がいよいよ発刊されるといふことになって、発端の校正も済んで既に紙型にもとった後の事です。私は用があって瑞月先生のところへ伺ひますと、[[浅野和三郎]]、[[浅野正恭]]、[[今井梅軒]]、[[谷口雅春]]の諸氏が先生を取り巻いて何か話して居られるところでした。先生は『私はどうでもいいのや、皆のよいやうにして呉れたらいいのや』と言われて非常に当惑されてゐられたやうにお見うけしました。そして私が這入って行きますと『これはもうやめて呉れんか』と言われて渡されたのが、即ち『霊界物語』の第一篇の発端として既に紙型までとって印刷にかかってゐる校正刷なのです。すると浅野和三郎氏は、それを手にとって鉛筆で文章を直したり、弧線を引いて?をつけたりしました。}} |