「5月5日」の版間の差分
Jump to navigation
Jump to search
(ページの作成:「'''5月5日'''は、端午の節句・菖蒲の節句である。男の子の節句ということと、「五」という数字から、変性男子の厳の御魂…」) |
(相違点なし)
|
2022年6月12日 (日) 18:52時点における版
5月5日は、端午の節句・菖蒲の節句である。男の子の節句ということと、「五」という数字から、変性男子の厳の御魂(出口直)に因縁のある日である。
- 大本神諭に「明治五十五年の三月三日、五月五日は誠に結構な日である」という予言めいた文言がある。 →「3月3日#明治五十五年三月三日五月五日」
- 霊界物語で松竹梅の三姉妹が聖地エルサレムの館を旅立った日が3月3日、ウヅの都の正鹿山津見(松竹梅の父・桃上彦)の館に到着したのが5月5日である。[1] [2]
- 霊界物語第18巻の第5篇の篇題は「五月五日祝(ごがついつかのいわい)」である。丹州・青彦一行によって玉照姫が悦子姫の館に戻って来た日が壬戌の閏5月5日である。[3]
- 霊界物語第22巻第19章「山と海」#で玉能姫が神島に如意宝珠の玉を埋めたのは5月5日である。この日は神島の神様が高砂の森へ渡る日で船頭はみな休みで船は出さない[4]。
- 5月5日はタラハン国の創立記念日である。[5]
- 須賀の宮の落成式が挙行されたのは5月5日である。[6]
- 大正5年(1916年)6月5日(旧5月5日)神島を調査するため村野と谷前の2名が高砂に出張した。6月25日(旧5月25日)に神島開きが行われた。
- 大正12年(1923年)6月18日(旧5月5日)三代・出口直日と大二との結婚式が教祖殿で行われた。
- 昭和5年(1930年)5月5日、神示によって大本の本部を始め全国一斉に神殿や祠の扉が開かれた。昭和10年(1935年)10月10日に再び神示があり、透明殿や光照殿の門が一斉に開かれた。[7] [8]
- 王仁三郎によると、神功皇后が三韓征伐をしたのは5月5日である[9]。(ただし日本書紀では三韓征伐の時期は仲哀天皇9年の9月~12月である)
- 出口和明によると、昭和55年(1980年)5月5日に出口京太郎が「王仁三郎」を襲名するという噂が流れ、それを阻止するために「いづとみづの会」が結成され、第三次大本事件の直接的なきっかけとなった。[10]
関連項目
外部リンク
脚注
- ↑ 第9巻第9章「鴛鴦の衾」#:「三月三日にヱルサレム 館を抜けて三人連れ(略)珍の都の主宰神 桃上彦の掌る 珍の館に着きにけり 五月の空の木下闇 五日は晴れむ常磐木の 五月五日の今日の宵」、珍山彦のセリフ「ヤア、これはこれは、目出度い事が重なれば重なるものだ。今日は五月五日、菖蒲の節句だ」
- ↑ 第9巻第27章「月光照梅」#:梅ケ香姫のセリフ「想ひ廻せば、時は弥生の三月三日、花の都と聞えたる聖地ヱルサレムを主従四人立出でて」
- ↑ 第18巻第17章「玉照姫」#:「壬戌の閏五月 五日の宵の此仕組」。口述日は大正11年(1922年、壬戌)4月28日(旧4月2日)。
- ↑ 第23巻第12章「家島探」#:東助のセリフ「况して五月五日と言へば神島の神様が高砂の森へお渡り遊ばす日だから、船頭は総休みです。此辺一帯は昔から五日の日に限つて船は出しませぬ」
- ↑ 第68巻第9章「衡平運動」#:「タラハン国の創立記念日なる五月五日を期して、城下の場所に一斉に放火を始め」
- ↑ 第72巻第10章「清の歌」#:「待ちに待たる五月五日、いよいよスガの宮の落成式を挙行することとなり」
- ↑ 大鏡37「人間界の神業が五年遅れてゐる」;「昭和五年の五月五日に神示に依つて本部を初め全国一斉に神殿及び祠宇のお扉が開かれたが、本年即ち昭和十年十月十日に再び神示があつて透明殿や光照殿の門が一斉に開放された。これは神秘的行事に対して即ち人間界の神業が五年遅れて居る事を神界からお示しになつたものである。(大国以都雄)」
- ↑ 『新月の光』0151「昭和五年五月五日に、神示によって本部をはじめ全国一斉に神殿および祠宇のお扉が開かれたが、本年即ち昭和十年十月十日に再び神示があって、透明殿や光照殿の門が一斉に開放された。これは神秘的行事に対して即ち人間界の神業が五年遅れていることを神界からお示しになったものである。」
- ↑ 『昭和青年』昭和7年(1932年)5月号「座談会 赤ちゃんのために#」:「五月五日には神宮皇后が朝鮮征伐をしなさった時で」
- ↑ 『第三次大本事件の真相』p213「昭和五五年五月五日は五の吉数が四つ並ぶ二度とない男の節句、時いたりいよいよ京太郎が王仁三郎を襲名、みろくとなって大本を支配するという噂もひそかに流れていた。(略)どんな苦難に合おうとも真信仰に生きぬくことを確かめあい、生ぬるい教学的手法を捨てて教団改革をめざす『いづとみづ』誌発行をついに決意した。これが第三次大本事件の導火線となってゆく」