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天声社
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'''天声社'''(てんせいしゃ)は、大本の出版部門。大正11年(1922年)に設立され、最初は綾部に本社があったが、後に亀岡に移った。現在の天声社は株式会社で、『[[大本神諭]]』『[[霊界物語]]』等の書籍・雑誌の出版や、神祭具・装束などを販売している。
* 霊界物語の初出:{{rm|21|3|月休殿}}
* 霊界物語[[第63巻]]の一部(第16~22章)は綾部の天声社で口述されている。
== 概要 ==
[[王仁三郎]]が宣教手段として印刷物を活用することに注目したのは、[[皇典講究所]]に在学中(明治39年=1906年9月~明治40年3月)、文芸クラブ「秋津会」の幹事に推され、月刊雑誌『このみち』の主筆として文筆をふるったときだと思われる。この頃はマスメディアは印刷物しかなかった(ラジオ放送開始は大正14年=1925年)。<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1721|皇典講究分所入学}}」</ref>
明治42年(1909年)機関誌『[[直霊軍]]』が創刊されるが、印刷所は外部の業者(福知山の小宮活版所、綾部の塩見活版印刷所<ref>[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_03.html 3,飛躍を期して] - 天声社社史</ref>)だった。『直霊軍』は翌明治43年12月に第15号を出して廃刊<ref>[[出口和明]]『[[大地の母]] 下巻』170頁</ref>となる。
明治41年(1908年)1月、王仁三郎が[[御嶽教]]大本庁に勤めていた頃、[[吉田竜治郎]]に、印刷機の活字を用意するため7~800円融資を受けたいと信書を出したが、実現しなかった。<ref name="B195401c2122">『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2122|「敷島新報」と直霊軍部隊}}」</ref>
その5年後の大正2年(1913年)4月に、綾部の[[本宮町]]に印刷所が設けられた。<ref name="B195401c2122" />
大正3年(1914年)には新たな機関誌『[[敷島新報]]』が創刊される。大正6年1月から『[[神霊界]]』と改題され、その後も新たな機関紙誌が創刊されて行った。今までの印刷体制では追いつかず、大正7年(1918年)8月1日、神苑内に印刷工場が完成する。<ref>[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_05.html 5,「神霊界」の創刊] - 天声社社史</ref>
大正10年(1921年)の[[第一次大本事件|大本事件]]を経て、大正11年4月17日、印刷工場の新館の完成を機に、[[大本瑞祥会]]([[大日本修斎会]]が同年2月に改称)の出版局が出版局天声社と改称する。そして5月12日、大本瑞祥会から分離独立して天声社となり、初代社長に[[吉田大二]]が就任した。<ref name="syasi_07">[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_07.html 7,嵐の中を(径綸のままに)] - 天声社社史</ref>
大正10年12月30日に霊界物語第1巻が発行され、以後7年4ヶ月で72巻を刊行した。<ref name="syasi_07" /> <ref>霊界物語第1巻初版(大正10年12月30日発行)の印刷所は「大日本修斎会印刷部」、発行所は「大日本修斎会出版部」になっている。第6巻初版(大正11年5月10日発行)の印刷兼発行所は「大本出版部」、第7巻初版(大正11年5月31日発行)の印刷兼発行所は「天声社」である。</ref>
大正14年(1925年)1月、天声社は瑞祥会に統合されるが、翌大正15年2月3日、再び天声社は瑞祥会から独立する。<ref name="syasi_08">[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_08.html 8,亀岡支社の設立] - 天声社社史</ref>
大正14年2月、亀岡城趾は[[天恩郷]]と命名され、神教宣布の根本聖地と定められた。5月、海外宣伝課が亀岡に移されることになり、それとあわせて亀岡に天声社の支社が設けられることになった。<ref name="syasi_08" /> <ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c4442|機構の改革と人事}}」</ref>
機関誌『[[真如能光]]』昭和2年(1927年)新年号によると、その頃の天声社の社員は50余名いる。<ref name="syasi_08" />
昭和3年(1928年)8月、聖師誕生祭を機に機構改革がされ、綾部の本社が「[[第一天声社]]」、亀岡支社が「[[第二天声社]]」となる。<ref name="syasi_09">[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_09.html 9,東奔西走] - 天声社社史</ref>
昭和4年(1929年)8月、本部機構改革で、第一、第二天声社は瑞祥会の所管となる。<ref name="syasi_09" />
印刷部門の主力を亀岡に移すことになり、昭和6年(1931年)5月、第二天声社の印刷能力が5倍に増強するため新工場の建設が決定される。<ref name="syasi_09" />
『真如の光』昭和6年9月5日号で発表された機関紙誌の発行部数は、『[[神の国]]』9,241部、『[[真如の光]]』3,520部、『[[瑞祥新聞]]』13,040部である。<ref name="syasi_10">[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_10.html 10,山陰一の印刷工場] - 天声社社史</ref>
昭和7年(1932年)2月20日、新工場の完成式が行われた。二階建てスレート葺き7棟で、その規模は山陰一を誇るスケールだった。2月27日に第一天声社は「[[神光社]]」と改称され、工場一階は機織工場となる。天声社の綾部での役割は終わり、完全に亀岡に移る。社員は約160名を有した。<ref name="syasi_10" />
昭和9年(1934年)3月、人類愛善新聞は念願の100万部発行を達成。この頃『神の国』は1万5千部となった。<ref name="syasi_10" />
昭和10年、[[第二次大本事件]]が勃発し、当局の命令で、天声社の工場は解体され、用紙や印刷機は業者に売却された。約8万4千冊の書籍・機関誌は神苑内に積み上げられ焼却された。<ref>[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_11.html 11,第二次大本事件] - 天声社社史</ref>
第二次大戦後の昭和21年(1946年)年2月、大本は[[愛善苑]]という名称で新発足し、4月から機関誌『[[愛善苑 (機関誌)|愛善苑]]』を発行した。創刊号は1万部だった。<ref name="syasi_12">[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_12.html 12,再生] - 天声社社史</ref>
前年の昭和20年11月に、早くも機関誌発行の準備が始まり、[[中矢田農園]]の[[出口操]]宅([[有悲閣]])に編集部が置かれた。翌21年、印刷は京都の[[中外日報社]]で行うことになったが、同社の人員が不足しており、愛善苑から人員が派遣された。4月4日から中外日報社の印刷工場は愛善苑中外印刷所として操業され、物資難の中、印刷が進められた。<ref name="syasi_12" />
昭和23年(1948年)1月1日、書籍・機関誌の編集・出版を行う「瑞光社」が設立される。<ref>[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_13.html 13,槌音高く] - 天声社社史</ref>
昭和27年(1952年)4月1日、出口直日が三代教主に就任し、教団名は「[[大本愛善苑]]」から「大本」へ、「[[瑞光社]]」は「株式会社天声社」へ変更される。天恩郷には製本所だけあり、印刷は中外印刷所で行っていたが、昭和28年10月、天恩郷に印刷所が完成した。<ref>[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_14.html 14,株式会社天声社の設立] - 天声社社史</ref>
== 脚注 ==
<references/>
== 外部リンク ==
* [http://www.tenseisha.co.jp/ 天声社](公式サイト)
* [http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasitop.html 天声社社史]
* <wp>天声社</wp>
{{デフォルトソート:てんせいしや}}
[[Category:企業]]
[[Category:霊界物語の団体]]
* 霊界物語の初出:{{rm|21|3|月休殿}}
* 霊界物語[[第63巻]]の一部(第16~22章)は綾部の天声社で口述されている。
== 概要 ==
[[王仁三郎]]が宣教手段として印刷物を活用することに注目したのは、[[皇典講究所]]に在学中(明治39年=1906年9月~明治40年3月)、文芸クラブ「秋津会」の幹事に推され、月刊雑誌『このみち』の主筆として文筆をふるったときだと思われる。この頃はマスメディアは印刷物しかなかった(ラジオ放送開始は大正14年=1925年)。<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1721|皇典講究分所入学}}」</ref>
明治42年(1909年)機関誌『[[直霊軍]]』が創刊されるが、印刷所は外部の業者(福知山の小宮活版所、綾部の塩見活版印刷所<ref>[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_03.html 3,飛躍を期して] - 天声社社史</ref>)だった。『直霊軍』は翌明治43年12月に第15号を出して廃刊<ref>[[出口和明]]『[[大地の母]] 下巻』170頁</ref>となる。
明治41年(1908年)1月、王仁三郎が[[御嶽教]]大本庁に勤めていた頃、[[吉田竜治郎]]に、印刷機の活字を用意するため7~800円融資を受けたいと信書を出したが、実現しなかった。<ref name="B195401c2122">『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2122|「敷島新報」と直霊軍部隊}}」</ref>
その5年後の大正2年(1913年)4月に、綾部の[[本宮町]]に印刷所が設けられた。<ref name="B195401c2122" />
大正3年(1914年)には新たな機関誌『[[敷島新報]]』が創刊される。大正6年1月から『[[神霊界]]』と改題され、その後も新たな機関紙誌が創刊されて行った。今までの印刷体制では追いつかず、大正7年(1918年)8月1日、神苑内に印刷工場が完成する。<ref>[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_05.html 5,「神霊界」の創刊] - 天声社社史</ref>
大正10年(1921年)の[[第一次大本事件|大本事件]]を経て、大正11年4月17日、印刷工場の新館の完成を機に、[[大本瑞祥会]]([[大日本修斎会]]が同年2月に改称)の出版局が出版局天声社と改称する。そして5月12日、大本瑞祥会から分離独立して天声社となり、初代社長に[[吉田大二]]が就任した。<ref name="syasi_07">[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_07.html 7,嵐の中を(径綸のままに)] - 天声社社史</ref>
大正10年12月30日に霊界物語第1巻が発行され、以後7年4ヶ月で72巻を刊行した。<ref name="syasi_07" /> <ref>霊界物語第1巻初版(大正10年12月30日発行)の印刷所は「大日本修斎会印刷部」、発行所は「大日本修斎会出版部」になっている。第6巻初版(大正11年5月10日発行)の印刷兼発行所は「大本出版部」、第7巻初版(大正11年5月31日発行)の印刷兼発行所は「天声社」である。</ref>
大正14年(1925年)1月、天声社は瑞祥会に統合されるが、翌大正15年2月3日、再び天声社は瑞祥会から独立する。<ref name="syasi_08">[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_08.html 8,亀岡支社の設立] - 天声社社史</ref>
大正14年2月、亀岡城趾は[[天恩郷]]と命名され、神教宣布の根本聖地と定められた。5月、海外宣伝課が亀岡に移されることになり、それとあわせて亀岡に天声社の支社が設けられることになった。<ref name="syasi_08" /> <ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c4442|機構の改革と人事}}」</ref>
機関誌『[[真如能光]]』昭和2年(1927年)新年号によると、その頃の天声社の社員は50余名いる。<ref name="syasi_08" />
昭和3年(1928年)8月、聖師誕生祭を機に機構改革がされ、綾部の本社が「[[第一天声社]]」、亀岡支社が「[[第二天声社]]」となる。<ref name="syasi_09">[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_09.html 9,東奔西走] - 天声社社史</ref>
昭和4年(1929年)8月、本部機構改革で、第一、第二天声社は瑞祥会の所管となる。<ref name="syasi_09" />
印刷部門の主力を亀岡に移すことになり、昭和6年(1931年)5月、第二天声社の印刷能力が5倍に増強するため新工場の建設が決定される。<ref name="syasi_09" />
『真如の光』昭和6年9月5日号で発表された機関紙誌の発行部数は、『[[神の国]]』9,241部、『[[真如の光]]』3,520部、『[[瑞祥新聞]]』13,040部である。<ref name="syasi_10">[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_10.html 10,山陰一の印刷工場] - 天声社社史</ref>
昭和7年(1932年)2月20日、新工場の完成式が行われた。二階建てスレート葺き7棟で、その規模は山陰一を誇るスケールだった。2月27日に第一天声社は「[[神光社]]」と改称され、工場一階は機織工場となる。天声社の綾部での役割は終わり、完全に亀岡に移る。社員は約160名を有した。<ref name="syasi_10" />
昭和9年(1934年)3月、人類愛善新聞は念願の100万部発行を達成。この頃『神の国』は1万5千部となった。<ref name="syasi_10" />
昭和10年、[[第二次大本事件]]が勃発し、当局の命令で、天声社の工場は解体され、用紙や印刷機は業者に売却された。約8万4千冊の書籍・機関誌は神苑内に積み上げられ焼却された。<ref>[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_11.html 11,第二次大本事件] - 天声社社史</ref>
第二次大戦後の昭和21年(1946年)年2月、大本は[[愛善苑]]という名称で新発足し、4月から機関誌『[[愛善苑 (機関誌)|愛善苑]]』を発行した。創刊号は1万部だった。<ref name="syasi_12">[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_12.html 12,再生] - 天声社社史</ref>
前年の昭和20年11月に、早くも機関誌発行の準備が始まり、[[中矢田農園]]の[[出口操]]宅([[有悲閣]])に編集部が置かれた。翌21年、印刷は京都の[[中外日報社]]で行うことになったが、同社の人員が不足しており、愛善苑から人員が派遣された。4月4日から中外日報社の印刷工場は愛善苑中外印刷所として操業され、物資難の中、印刷が進められた。<ref name="syasi_12" />
昭和23年(1948年)1月1日、書籍・機関誌の編集・出版を行う「瑞光社」が設立される。<ref>[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_13.html 13,槌音高く] - 天声社社史</ref>
昭和27年(1952年)4月1日、出口直日が三代教主に就任し、教団名は「[[大本愛善苑]]」から「大本」へ、「[[瑞光社]]」は「株式会社天声社」へ変更される。天恩郷には製本所だけあり、印刷は中外印刷所で行っていたが、昭和28年10月、天恩郷に印刷所が完成した。<ref>[http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasi_14.html 14,株式会社天声社の設立] - 天声社社史</ref>
== 脚注 ==
<references/>
== 外部リンク ==
* [http://www.tenseisha.co.jp/ 天声社](公式サイト)
* [http://www.tenseisha.co.jp/syasi/syasitop.html 天声社社史]
* <wp>天声社</wp>
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[[Category:霊界物語の団体]]