本宮
(本宮町から転送)
本宮(ほんぐう)は、綾部の地名。大本の発祥地であり、梅松苑がある地域。坪内(つぼのうち)と新宮(しんぐう)は本宮に含まれる。出口直が住んでいた家(現在の元屋敷)は本宮の坪内にあった。
概要
- 明治9年(1876年)に、坪内村と新宮村が合併して本宮村が誕生した。[1]
- 本宮と呼ばれる集落が誕生したのは、おそらくこれが最初である。語源は本宮山だが、その山がいつから本宮山と呼ばれるようになったのかは不明。江戸時代の文献にはすでに本宮山の名が見える。
- 治承年間(1177-1179年)に平重盛[2]が所領のある綾部に訪れ、並松の景色が熊野によく似ているということで熊野権現を勧請したという伝承がある。「本宮」や「新宮」の地名はそれに由来すると考えられている。本宮山の南麓には那智山正暦寺が、北麓には熊野新宮神社がある。[3] [4]
- 天保11年(1840年)に農政学者・佐藤信淵(さとう のぶひろ)が著した「巡察記」によると、綾部組(綾部郷)には次の12の村があり、そこに坪内村と新宮村も含まれている。[5]
- 綾部村、坪内村、田野村、寺村、野田村、新宮村、神宮寺村、井倉村、井倉新町、青野村、中村、味方村。
- 坪内村と新宮村のエリアは図を参照。
- 明治14年(1881年)、本宮村の町分(繁華街)が分離して本宮町となる。[6]
- 明治22年(1889年)4月、町村制施行により次の13町村が合併して綾部町が誕生する[7]。 →詳細は「綾部」を見よ
- 現在の本宮(綾部市本宮町)は、そのほぼ全域が大本の梅松苑である。
坪内
- 江戸時代の坪内村の位置は地図を参照。
- 出口和明『いり豆の花』p237「本宮坪ノ内略図」に明治25年から大正初年頃までの坪内地区の住居図が記してある。それによると、その当時に坪内と呼ばれていた地域は現在の本宮町の北端部と、大本通りまでの一角(本町一丁目の南東角)及び本宮町東四ツ辻、本宮町本宮下の辺りである。図を参照。
- この略図に記されている坪内は住所表記ではなく、通称だと思われる。住所としてはその辺りは、綾部町字本宮小字本宮下だった。
- 『大本七十年史 上巻』p56に、「1897(明治30)年ころの本宮村の位置」の写真が載っている。
- 現在は坪内という地名は住所表記には存在しない。[8]
新宮
- 江戸時代の新宮村の位置は地図を参照。
- 熊野新宮神社の北側(下市場)に、寛永十年(1633年)九鬼隆季(綾部初代藩主)が城を築いたが17年後の慶安3年(1650年)に火事で全焼したため、翌4年に上野の台地に新たに城を築いた。[9]
- 現在の綾部市新宮町は、江戸時代の新宮村とは異なる。現在の新宮町は、江戸時代は坪内村の町分の一部で、横町と呼ばれていた地域である。
参考文献
「綾部#参考文献」と同じ。
神諭
「本宮」「新宮」「坪内」という地名は、大本神諭や伊都能売神諭に度々登場する。新宮に「神宮」という文字が宛てられている場合もある。
出口直の居所(元屋敷や竜宮館)を特定するために使われている。
【用例】
- 「何鹿郡綾部本宮坪の内の出口直の屋敷は、神に因縁のある屋敷であるから、此屋敷に大地の金神様の御宮を建るぞよ」〔大本神諭 明治27年旧1月3日#〕
- 「善い鑑も悪るい鑑も今度地の世界の新宮本宮の竜宮館の高天原で」〔大本神諭 明治41年旧8月14日#〕
- 「艮の金神国常立之尊が世界の中心田庭の国の神屋敷、神宮本宮坪の内、竜宮やかたの地の高天原に現はれて」[[伊都能売神諭 大正8年2月18日#]]
関連項目
外部リンク
- <wp>何鹿郡</wp>
- <wp>綾部町</wp>
- <wp>綾部市</wp>
脚注
- ↑ 『綾部市史 下巻』p26
- ↑ 平重盛(たいらの しげもり、1138-1179年)は平安末期の武将。平清盛の長男。安元3年(1177年)3月に内大臣・左近衛大将となる。平重盛 - コトバンク|平重盛 - ウィキペディア
- ↑ 『綾部市史 上巻』p125、『綾部町史』p17
- ↑ 熊野新宮神社はもともとは本宮山の東麓にあったが、綾部初代藩主の九鬼隆季(1608-1678年)が現在地に遷したと伝えられている。
- ↑ 『綾部市史 史料編』p603
- ↑ 『綾部市史 下巻』p26。ただし異説もある。「綾部」の該当事項の脚注を見よ。
- ↑ 『綾部市史 下巻』p39
- ↑ 綾部市上八田町坪ノ内という住所があるが全く別の場所。
- ↑ 『綾部市史 上巻』p299-300