梅花運動

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
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梅花運動(ばいかうんどう)とは、大本の教勢拡大運動のこと。「梅花」(ばいか)は「倍加」に通じ、教勢を倍増させるという意味がある[1]。昭和6年(1931年)と昭和27年(1952年)の二回行われている。

昭和6年

昭和6年(1931年)2月4日、節分祭の挨拶で出口宇知麿は梅花運動を行うことを発表した。

当年は聖師更生の意義ふかき年であって更生とは還暦のことである。さらに明年は大本開教四十周年をむかえることとなるので、「三千世界一度に開く梅の花」の大活動をしなければならぬ。一日もはやくわれらの魂のなかに、地上の世界に、梅花ふくいくたるうるわしき神の国のくるように神業のために誠をつくす、これが梅の花の活動である。「梅花」は「倍加」に通ずる。この節分を機とし「梅花運動」をおこしたい。この倍加は数倍加を意味すると強調した。

(略)

 梅花運動によって、どれほどの入信者がえられたかは、数字のうえではあきらかでないが、天恩郷大道場における修業者は、一九二八(昭和三)年には一七九〇人、一九二九(昭和四)年には二二〇七人、一九三〇(昭和五)年には三〇三〇人というように上昇を示し、一九三一(昭和六)年になってからは、月ごとの修業者は前年度を多数うわまわって、とくに七月四日から九月六日までおこなった夏季講座の受講者(修業者)の場合などは、総数一二四四人にもたっしていた。
出典:『大本七十年史 下巻』「梅花運動#

裁判記録によると、この梅花運動は信者の五倍に増やす五倍加運動だったようである。[2]

昭和26年

開教60年(昭和27年)を来年に控え、教団(当時は大本愛善苑)は信徒梅花運動を主軸とした諸種の運動を展開した。[3]

二代苑主・出口澄子が提唱したもので、教団(大本愛善苑)、「愛善みずほ会」(食糧増産・農村振興運動)、「人類愛善会」、「大本楽天社」(芸術運動)、「エスペラント普及会」、大本の社会福祉事業等が、あたかも梅の花の五弁の花のように一体となって、積極的に活動をして行こうというものである。[4]

昭和27年3月31日、澄子が昇天すると、後を三代教主・出口直日が引き継ぎ、梅花運動が進められた。[5]

信徒の倍加は、二代教主の百日祭までに66,600人の目標を達成したが、あらためて翌28年3月までに10万人という目標が示された[6]。昭和32年(1957年)5月に、10万人の目標を達成した[7]

脚注

  1. 大本七十年史 下巻』「梅花運動#
  2. 大本史料集成 3』「地裁公判速記録(9)#」:裁判長の発言「昭和六年の二月より大本信者、大本分所支部及び大本の機関紙、神の国、明光、人類愛善新聞の各梅花運動、即ち五倍加運動を為さしめた」、「地裁公判速記録(10)#」:裁判長の発言「協議の末、開教四十周年記念事業として信者を五倍に、分所支部を三千に増加せしむる為、梅花運動を起し、其の第一期として一箇年間に支部の数を千五百個所とすること、其の事は、同年二月の節分祭に各信者に指令して之が実現を図ることと決定し、実行に移しました。其の結果、分所支部は千九百八十七個所となり、信者は当時の倍足らずになりました」
  3. 大本七十年史 下巻』「梅花運動#
  4. 聖師伝』「三七、御昇天後の大本#
  5. 大本七十年史 下巻』「楽天社の発足宣言とその活動#
  6. 大本七十年史 下巻』「みろく殿の完成#
  7. 大本七十年史 下巻』「信徒一〇万#