東京毎夕新聞社

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』

東京毎夕新聞社(とうきょうまいゆうしんぶんしゃ)は、東京の新聞社。一時期、出口王仁三郎が名誉社長を務め、大本傘下となった。

東京毎夕新聞の題字

概要

  • 創刊:明治31年(1898年)
  • 廃刊:昭和16年(1941年)
  • 所在地:
    • 東京市日本橋区蛎殻町1の3(大正10年頃)[1]
    • 東京市日本橋区人形町1の14(昭和10年頃)[2]
  • 発行部数:内務省の『出版警察概況』によると昭和10年に、『大阪朝日新聞』63万5千部、『読売新聞』52万9千部、『東京毎夕新聞』36万部。[3]

略史

 
東京毎夕新聞社の社屋(昭和10年頃)
  • 明治31年(1898年)2月1日、『毎夕新聞』創刊。日本における夕刊新聞の先駆けとなった。
  • 経営者が何度か変遷し、明治34年(1901年)頃から木村政次郎の所有となる。以後昭和16年(1941年)の廃刊まで木村によって経営される。
    • 木村政次郎(きむら まさじろう。実業家、政治家。1865~1949年)木村政次郎 - ウィキペディア
  • 明治33年(1900年)『千代田日報』(明治32年4月3日創刊)と合併して『千代田毎夕』に改題。
  • 明治34年(1901年)1月1日、(木村が所有したことにより)『毎夕新聞』に改題。
  • 明治43年(1910年)9月26日、『東京毎夕新聞』に改題。
  • 大正4年(1915年)、床次竹二郎が社長となる。
  • 大正7年(1918年)10月、原内閣が成立し床次が内相として入閣したため退社。木村が社長となる。
  • 昭和8年(1933年)8月29日、出口王仁三郎が名誉社長に就任。出口宇知麿が最高顧問に、御田村竜吉が理事として経営に参画し、人類愛善新聞記者が編集に携わるようになったため、事実上大本の機関新聞となった。[3]
  • 同年12月、御田村が副社長、河津雄が主幹に就任。[3]
  • 昭和9年(1934年)2月1日、東京毎夕新聞社に大神様奉斎。[4]
  • 昭和10年(1935年)5月、完全に大本の経営となる。[3]
  • 同年5月22日、人類愛善新聞社を東京毎夕新聞社と同じ建物に移転(東京市四谷区霞ヶ丘町16番地から日本橋区人形町1の14へ)。[3]
  • 第二次大本事件以降も発刊を続けたが、最後まで勤務していた信者が昭和12年(1937年)に退社したため、大本との関係はなくなった。[5]
  • 昭和16年(1941年)7月末で廃刊。[6](廃刊理由は不明)

参考文献

関連項目

脚注

  1. 現・中央区日本橋蛎殻町(かきがらちょう)
  2. 現・中央区日本橋人形町(にんぎょうちょう)
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 大本七十年史 下巻』「文書宣伝#
  4. 「大本年表」
  5. 大本七十年史 下巻』「第一審の判決#
  6. 『新聞総覧 第34巻』