本宮村

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』

本宮村(ほんぐうむら)は、京都府何鹿郡にあった村。現・綾部市本宮町。→「本宮町」も参照

概要

  • 明治9年(1876年)新宮村と坪内村が合併して本宮村となる。[1]
  • 明治14年(1881年)本宮村の一部分が分離して本宮町となる。(本宮村と本宮町が併存していた。ただし『何鹿郡誌』には明治11年に「本宮村を本宮町と改称した」と記されている[2][3] [4]
  • 明治22年(1889年)綾部町、本宮町、本宮村などが合併して綾部町が発足。
  • 昭和25年(1950年)合併して綾部市が発足。

本宮村は自治体としては明治14年から22年までの8年間だけ存在していたことになるが、綾部町発足後も住所としては「綾部町本宮村」というように本宮村は存在していた。[5]

霊界物語では「本宮村」は第12巻総説歌#に1回出るだけである。「神の教の名西負ふ 本宮村の真秀良場に」

大本神諭では「本宮村」は2回、「本宮町」は1回だけ出る。ただし「本宮」だけなら多数出る。[例]大本神諭 明治27年旧1月3日#:「何鹿郡綾部本宮坪の内の出口直の屋敷は、神に因縁のある屋敷であるから、此屋敷に大地の金神様の御宮を建るぞよ」

王仁三郎は本宮村・本宮町の土地を次々と買収して行き、現在の綾部市本宮町は町域のほとんどが大本の神苑(梅松苑)になっている(ただし長生殿は上野町)。当時は人が多数住んでいたが、出口直澄子から見たら、人間的にあまり良い村ではなかった。

 なお夫婦は二人とも他所者(よそもの)であり、しかも政五郎が人のよい放漫家だったので、周囲の人たちから意地悪くあしらわれた。「経歴の神諭」に「綾部の本宮村は人に憐みのない村であるぞよ。人が死なうが倒(こ)けようが、われさえ好けりゃ構わん人民ばかりであるから、改心を致さんと、世が治まりたら此村は悪党鬼村と名をつけて、万古末代悪の鏡と致すぞよ。」(明治27・1・3)とあるが、それが、なおからみた本宮村の実態であった。明治二〇年代の実態を伝えていると思われる、すみの『つきぬおもいで』によれば、三一軒の「私の村」(行政区画ではなく近所の家々をさすものとおもわれる)に、首つりが三人、殺人・強盗・ニセ札などで終身刑が三人、泥棒が四人、バクチ打ちが二人、それ以外に監獄に行ったものが三人、盲・半盲が七人、片輪が四人、健忘症・阿呆・ゴロ(唖)が各一人いた。そのほかにも、恋人と結婚できなくて婿をもらった暁に毒をのんで自殺した娘や、野壺の肥をとったことが知れて、それをせめられ、十両の金を枕元において自殺した女もいた。三一軒の家々のうちで二〇軒以上になんらかの不幸があり、「まともな人は二、三軒のものだった」(『おさながたり』)という。恋人と結婚できなくて自殺した義母ゆりをはじめ、不幸のたえない出口家自身が、こうした不幸や悲惨のひとつの典型であった。

 『おさながたり』には「そのころの本宮はそんなに多い家かずでもなかったのですが、宮津の監獄では綾部から来る人はみな本宮村からの人ばかりだと不思議がったということです」とのべている。むろん右にのべた事情は主として明治二〇年代の状況を示すものであって、経済的・社会的激動によってもたらされた側面を無視できないが、出口家の所在したあたりは、幕末期から既にならず者集落的性格をもち、不幸な人々が集まってくる地帯であったようである。なおの伝記関係の史料には、周囲の人々に対する尊敬や信頼を示すものはほとんどみられず、村人から非道にあつかわれた記事が多い。
出典:『大本七十年史 上巻』「労苦の連続#

また澄子は「大本に反対したことでも本宮村の人が一番でした」「しかしこういうような本宮村に私の祖先が住んでおり、教祖さまがおいでになって、あるにあられぬご苦労をされ、また私が生まれましたのは、大本のお筆先にありますように太古からの深い因縁によるものであります」と述べている。[6]

脚注

  1. 『何鹿郡誌』p219
  2. 『何鹿郡誌』p221、p531
  3. 『綾部市史 下巻』「第二節 区・戸長制 市町村制 郡制(20p-62p)」:「明治十四年には綾部村から綾部町が、本宮村から本宮町が分離した」
  4. 大本七十年史 上巻』「幕末の綾部#」:「一八七六年に坪内村と新宮村が合併して本宮村となり、のち本宮村と本宮町にわかれた」
  5. [例]『何鹿郡誌』p226、若宮神社の住所「綾部町本宮村小字藤山」
  6. 『幼ながたり』「4 石臼と粉引きの意味#

関連項目

外部リンク