愛善郷

愛善郷(あいぜんきょう)とは、昭和7年に兵庫県竹田町から大本に献納された竹田城址のこと。出口王仁三郎が命名した。竹田城址を大本の施設として整備する予定だったが、第二次大本事件によって竹田町に返還された。
略史
【昭和6年(1931年)】
12月16日、竹田町で出口聖師作品展・時局大講演会が開催される。これが竹田での大本宣教の始まりである。しかしそれ以前から、竹田に大本を誘致しようという動きが竹田出身者・在住者の間で起きていた。その背景には深刻な不況(昭和恐慌)があり、大本誘致による竹田城址の活用(経済効果)に期待が寄せられていた。[1]
【昭和7年(1932年)】
1月9日、奥村特派宣伝使が大本の使者として初めて竹田城址を視察し、町助役に大本側の意向を伝える。同14日、奥村は調査報告書を出口宇知麿・人類愛善会会長に提出。同20日、中外日報は竹田町が竹田城址を大本に寄付して町の繁栄策とすることを報道した。[2]
これ以降、大本の竹田進出が具体化して行く。5月16日、人類愛善会竹田町支部が発会。大本の拠点が始めて設けられた。[3]
8月5日、竹田町総代一行10人が天恩郷を訪れ、竹田城址の献納を申し出る。綾部にも参拝し王仁三郎と面会。「愛善郷」と命名される[4]。
8月14日、大本瑞祥会総会で出口宇知麿会長が「竹田城址1万坪が竹田町から寄付されたので受納し、愛善郷と命名され、愛善会関係の重要な建物が作られることになった」と公式に発表。[5]
8月15日、竹田城址に「愛善郷人類愛善会建設地」という標柱が天主台(天主閣があった場所)に立てられた[6]。同19日には登山口に「愛善郷登山口」という大きな標柱が立てられた。
当時の竹田城址は土地の登記がなされておらず、大字竹田(竹田城址の近辺地域)が村落の財産として管理していた。大字竹田の住民を中心とする民間ベースで大本誘致・竹田城址寄付が進められていたが、やはり竹田町議会による議決や、県当局の了解が必要だということになった。9月22日、町議会で審議の上、竹田城址の寄付が正式に決定され、同25日、町の寄付申出書が天恩郷に届けられ、竹田城址の大本献納が正式に実現した。[7]
10月18日、王仁三郎・澄子は初めて竹田を巡教する(虎臥山開き)[8]。この夜宿泊した石原本家邸は12月17日に大本が買い取り、同24日「大本竹田別院」が開設された。愛善郷建設事務所が竹田別院に置かれた。[9]
【昭和8年(1933年)】
1月、新春を期して愛善郷建設に着手。[10]
2月18日、出口宇知麿は竹田町幹部と協議し、竹田城址に大本神殿と旧城主霊殿[11]を造営することを決定。[12]
3月2日、竹田別院での月次祭の席上、愛善郷建設プランが発表される。[13]
3月30日、竹田城址で愛善郷大祭・地鎮祭を執行。王仁三郎は二度目の竹田巡教となる。この日は5日間続くみろく大祭の最終日だった。[14]
愛善郷建設の第一弾は、前年9月に新設した登山道路(10月18日の虎臥山開きに備えて造った[15])を、自動車が通れる道路へ拡幅することだった。10月2日、町と大本が協議をした結果、町営で工事をし、工費の半額を大本が補助し、完成した道路は町道とすることが決まった。[16]。
【昭和9年(1934年)】
5月27日、道路工事完了。9月15日、開通。[17]
【昭和10年(1935年)】
12月8日、第二次大本事件勃発。
12月28日、竹田の大本関連各支部は警察に解散届を提出。同時に、竹田城址山上の「愛善郷人類愛善会建設地」や山麓の「愛善郷登山口」の標柱は撤去され、竹田における大本の活動は名実ともに停止した。[18]
竹田町から寄付された竹田城址は、元の竹田町に返還された。昭和14年(1939年)4月21日、竹田町は竹田城址を所有権登記した。[19]
国常立尊の神霊

昭和7年(1932年)10月18日、王仁三郎・澄子の竹田初巡教(虎臥山開き)の歓迎式の際、竹田城址で石垣を背景にして王仁三郎・澄子を中心に記念写真を撮影した。現像してみると、駕籠に乗った王仁三郎の後ろ上方、石垣上にはっきりと何かの大きな霊が写っていた。22日、島根別院に滞在していた王仁三郎にその写真を届けて見せたところ、それは国常立尊のご神像の顕現で、王仁三郎がよく揮毫する国常立尊ご神像の服装と同じである、ということだった。これについて王仁三郎は「虎臥城址カメラにとれば神代の神写りしと町人さわげり」と歌を詠んでいる。[20]
似たような名称
関連項目
脚注
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』43頁、46頁、614頁
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』44頁、615頁
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』51頁、615頁
- ↑ 8月5日に命名されたのかどうかは分からないが、8日の京都日出新聞では〈虎臥城址に大本愛善郷〉と報道されている。〔『大本竹田別院五十年誌』76~77頁〕
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』77頁、615頁
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』77~78頁、615頁
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』87~88頁、615頁
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』5~29頁
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』105頁、616頁
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』616頁
- ↑ 旧城主とは戦国時代の武将・赤松広秀(別名・斎村政広)のこと。赤松は関ヶ原の戦いで西軍に加わったが、敗戦後に東軍の要請で、西軍の因幡鳥取城を攻撃。この時城下の民家に放火した罪で、徳川家康から切腹を命じられた。竹田城も廃城となった。(斎村政広 - ウィキペディア)
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』616頁
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』114頁
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』115頁、617頁。みろく大祭は通常は初日と二日目は綾部で、三日目は綾部と亀岡、四・五日目は亀岡で行われていた。しかしこの年は祭典の順序を変え、初日(3月26日)・二日目を亀岡で、三日目(28日=旧3月3日)・四日目は綾部で、五日目は竹田で行われた。
- ↑ それまでは山上に登る道は竹田駅裏から急な坂道(約840メートル)が1本あるだけで、それでは大勢の参拝者を受け入れることは出来なかった。そのため町で登山道路を新設することが決定された。〔『大本竹田別院五十年誌』89頁〕
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』121頁、617頁
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』618頁
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』172頁、621頁
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』623頁
- ↑ 『大本竹田別院五十年誌』24頁