神聖神社
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概要
- 昭和9年(1934年)12月29日(旧11月23日)、竣成。
- 昭和10年(1935年)2月7日(旧正月4日)、鎮座祭。
- 神聖神社は石造であり、「石の宮」とも呼ばれている。
- 神社を建立せよという神命は、すでに明治31年(1898年)王仁三郎に下っていた。その時の名称は「玉の井神社」であったが、東京に同名の神社があり、しかも芳しくないところがあったため[1]、再び神命によって「神聖神社」と命名された。[2] →「玉の井」
- 神聖神社は〈神聖会の霊界の中枢になるもの〉[2]だと王仁三郎は教えている。
- 神聖神社の御神体は大宮守子(鶴殿親子の大本名)が大正10年(1921年)に献上した玉・鏡・剣である(大宮守子も鎮座祭に列席している)。この神聖神社を中枢として昭和神聖会運動は全国に展開された。[3]
- 玉・鏡・剣という"三種の神器"を御神体としたことが、第二次大本事件の裁判で追及されている。
- 祭典の前までは晴天だったが、祭典中に突然、大吹雪に見舞われた。王仁三郎は祭典後の挨拶の中で〈四十年来、旅行、或は祭典に臨席の日など絶対に雨、風、雪といふものがなかつたのであるが、今日の大吹雪は、神聖運動に従事する者にとつて一つの暗示と警戒とである、故に会員たるものは一段の自重と覚悟とが必要である〉[2]と述べている。
- 神聖神社鎮座祭の前後は様々な祭典・行事が続いていた。鎮座祭3日前の2月4日は旧元日で、綾部で節分大祭が開かれた(この年は2月4日が節分だった)。6日には東光苑(天恩郷内)で昭和青年会・昭和坤生会の総隊訓練が大吹雪の中で行われた。7日は午前11時から神聖神社鎮座祭が行われ、午後3時からは、昭和神聖会統管部となる透明殿(天恩郷内)の完成祭が行われた。
- 神聖神社は第二次大本事件によって破却された。現在は跡地に玉石で築山が築かれ神籬の松が立てられている。
- 信州の皆神神社境内にある「富士浅間神社」は大戦後に大本の献納によって建立されたが、このお宮は穴太に神聖神社を再建する予定だった石の宮を、何らかの理由で皆神山に建てたものらしい。→「皆神山#富士浅間神社」