皆神山

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
Jump to navigation Jump to search
松代PAから見た皆神山。中央に山容全体が見える山が皆神山。一番手前右から中央にかけて見えるのは母袋山の尾根。一番奥に見える山脈は菅平高原。平成24年(2012年)10月撮影。

皆神山(みなかみやま)は、長野市松代にある山。霊界物語においては地教山[1]と呼ばれる重要な山。

一般的情報

  • 標高659m(山麓の標高は北西部370m前後、東部440m前後なので高低差は200~300m)。山全体が溶岩で出来ておりドーム状をしている。
  • 太古に作られたピラミッドだという説がある。また第二次大戦末期に大本営を作るため地下壕が多数掘られた。
  • 山頂には出速雄命を祭る皆神神社(熊野出速雄神社)がある。
  • 皆神神社境内の説明書によると(写真参照)、皆神山のかつての呼び名は「群神山」あるいは「水上山」で、慶長年間(1596~1615年)から「皆神山」と呼ばれるようになった。

王仁三郎関係

  • 皆神山は世界の山脈十字形をなせる地であり、世界の中心地点である。[2]
  • 王仁三郎が明治31年の高熊山修行の際、一番最初に連れて行かれたのが富士山(天教山)と皆神山(地教山)であった。[3]
  • 王仁三郎は昭和4年(1929年)6月3日、皆神山に登山して言霊を奏上している。[4]
  • 皆神山は素盞嗚尊が初めて素焼きを作られた場所であり、これが陶器の作り始まりである。[5]
  • 皆神山には天照大神の墓があるらしい。しかし具体的にどこにあるのかは不明。[6]
  • 第二次大戦末期の大本営移転(首都移転)は、王仁三郎の経綸によるもの。[7]
  • 皆神山は数十万年前の噴火によって出来た噴火口の跡にある。噴火口に出来た湖水の上に浮き出ていたので「水上山」と呼ばれるようになった。[8]
  • 霊界物語には「皆神山」という言葉は出て来ない。
  • 昭和31年(1956年)9月、皆神神社境内に大本関係者によって木花咲耶姫神社(富士浅間神社)が建立された。
  • 昭和46年(1971年)春、皆神神社境内に王仁三郎の歌碑が建立された。「地質学上世界の中心山脈の十字形せる珍の神山」「天霊の聖地に些しも違はざる尊き神山皆神の山」の二首が刻まれている。
  • 平成16年(2004年)9月26日、皆神神社境内に三代教主・出口直日の歌碑が建立された。「みすゝかるしなのゝくにの神山にともらつとひて世をいのらなむ」この歌は昭和29年(1954年)9月26日に皆神山山頂で執行された平和祈願祭に際して詠んだ歌である。

ギャラリー

写真は全て平成24年(2012年)10月に撮影。

脚注

  1. ただしヒマラヤ山も地教山と呼ばれる。
  2. 月鏡「信濃国皆神山」#:「信濃の国松代町の郊外にある皆神山は尊い神山であつて、地質学上世界の山脈十字形をなせる地であり、世界の中心地点である」
  3. 月鏡「信濃国皆神山」#:「私は明治三十一年高熊山にて修行中、神懸りになつて、一番につれて来られたのが天教山の富士山と、この皆神山とである」、月鏡「模型を歩む」#
  4. 月鏡「言霊奏上について」#:「大正八年以来、度々言霊奏上と云ふ事を皆でやつたことがあるが、あれは練習であつて、此度皆神山で奏上したのが、真の生言霊の発射であつた」
  5. 月鏡「二代祖神」#:「歌は「出雲八重垣」に始まり、陶器は皆神山の八甕(やつがめ)に初まつたのは人皆の知つて居る通りである」、玉鏡「八十平甕」#:「俗にカワラケ又はオヒラと云ふ八十平甕(やそひらか)は、素盞嗚尊様が信州の皆神山の土によつて創製されたものである」
  6. 新月の光0632「大石凝先生との初対面」:「皆神山には天照大神の御墓もあり、戸隠山も何もあって、古事記とは違っている」
  7. 新月の光0525「御避難所」:「陛下の御避難所は信州皆神山に用意出来ている。道路も立派に出来ているのである。王仁が経綸に行った」、新月の光0632「大石凝先生との初対面」:「大石凝先生には長沢先生の家の帰り道、汽車の中で会ったので、王仁の事を話したら不思議な事だと言って一度来いと言われて、先生と信州の皆神山へ行ったのである。そうして先生は皆神山に陛下がおいでになると言われたので、王仁は神様に綾部と聞いていると言ったら、一番は皆神山だと言われた」
  8. 月鏡「噴火口と蓮華台」#:「本宮山、亀岡、皆神山は共に噴火口の跡にあるので蓮華台をなして居るのである。(略)水の上に浮き出て居つたから、水上山の名称が起つたのである。」

関連項目

外部リンク