琉球
この項目では、現代の琉球(沖縄)について説明しています。霊界物語に登場する太古の琉球については「琉球の島」をご覧ください。
琉球(りゅうきゅう)は、沖縄の別名。
出口王仁三郎の著述においては、「琉球」と呼ばれる場合がほとんどで、「沖縄」と呼ばれることはほとんど無い。霊界物語には「沖縄」の語は全く出ない。
巡教
昭和2年(1927年)の12月から翌3年1月にかけて、王仁三郎は台湾・琉球・奄美大島を巡教した。12月9日に出発し、12月12日に基隆港から上陸。台湾を巡教して27日に基隆港から船に乗る。12月31日に那覇港に上陸。1月3日に船で出港。1月4日には奄美大島に着く。九州を経て、1月31日に帰亀。琉球に滞在していたのは12月31日から1月3日までの3泊4日であった。[1]
昭和7年(1932年)12月13日、出口日出麿は琉球巡教に旅立ち、奄美大島で昭和8年の新年を迎え、1月9日まで奄美大島や沖縄各島を巡教した。九州を経て1月19日に帰亀。[2]
琉球の国魂石
霊界物語に琉球の玉(琉の玉、球の玉の二つの玉)が登場するが、それに相応するような石を、波上宮で王仁三郎が見つけている。
昭和3年(1928年)1月の琉球巡教の時、王仁三郎は昭和2年12月31日に那覇港に上陸し、昭和3年の元日は沖縄支部で迎え、午前10時過ぎに、波上宮に正式参拝した[3]。
随行した山川日出子によると[4]、王仁三郎は両手に小石を乗せ、しきりに息吹をかけ、それを無言のまま山川に手渡したという[5]。
山川はそれの意味も尋ねずに、大切なものとして錦の袋に入れて持っていた。亀岡で奉仕していたが、第二次大本事件により夫の生家がある鳥取に帰る。警察に大本関係の物を押収されたが、王仁三郎から渡された二個の石はタンスの底に隠していたため警察に持って行かれずに済んだ。やがて山川は原因不明の病気にかかる。夫も困り果て、吉野の修験者にみてもらうと、「お宅の奥さんは二個の宝物を持っていられる。それを祭ればすぐ治る」と言われた。修験者は滝に打たれて「豊玉姫」と神名を告げ、「因縁によって祭ってくれ」ということなので、山川は二個の石をお宮に入れて祭った。すると病は治り元気になった。
昭和18年、鳥取で大地震が起きる[6]。王仁三郎から亀岡へ来るよう連絡が来たので、石を持って亀岡に帰る[7]。王仁三郎に修験者の話をすると、「それは神懸かりである。大本でも豊玉姫様はお祭りしてある。お祭りせよ」と言うので、あらためて祭りかえた。
王仁三郎の昇天後、ふと石のことが気になり、二代教主(出口澄子)に伺うと、即座に「琉球の国魂の大神ととなえて、沖縄をもっともっとご守護してくだされと祈れ」と言う。
当時の沖縄はまだ米軍の統治下にあったが、昭和46年(1971年)8月、琉球主会長(崎山)が亀岡の山川宅を訪ねた際に、国魂神様がお帰りになる時期ではないかとふと思い、宇知麿に相談し、二人で三代教主(出口直日)に伺ったところ、すぐに許しが出た。8月4日に三代教主から琉球主会長に石が渡されたが、主会長宅の神床の準備の都合で、翌47年3月8日まで山川宅で預かっていた。その年の5月15日、沖縄は日本に復帰したが、それに先立つ2ヵ月前の3月10日、琉球主会(現在は波之上主会)において、出口直美・出口栄二により鎮座祭が行われた[8]。
王仁三郎のノートを調べたところ、昭和3年元日に「斎垣(いみがき)の小石貰ひて琉球の国魂神と永久(とは)に斎かむ」[9]と歌を詠んでいたことが判った。二代教主はこの歌を知らなかったが、琉球の国魂神だということが一致していた。
【主要参考文献】
その他
- 台湾と琉球に関して、第51巻第16章「暗闘」#に(徳公のセリフ)「しまひには、只一つよりない大椀(台湾)まで逃出すかも知れぬぞ。何程琉球そに言うても、骨のない蒟蒻腰では駄目だ」ということが書いてある。
関連項目
外部リンク
- 琉球 - ウィキペディア
- 沖縄県 - ウィキペディア
- 波上宮 - ウィキペディア
- 波の上神社とその附近の写真:坂口総一郎著兼発行『沖縄写真帖 第壱輯』大正14年(1925年)
- 沖縄返還 - ウィキペディア
脚注
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「暁天の機運#」
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「日出麿師の宣教と教化#」
- ↑ 岩田久太郎「聖師様琉球大島御旅行記」、『真如能光』昭和3年1月15日号収録、p134:「午前十時過人車を列ねて波上宮に参拝す。(略)元旦に正式参拝をされしも偶然に非ざるべし」
- ↑ 山川日出子「琉球国魂神の霊石」
- ↑ 岩田「聖師様琉球大島御旅行記」にも「(聖師様は)社内の小石を戴いて帰らる」と記されている。
- ↑ 1000名以上の死者を出した昭和18年9月10日の鳥取地震。『新月の光』によると、このとき王仁三郎は〈大本農園の有悲閣の二階の窓から鳥取方面に向かって鎮魂を一生懸命された〉〔『新月の光』0583「鳥取の震災を鎮魂」〕。
- ↑ 出口和明によると、〈この地震で、鳥取で手広く玩具の問屋と小売り、また軍に納入する石鹸の製造をしていた山川石太郎(明治三七年出生)の家と蔵は全壊した。 おりから(略)国魂石(豊玉姫大神)の月次祭の最中だった。妻日出子は、柱の間から、壊れた神床と飛び出たお宮が目前にあるのを見て、手をさしのべ、宮の中の二ヶの国魂石をつかんでふところに入れた。(略) 王仁三郎は「すぐ亀岡へ戸籍ごと移ってこい」と言う。商売に未練を残す石太郎だったが、三人の男を連れて後始末に駆けつけた伊佐男の強い勧めで、ついに亀岡へ。 「良かった、良かった。震災がなかったら、亀岡へはよう来んかったやろ」と王仁三郎。〉〔『神の国』平成13年(2001年)11月号、出口和明「落胤問題を実証する(七)」、36~37頁〕
- ↑ 「琉球国魂の大神ご鎮座40年 祈りと沖縄の旅」『愛善世界』平成24年(2012年)5月号、p65
- ↑ 歌日記、『真如能光』昭和3年1月15日号収録、p76