土井靖都

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土井靖都(どい やすくに、1883~1964年)は、大本の幹部。霊界物語の筆録者。筆名・土井大靖(どい ひろやす)[1]

略歴

  • 明治16年(1883年)広島県芦品郡河佐村(現・府中市の一部)で生まれる。[2]
  • 明治42年(1909年)7月、鹿児島の第七高等学校造士館 大学予科(独法文科)を卒業。[3]
  • 大正5年(1916年)5月、東京帝国大学法科大学 法律学科(独逸法兼修)卒業。[4] [5]
  • (大正6~7年頃は東京市役所の事務員をしていたようだが定かでない)[6]
  • 大正8年(1919年)3月、司法官試補に任じられる。東京地裁・同検事局で事務修習。[7]
  • 大正8年(1919年)10月から翌年2月まで、東京区裁判所検事代理。[8] [9]
  • 大正8年に初参綾(月日不明)。[10]
  • 大正9年(1920年)3月、司法官試補を依願退職。[11]
  • 大正9年(1920年)7月7日から亀岡に移住し、本部奉仕。[10]
  • 大正10年(1921年)8月、京都で弁護士登録。[12]
  • 大正11年(1922年)、東大病院で看護婦長をしていた清江と結婚。[10]
  • 昭和10年(1935年)12月8日、第二次大本事件勃発。土井は東京の紫雲郷別院で検挙される。[13]
  • 昭和14年(1939年)夏に出所。亀岡の内丸町に住む。[10]
  • 昭和39年(1964年)1月9日帰幽、享年81歳。[10]
  • 出口和明によると土井の性格は〈潔癖症で、謹厳実直そのもの〉。[10]
  • 出口和明は小学生時代、土井夫人(土井清江)に懐いて、毎日のように内丸町の土井宅へ通っていた。〈私を育ててくれたのは、土井夫人の清江さんだった〉と述べている。[10]

主な著述

脚注

  1. 名前の読み方は『大本関東教区七十年史』p117による
  2. 大本広島本苑七十年誌』60頁:〈広島の信徒で異色なのは、広島県芦品郡河佐村で明治一六年に生まれた土井靖都氏である。東京帝国大学法学部を卒業したあと、台湾南州検察検事、また東京地方裁判所につとめていたが、大正八年、大本に入信し、翌大正九年七月に亀岡へうつり、そのまま、亀岡で大本の奉仕生活にはいる。〉:「台湾南州」というのは存在しないので「台南州」の誤りか?
  3. 官報 明治42年(1909年)7月7日、11頁、最上段、NDLDL蔵書 PID:2951159/1/6
  4. 官報 大正5年(1916年)7月12日、285頁、最下段、NDLDL蔵書 PID:2953294/1/3
  5. 『東京帝国大学一覧 従大正5年 至大正6年]』107頁、NDLDL蔵書 PID:940167/1/319
  6. 『職員録 大正6年乙』48頁、上段、NDLDL蔵書 PID:12301798/1/49/『職員録 大正7年』701頁、下段、NDLDL蔵書 PID:12306417/1/379
  7. 官報 大正8年(1919年)3月4日、3頁、最下段、NDLDL蔵書 PID:2954087/1/2
  8. 官報 大正8年(1919年)10月2日、38頁、最上段、NDLDL蔵書 PID:2954262/1/4
  9. 官報 大正9年(1920年)2月3日、4頁、最下段、NDLDL蔵書 PID:2954361/1/3
  10. 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 10.5 10.6 神の国 (愛善苑)』平成10年(1998年)4月号「切紙神示はどこから」22~23頁、出口和明の発言
  11. 官報 大正9年(1920年)3月15日、338頁、中段、NDLDL蔵書 PID:2954395/1/3
  12. 官報 大正10年(1921年)8月23日、9頁、上段、NDLDL蔵書 PID:2954834/1/5
  13. 東京朝日新聞 昭和10年12月8日号外#