「本宮山の三基の石碑」の版間の差分
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三基のうち向かって右側の'''教碑'''は、大正9年(1920年)6月に仙台の千代分所から献納された6.75トン(1800貫)の仙台石で造られている。王仁三郎によって大書された[[大本教旨]]「神者萬物普遍の霊にして人波天地経綸能大司宰也 神人合一志天茲に無限乃権力を発揮⦿ 王仁誌」が刻まれ、五六七殿の東側に伏せて置かれていた。大正12年(1923年)12月9日、本宮山の山頂に引き上げられたが、建てることはせず、文字面を伏せてそのまま置かれた。 | 三基のうち向かって右側の'''教碑'''は、大正9年(1920年)6月に仙台の千代分所から献納された6.75トン(1800貫)の仙台石で造られている。王仁三郎によって大書された[[大本教旨]]「神者萬物普遍の霊にして人波天地経綸能大司宰也 神人合一志天茲に無限乃権力を発揮⦿ 王仁誌」が刻まれ、五六七殿の東側に伏せて置かれていた。大正12年(1923年)12月9日、本宮山の山頂に引き上げられたが、建てることはせず、文字面を伏せてそのまま置かれた。 | ||
− | 中央の'''神声碑'''(しんせいひ)と左側の'''歌碑'''は5.625トン(1500貫)の仙台石に、昭和6年(1931年)8月8日から彫り始め、9月1日に彫り終わり、本宮山に引き上げられた。神声碑は上の方に「うぶこえ」と横書きされ、下に「三せんせかいいちどにひら九うめのはな もとのかみよにたてかえたてなをすぞよ すみせんざんにこしをかけうしとらのこんじんまもるぞよ めいじ二十五ねんしようがついつか で九ちなお」と刻まれ、歌碑には「盛なりしみやゐのあとのつる山にやまほととぎす昼よるを啼く」「よしやみは蒙古のあらのに朽るともやまと男の子の品は落さじ」という二首の和歌が刻まれた。歌碑の一番目の歌は入蒙の時にパインタラで詠んだ辞世の歌である。神声碑は「開碑(かいひ)」とも呼ばれた<ref>『[[神の国]] | + | 中央の'''神声碑'''(しんせいひ)と左側の'''歌碑'''は5.625トン(1500貫)の仙台石に、昭和6年(1931年)8月8日から彫り始め、9月1日に彫り終わり、本宮山に引き上げられた。神声碑は上の方に「うぶこえ」と横書きされ、下に「三せんせかいいちどにひら九うめのはな もとのかみよにたてかえたてなをすぞよ すみせんざんにこしをかけうしとらのこんじんまもるぞよ めいじ二十五ねんしようがついつか で九ちなお」と刻まれ、歌碑には「盛なりしみやゐのあとのつる山にやまほととぎす昼よるを啼く」「よしやみは蒙古のあらのに朽るともやまと男の子の品は落さじ」という二首の和歌が刻まれた。歌碑の一番目の歌は入蒙の時にパインタラで詠んだ辞世の歌である。神声碑は「開碑(かいひ)」とも呼ばれた<ref>『[[神の国]]』昭和6年(1931年)10月号「聖都消息」94頁「中央は神声碑又は開碑と唱へ」。ただしここには日付が「九月九日」と記されている。</ref>。 |
同年9月8日、三基の石碑は建立された。この時、王仁三郎は「これから十日後に大きな事件が起き、それが世界的に発展する」と発言した。その言葉通り、9月18日に[[満州事変]]が勃発し、戦争へと発展して行った。 | 同年9月8日、三基の石碑は建立された。この時、王仁三郎は「これから十日後に大きな事件が起き、それが世界的に発展する」と発言した。その言葉通り、9月18日に[[満州事変]]が勃発し、戦争へと発展して行った。 |
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本宮山の三基の石碑(ほんぐうやまの さんきの せきひ)とは、昭和6年(1931年)9月8日に本宮山山頂に建立された「神声碑」「教碑」「歌碑(鶴山歌碑)」の三基の石碑のことである[1]。現在は「神声碑」と「教碑」の二基だけ再建されている。
概要
昭和9年(1934年)に発行された『大本写真大観』では次のように説明されている。
昭和六年九月八日本宮山神殿破壊跡に建立さる。
中央を神声碑と称し、開祖の初発の大宣言を刻み、向つて右を教碑と称し、皇道大本教旨を表し、左は歌碑と称し、出口聖師の短歌二首を記す。神声碑の文字は筆先そのままの文字を拡大したるものにして、教碑歌碑の文字は出口聖師の筆なり。
教碑
神者万物普遍の霊にして人は天地経綸の大司宰也神人合一して茲に無限の権力を発揮⦿
神声碑 うぶこえ
三ぜんせかい いちどにひら九 うめのはな もとのかみよに たてかえたてなをすぞよ すみせんざんにこしをかけ うしとらのこんじんまもるぞよ
歌碑[2]
盛なりしみやゐのあとのつる山にやまほとときす昼よるを啼く
よしやみは蒙古のあらのに朽るともやまと男の子の品は落さじ
神声碑
三せんせかいいちどにひら九
うめのはな もとのかみよに
たてかえ たてなをすぞよ
すみせんざんに こしをかけ
うしとらのこんじんまもるぞよ
めいじ二十五ねんしようがついつか で九ちなお
教碑
歌碑
略史
三基のうち向かって右側の教碑は、大正9年(1920年)6月に仙台の千代分所から献納された6.75トン(1800貫)の仙台石で造られている。王仁三郎によって大書された大本教旨「神者萬物普遍の霊にして人波天地経綸能大司宰也 神人合一志天茲に無限乃権力を発揮⦿ 王仁誌」が刻まれ、五六七殿の東側に伏せて置かれていた。大正12年(1923年)12月9日、本宮山の山頂に引き上げられたが、建てることはせず、文字面を伏せてそのまま置かれた。
中央の神声碑(しんせいひ)と左側の歌碑は5.625トン(1500貫)の仙台石に、昭和6年(1931年)8月8日から彫り始め、9月1日に彫り終わり、本宮山に引き上げられた。神声碑は上の方に「うぶこえ」と横書きされ、下に「三せんせかいいちどにひら九うめのはな もとのかみよにたてかえたてなをすぞよ すみせんざんにこしをかけうしとらのこんじんまもるぞよ めいじ二十五ねんしようがついつか で九ちなお」と刻まれ、歌碑には「盛なりしみやゐのあとのつる山にやまほととぎす昼よるを啼く」「よしやみは蒙古のあらのに朽るともやまと男の子の品は落さじ」という二首の和歌が刻まれた。歌碑の一番目の歌は入蒙の時にパインタラで詠んだ辞世の歌である。神声碑は「開碑(かいひ)」とも呼ばれた[3]。
同年9月8日、三基の石碑は建立された。この時、王仁三郎は「これから十日後に大きな事件が起き、それが世界的に発展する」と発言した。その言葉通り、9月18日に満州事変が勃発し、戦争へと発展して行った。
本宮山にこの石碑が建ったなら、いよいよ神が表に出るということは、かねてから神が予言していたことであり、神界経綸が実現する時期が到来したことを象徴する出来事であった。
第二次大本事件で三基の石碑は破壊された。
昭和27年(1952年)2月4日(節分大祭)に、神声碑と教碑が再建された。