「第一次大本事件」の版間の差分
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* 出口王仁三郎は[[不敬罪]]で懲役5年の判決を受けた。これは思想犯罪としては極刑である<ref>刑法第73~76条(昭和22年に削除)の規定では、天皇・皇族の身体に危害を加えた場合は死刑または無期懲役となるが、それ以外の不敬行為については懲役5年が最高刑である。[https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%88%91%E6%B3%95_(%E5%85%AC%E5%B8%83%E6%99%82)#s2-1 刑法 (公布時)] - ウィキソース</ref>。だが、大審院で審理中に大正天皇の崩御に伴う[[大赦令]]によって免訴となり法的に無罪となった。 | * 出口王仁三郎は[[不敬罪]]で懲役5年の判決を受けた。これは思想犯罪としては極刑である<ref>刑法第73~76条(昭和22年に削除)の規定では、天皇・皇族の身体に危害を加えた場合は死刑または無期懲役となるが、それ以外の不敬行為については懲役5年が最高刑である。[https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%88%91%E6%B3%95_(%E5%85%AC%E5%B8%83%E6%99%82)#s2-1 刑法 (公布時)] - ウィキソース</ref>。だが、大審院で審理中に大正天皇の崩御に伴う[[大赦令]]によって免訴となり法的に無罪となった。 | ||
* [[第二次大本事件]]では当局により大本の活動は一切禁止された。しかし第一次大本事件では検挙後も大本の活動は進展している。マスコミ対策も異なり、第二次では当局は検挙直後から新聞に大々的な報道をさせて大本のイメージダウンを謀ったが、第一次では検挙直後は報道をさせず3ヶ月後の予審決定時から新聞報道を解禁した。 | * [[第二次大本事件]]では当局により大本の活動は一切禁止された。しかし第一次大本事件では検挙後も大本の活動は進展している。マスコミ対策も異なり、第二次では当局は検挙直後から新聞に大々的な報道をさせて大本のイメージダウンを謀ったが、第一次では検挙直後は報道をさせず3ヶ月後の予審決定時から新聞報道を解禁した。 | ||
* それまで田舎の小さな教団に過ぎなかった大本が新聞報道によってその存在が一気に全国に知られ、見物人や参拝者が増加した<ref>新聞報道が解禁されたのは大正10年5月10日だが、「大本年表」の5月23日の項には〈昨今、大本見物人二、三〇〇〇人を算す〉と記されている。</ref>。大本の勢力を削ごうという当局の思惑とは異なり、弾圧によって大本の知名度は上がり、ますます勢力が拡大するきっかけになった。 | * それまで田舎の小さな教団に過ぎなかった大本が新聞報道によってその存在が一気に全国に知られ、見物人や参拝者が増加した<ref>新聞報道が解禁されたのは大正10年5月10日だが、「大本年表」の5月23日の項には〈昨今、大本見物人二、三〇〇〇人を算す〉と記されている。</ref>。大本の勢力を削ごうという当局の思惑とは異なり、弾圧によって大本の知名度は上がり、ますます勢力が拡大するきっかけになった。<ref>王仁三郎は検挙の際に「大本はいじればいじるほど大きくなる」と猥談交じりで言い放ったという〔『[[巨人出口王仁三郎]]』天声社版、320頁〕。また王仁三郎は昭和19年に「(大本は)叩かるれば叩かれる程大きくなる」とも語っている〔『[[新月の光]]』0943「大本は近衛さんの反対」〕。</ref> | ||
* 弾圧後、[[大本神諭]]を独自に解釈する一部の幹部が大本を離教した。それにより王仁三郎が教団の主導権を握ることが出来るようになった。また王仁三郎は大本神諭に代わる新たな教典として[[霊界物語]]の著述を開始した。この事件は大本教団にとっての「[[立替え立直し]]」となった。 | * 弾圧後、[[大本神諭]]を独自に解釈する一部の幹部が大本を離教した。それにより王仁三郎が教団の主導権を握ることが出来るようになった。また王仁三郎は大本神諭に代わる新たな教典として[[霊界物語]]の著述を開始した。この事件は大本教団にとっての「[[立替え立直し]]」となった。 | ||