「大石凝真素美」の版間の差分

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次の略歴は主に「[[大石凝真素美先生伝]]」<ref>「大石凝真素美先生伝」は大正14年(1925年)に[[水野満年]]によって発行された[[大石凝真素美]]・著『[[真訓古事記]]』の巻末に収録されている(戦後発行された『[[大石凝真素美全集]]』の第三巻に収録)。著者は不明だが、[[大宮司朗]]「大石凝真素美全集解題」(『大石凝真素美全集 解説編』収録)では、[[水野満年]]または国華教育社の同人の手によるものと推測している。大正10年(1921年)11月に発行された[[宇佐美武吉]]『[[言霊学に映じたる神道]]』の巻末に収録されている「大石礙真素美翁伝」も、「大石凝真素美先生伝」とほぼ同じ内容だが、「~翁伝」の方が文が短い。</ref>(「伝」と略す)をもとにして作成した。他に[[水谷清]]『[[古事記大講]] 第六巻(天津金木学綱要)』p5-8も参考にした(「大講」と略す)。年齢は基本的に数え年である。
次の略歴は主に「[[大石凝真素美先生伝]]」<ref>「大石凝真素美先生伝」は大正14年(1925年)に[[水野満年]]によって発行された[[大石凝真素美]]・著『[[真訓古事記]]』の巻末に収録されている(戦後発行された『[[大石凝真素美全集]]』の第三巻に収録)。著者は不明だが、[[大宮司朗]]「大石凝真素美全集解題」(『大石凝真素美全集 解説編』収録)では、[[水野満年]]または国華教育社の同人の手によるものと推測している。大正10年(1921年)11月に発行された[[宇佐美武吉]]『[[言霊学に映じたる神道]]』の巻末に収録されている「大石礙真素美翁伝」も、「大石凝真素美先生伝」とほぼ同じ内容だが、「~翁伝」の方が文が短い。</ref>(「伝」と略す)をもとにして作成した。他に[[水谷清]]『[[古事記大講]] 第六巻(天津金木学綱要)』p5-8も参考にした(「大講」と略す)。年齢は基本的に数え年である。


* 天保3年(1832年)11月<ref>天保3年11月はグレゴリオ暦だと1832年11月22日~12月21日。</ref>、伊賀国上野に生まれる。幼名は望月春雄。父は望月登で医業。母は川村文。祖父の幸智は[[中村孝道]]に仕えて言霊学を究めた。(「大講」では、若い頃の名は「平岩大助」)<ref>大宮司朗「「天津金木」秘占秘儀」(学研ムー1994年8月号)では、大石凝真素美に改名する前は「望月大輔」だとしている。</ref>
* 天保3年(1832年)11月<ref>天保3年11月はグレゴリオ暦だと1832年11月22日~12月21日。</ref>、伊賀国上野に生まれる。幼名は望月春雄。父は望月登で医業。母は川村文。祖父の幸智は[[中村孝道]]に仕えて言霊学を究めた。
** 「大講」では、大石凝の若い頃の名は「平岩大助」で、伊勢国鈴鹿郡神辺村字木下で生まれたとしている。
** 大宮司朗「「天津金木」秘占秘儀」(学研ムー1994年8月号)では、大石凝真素美に改名する前の名は「望月大輔」だとしている。
* 遠祖は日臣斎主命。大伴氏の後裔。世々天朝に仕えて来たが、大友皇子の乱(壬申の乱)に殉じ、以来隠者となり、望月を姓として伊賀・近江等に転住して来たという。
* 遠祖は日臣斎主命。大伴氏の後裔。世々天朝に仕えて来たが、大友皇子の乱(壬申の乱)に殉じ、以来隠者となり、望月を姓として伊賀・近江等に転住して来たという。
* 望月春雄は元服して、大輔広矛と改名する。父や伯父、叔父に医を学ぶ。しかし医で生涯を終えるつもりはなかった。足代弘訓(あじろ ひろのり)<ref>足代弘訓は、国学者。伊勢国山田に生まれる。父は伊勢神宮権禰宜。{{kb|足代弘訓}} {{wp|足代弘訓}}</ref>の門に入り国学を学ぶ。
* 望月春雄は元服して、大輔広矛と改名する。父や伯父、叔父に医を学ぶ。しかし医で生涯を終えるつもりはなかった。足代弘訓(あじろ ひろのり)<ref>足代弘訓は、国学者。伊勢国山田に生まれる。父は伊勢神宮権禰宜。{{kb|足代弘訓}} {{wp|足代弘訓}}</ref>の門に入り国学を学ぶ。