「本宮山」の版間の差分
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=== 本宮山神殿 === | === 本宮山神殿 === | ||
山頂に神殿を建てるため、大正9年4月16日、地鎮祭を執行。建設が進むが、翌10年2月12日、[[第一次大本事件]]が勃発する。しかしその後も建設が続けられ、7月27日、神示により本宮山神殿に[[御三体の大神]]の遷座祭(仮鎮座祭)が執行される(斎主は三代[[直日]])。その後、当局から本宮山神殿の取り毀しを命じられ、10月20日から破壊工事が始められた。 →詳細は「[[本宮山神殿]] | 山頂に神殿を建てるため、大正9年4月16日、地鎮祭を執行。建設が進むが、翌10年2月12日、[[第一次大本事件]]が勃発する。しかしその後も建設が続けられ、7月27日、神示により本宮山神殿に[[御三体の大神]]の遷座祭(仮鎮座祭)が執行される(斎主は三代[[直日]])。その後、当局から本宮山神殿の取り毀しを命じられ、10月20日から破壊工事が始められた。 →詳細は「[[本宮山神殿]]」 | ||
=== 三基の石碑 === | === 三基の石碑 === | ||
昭和6年(1931年)9月8日、本宮山の山頂に三基の碑石が建立されそれぞれ「[[神声碑]]」「[[教碑]]」「歌碑([[鶴山歌碑]])」と命名された。このうち教碑([[教旨]]が刻まれた石碑)だけはすでに大正12年(1923年)12月9日に本宮山に引き上げられ、文字面を伏せて置かれていた。 →詳細は「[[本宮山の三基の石碑]] | 昭和6年(1931年)9月8日、本宮山の山頂に三基の碑石が建立されそれぞれ「[[神声碑]]」「[[教碑]]」「歌碑([[鶴山歌碑]])」と命名された。このうち教碑([[教旨]]が刻まれた石碑)だけはすでに大正12年(1923年)12月9日に本宮山に引き上げられ、文字面を伏せて置かれていた。 →詳細は「[[本宮山の三基の石碑]]」 | ||
=== 長生殿 === | === 長生殿 === | ||
昭和3年(1928年)11月13日、長生殿(ちょうせいでん)の地鎮祭が執行される。昭和6年8月22日には基礎工事が完成し、10年10月27日に斧始式が執り行われたが、完成せずに[[第二次大本事件]]を迎えた。 →詳細は「[[長生殿]] | 昭和3年(1928年)11月13日、長生殿(ちょうせいでん)の地鎮祭が執行される。昭和6年8月22日には基礎工事が完成し、10年10月27日に斧始式が執り行われたが、完成せずに[[第二次大本事件]]を迎えた。 →詳細は「[[長生殿]]」 | ||
=== 穹天閣 === | === 穹天閣 === | ||
昭和4年(1929年)4月14日、穹天閣(きゅうてんかく)の地鎮祭が執行され、翌5年4月1日に完成した。この穹天閣は大本事件の際に破壊された本宮山神殿の材料を用いて建てられたもので、綾部における王仁三郎と二代教主の居館となった。 →詳細は「[[穹天閣]] | 昭和4年(1929年)4月14日、穹天閣(きゅうてんかく)の地鎮祭が執行され、翌5年4月1日に完成した。この穹天閣は大本事件の際に破壊された本宮山神殿の材料を用いて建てられたもので、綾部における王仁三郎と二代教主の居館となった。 →詳細は「[[穹天閣]]」 | ||
=== 月山富士 === | === 月山富士 === | ||
大戦後の昭和21年(1946年)、破壊された[[長生殿]]の基礎の上に、[[穹天閣]]などの破壊された礎石の石片などを寄せ集め、それに土を被せて「月山富士」が築かれた。 →詳細は「[[月山富士]] | 大戦後の昭和21年(1946年)、破壊された[[長生殿]]の基礎の上に、[[穹天閣]]などの破壊された礎石の石片などを寄せ集め、それに土を被せて「月山富士」が築かれた。 →詳細は「[[月山富士]]」 | ||
=== 神声碑と教碑の再建 === | === 神声碑と教碑の再建 === | ||
昭和27年(1952年)2月4日、[[神声碑]]と[[教碑]]が再建された。 →詳細は「[[本宮山の三基の石碑]] | 昭和27年(1952年)2月4日、[[神声碑]]と[[教碑]]が再建された。 →詳細は「[[本宮山の三基の石碑]]」 | ||
=== 二代教主歌碑建立 === | === 二代教主歌碑建立 === | ||