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ここに出て来た四つの山、すなわち、 | ここに出て来た四つの山、すなわち、 |
2024年5月11日 (土) 05:28時点における最新版
穴太(あなお)は、京都府南桑田郡穴太村(現・亀岡市曽我部町穴太)のこと。出口王仁三郎の出生地。
亀岡と穴太
現在は「亀岡市曽我部町穴太」で亀岡の一部だが、王仁三郎が幼少期を過ごした時代は「南桑田郡穴太村」だった。そのため霊界物語等の王仁三郎の著書では「亀岡」と「穴太」は別々の地域として扱われている。【例】「丹波の亀岡に程近き、曽我部村の大字穴太は瑞月王仁が生地である」[1]
- 明治22年(1889年)4月、王仁三郎が数え19歳の時に、穴太村と近隣の村が合併して曽我部村(そがべむら)となる。
- 昭和30年(1955年)1月、亀岡町と曽我部村など近隣の村が合併して亀岡市となる。
地名の由来
穴太の地名の由来は「穴穂」であるとして、王仁三郎は次のように語っている。
(略)雄略天皇の二十二年[2]戊午の年、天皇の御夢により豊受大神様が伊勢の山田にお遷りになるとき[3]、途中上田家の庭内即ち宮垣の里がその御旅所に選まれ、上田家の一族(聖師の祖先)は喜び勇んで鄭重に斎きかしづきしが、そのとき御神霊に御供へせし荒稲の種子が、欅(けやき)の老木の腐つた穴へ落ちこぼれ、それから苗が出たのを日夜に育てた所ずんずんと伸び、その稲に美(うる)はしき瑞穂を結びたれば、時の里庄が正しく神の大御心と仰ぎ奉つて、所在の良田に蒔きつけ、千本と云ふ名をつけて四方へ植ゑ拡めたのが穴穂の里の名の起つた始まりである。
最初は穴穂(あなほ)と書いたのが後に穴生(あなふ)となり、穴尾(あなを)となり、更に今の穴太(あなを)となつたので西国二十一番[4]の札所、菩提山穴太寺の院主は代々今に至るまで、穴穂の姓を名のつて居る[5]のであるが、その穴太の瑞泉苑より種子の頒(わか)たれると云ふことは有意義なことである。また言霊学上の観点から、「穴太の里は穴穂の里と書いた、アは言霊学上、天を意味し、ナは天位にある人、ホは秀、霊の意であつて、あな霊(ほ)の里の意味である」〔月鏡「音頭と言霊」#〕と述べている。
霊界物語での穴太
四つの山
王仁三郎は霊界物語の中で次のような歌を記している。
- 第17巻総説歌#:「西に半国聳え立ち 東に愛宕の峰高く 南遥に妙見の 山雲表に屹立し 帝釈山は北方に コバルト色を染め出し 若芽に萌ゆる山屏風 中の穴太に牛飼ひし」
- 第37巻第2章「葱節」#:「西は半国東は愛宕 南妙見北帝釈の 山の屏風を引きまはし 中の穴太で牛を飼ふ」[6]
ここに出て来た四つの山、すなわち、
の位置は図のようになる。(図参照)
亀岡盆地(標高100~110mくらい)は四囲を小高い山々に囲まれており、この四つの山が他の山と較べてズバ抜けて高いわけではない。穴太からランドマークのように四つの山が目立って見えるわけでない。修験道の寺院や著名な神社があるような霊山としてこの四つの山を選んだのではないかと思われる。
その他
- 「米の味は穴太産が全国一である。灘酒の原料は穴太米である」〔玉鏡「米の意味」#〕
- 「音頭となると穴太が一番であつて、本当の声が出るのは此地方に限る。八木より鳥羽を越すと、本当の音が出ない、嵐山一帯の山脈を向ふに越すともう駄目である」〔月鏡「浄瑠璃」#〕
- 王仁三郎は霊界物語の中で、武烈天皇の継嗣を「穴太の皇子」と呼んでいる。[7]
穴太にある社寺・自然等
- 小幡神社:穴太の産土神社。開化天皇を祀る。
- 神明社(郷神社):豊受大神の遷宮の際に上田家の庭内が御旅所となり稲が広まったのを記念して上田家の先祖が建立した。神明社の裏の竹藪のあたりに穴太精乳館が、道(府道407号)を隔てたところ(小幡神社の北側)に喜楽亭があった。[8] [9] [10]
- 穴太寺:この境内にあった偕行小学校に王仁三郎は通った。
- 金剛寺:絵師の円山応挙(上田家の先祖)が9歳の時、この寺に入門した。
- 高熊山:王仁三郎が霊的修行をした霊山。
- 喜楽亭:神明社の前の広場にあった王仁三郎の居宅。
- 瑞泉苑:王仁三郎の生家跡(宗教法人大本が管理)
脚注
- ↑ 第37巻第2章#
- ↑ 西暦478年
- ↑ 伊勢神宮の外宮が、丹後半島の比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町)から伊勢の地に遷宮されたこと。
- ↑ 西国三十三所のこと
- ↑ 現在の住職は穴穂行弘氏
- ↑ 穴太の神聖歌碑にも似たような歌が刻まれている。
- ↑ 第1巻第1章「霊山修業」#:「武烈天皇が継嗣を定めむとなしたまうたときに、穴太の皇子はこの山中に隠れたまひ、高倉山に一生を送らせたまうたといふ古老の伝説が遺つてをる霊山である」
- ↑ 『神の国』平成4年(1992年)1月号p30の2段目:「郷神社裏の竹薮あたりが精乳館跡、道を隔てて右斜めが上田家の本屋敷を購入した○○宅、左斜めが喜楽亭跡(現○○宅)という事」(個人名は伏せた)
- ↑ 十和田龍『出口王仁三郎 1』p271
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「入山の動機#」