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[[ファイル:辻天水家の家紋.png|thumb|辻家の家紋。]]
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〔この略歴は[[豊島泰国]]「"人類不滅"の大予言 龍宮神示と天言鏡」<ref>『[[ムー]]』平成8年(1996年)2月号掲載</ref>を主な資料として作成した〕
〔この略歴は[[豊島泰国]]「"人類不滅"の大予言 龍宮神示と天言鏡」<ref>『[[ムー]]』平成8年(1996年)2月号掲載</ref>を主な資料として作成した。それ以外の資料は脚注に記した。〕


* 明治24年(1891年)6月21日、三重県三重郡菰野村(昭和3年に菰野町となる)で、地主の家に生まれる。父・正憲(まさのり)、母・たね夫婦の長男。
* 明治24年(1891年)6月21日、三重県三重郡菰野村(昭和3年に菰野町となる)で、地主の家に生まれる。父・正憲(まさのり)、母・たね夫婦の長男。
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* 昭和9年(1934年)1月、娘の多鶴子(たづこ)が病死。妻のゆきは実家に帰った(昭和20年5月に逝去)。<ref name="nakaya_p199">中矢『大本裏神業の真相』p.199</ref>
* 昭和9年(1934年)1月、娘の多鶴子(たづこ)が病死。妻のゆきは実家に帰った(昭和20年5月に逝去)。<ref name="nakaya_p199">中矢『大本裏神業の真相』p.199</ref>
* 同年(月日不明)日出麿が再び辻家を訪れた。<ref name="nakaya_p199" />
* 同年(月日不明)日出麿が再び辻家を訪れた。<ref name="nakaya_p199" />
* 昭和10年(1935年)<ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』p.213, p.326によると昭和10年だが、中矢『大本裏神業の真相』p.199では昭和9年になっている。昭和10年2月7日は穴太で神聖神社の鎮座祭が大吹雪の中、執行されている。</ref>2月7日、[[三雲龍三]](1914~1945年)の家で辻が辻家伝来の刀を用いて<ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』p.327では「この刀はイセ出身の辻氏が持ち寄ったものです。但し、イセの刀ならば誰の物でもよかったのです」と書かれており、辻家伝来の剣ということは軽視されている。</ref>剣の祭典が行われた。その後その刀は辻によって王仁三郎に献上される。王仁三郎は刀の辻家の家紋を見て驚き、この刀を「神聖丸」と命名し、[[昭和神聖会]]の守り刀となった。<ref name="nakaya_p199" /> <ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』pp.326-327</ref> (三雲龍三は昭和9年6月に大本入信<ref>『三雲龍三神示と神一厘の仕組』p.207によると、大本総務だった[[松並高義]](山口県出身。昭和4年入信)と三雲の姉・慰子《やすこ》が昭和9年2月に結婚(再婚)した。それにより三雲家の兄弟たちも大本に入信せざるを得なくなり、同年6月に次男・益次郎と三男・龍三が入信し、その後間もなく長男・賢一郎も入信した。</ref>。滋賀県大津市の自宅に帰ってから神がかりとなり神示が降りるようになる。三雲に降りた神示の大部分は昭和18年から19年に出されたものである<ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』p.343, p.346</ref>)
* 昭和10年(1935年)<ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』p.213, p.326によると昭和10年だが、中矢『大本裏神業の真相』p.199では昭和9年になっている。昭和10年2月7日は穴太で[[神聖神社]]の鎮座祭が大吹雪の中、執行されている。</ref>2月7日、[[三雲龍三]](1914~1945年)の家で辻が辻家伝来の刀を用いて<ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』p.327では「この刀はイセ出身の辻氏が持ち寄ったものです。但し、イセの刀ならば誰の物でもよかったのです」と書かれており、辻家伝来の剣ということは軽視されている。</ref>剣の祭典が行われた。その後その刀は辻によって王仁三郎に献上される。王仁三郎は刀の辻家の家紋を見て驚き、この刀を「神聖丸」と命名し、[[昭和神聖会]]の守り刀となった。<ref name="nakaya_p199" /> <ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』pp.326-327</ref> (三雲龍三は昭和9年6月に大本入信<ref>『三雲龍三神示と神一厘の仕組』p.207によると、大本総務だった[[松並高義]](山口県出身。昭和4年入信)と三雲の姉・慰子《やすこ》が昭和9年2月に結婚(再婚)した。それにより三雲家の兄弟たちも大本に入信せざるを得なくなり、同年6月に次男・益次郎と三男・龍三が入信し、その後間もなく長男・賢一郎も入信した。</ref>。滋賀県大津市の自宅に帰ってから神がかりとなり神示が降りるようになる。三雲に降りた神示の大部分は昭和18年から19年に出されたものである<ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』p.343, p.346</ref>)
* 昭和10年のある日(年月不明)、辻は大本の奉仕者として、神号を認めたり、辞令を浄書する仕事に従事していた。そこへ王仁三郎が立ち寄った。辻は宣伝使を拝命したいと申し出たが、王仁三郎に「それはあかん」「ここにおれ。お前には重要な使命がある」と言われた。数日後、再び王仁三郎が辻の仕事場やって来た。辻は紙に「大本皇大神」と神号を書くところを、どうしたわけか「大」と「本」の字間を大きく離して書いてしまった。すると王仁三郎は筆をとり、「大」と「本」の間に「日」の字を書き入れ「大日本皇大神」とした。王仁三郎は辻にその書をやると言い「いずれ大事な時に使うことになる」「一厘の仕組をあんたにやってもらう」「わしが捕まったら神業の続きをする者がおらん。そやからわしの代わりに裏の神業をやってくれ」と辻に言った。<ref>豊国「龍宮神示と天言鏡」pp.41-42</ref>
* 昭和10年のある日(年月不明)、辻は大本の奉仕者として、神号を認めたり、辞令を浄書する仕事に従事していた。そこへ王仁三郎が立ち寄った。辻は宣伝使を拝命したいと申し出たが、王仁三郎に「それはあかん」「ここにおれ。お前には重要な使命がある」と言われた。数日後、再び王仁三郎が辻の仕事場やって来た。辻は紙に「大本皇大神」と神号を書くところを、どうしたわけか「大」と「本」の字間を大きく離して書いてしまった。すると王仁三郎は筆をとり、「大」と「本」の間に「日」の字を書き入れ「大日本皇大神」とした。王仁三郎は辻にその書をやると言い「いずれ大事な時に使うことになる」「一厘の仕組をあんたにやってもらう」「わしが捕まったら神業の続きをする者がおらん。そやからわしの代わりに裏の神業をやってくれ」と辻に言った。<ref>豊国「龍宮神示と天言鏡」pp.41-42</ref>
* 第二次大本事件以降もしばらくは亀岡を離れず、学校の教員をしながら大本の動向を見守っていた。
* 第二次大本事件以降もしばらくは亀岡を離れず、学校の教員をしながら大本の動向を見守っていた。
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* 昭和22年(1947年)5月13日、大本信徒で八雲琴の名手である[[生源寺勇琴]](しょうげんじ ゆうきん)が[[錦之宮]]を訪れた。生源寺が八雲琴を奏しようとしたら、触れていないのに八雲琴が自然に鳴り出した。その音が鳴り止むと王仁三郎の霊姿が現れ(この時はまだ存命中)、それが消えると白く輝く文字が現れた。これが「[[天言鏡]]」と呼ぶ神示の始まりである。
* 昭和22年(1947年)5月13日、大本信徒で八雲琴の名手である[[生源寺勇琴]](しょうげんじ ゆうきん)が[[錦之宮]]を訪れた。生源寺が八雲琴を奏しようとしたら、触れていないのに八雲琴が自然に鳴り出した。その音が鳴り止むと王仁三郎の霊姿が現れ(この時はまだ存命中)、それが消えると白く輝く文字が現れた。これが「[[天言鏡]]」と呼ぶ神示の始まりである。
* 同年に辻自身が降ろした神示は「[[神言書]]」と呼ぶ。
* 同年に辻自身が降ろした神示は「[[神言書]]」と呼ぶ。
* 後に[[武智時三郎]](1884~1960年)と、[[岡本天明]](1897~1963年)を菰野に招き、両人とも菰野に移住した。岡本天明は錦之宮の近くに[[至恩郷]]を開いた。(武智が移住したのは昭和21年乃至23年<ref>[[岡本三典]]『[[日月神示はなぜ岡本天明に降りたか]]』p.88によると武智が菰野に移住したのは昭和21年12月8日。『[[言霊の道・先覚者略伝集]]』p.228によると昭和22年。不二「知られざる大本裏神業」p.31によると昭和23年。</ref>)(武智は後に至恩郷を造る荒れ地を開墾していたが、昭和29年9月、病気で倒れ、その後継者として岡本天明が選ばれた。岡本天明は武智の招きで昭和30年8月21日、菰野へ移住した<ref>岡本三典『日月神示はなぜ~』pp.88-92</ref>)
* 後に[[武智時三郎]](1884~1960年)と、[[岡本天明]](1897~1963年)を菰野に招き、両人とも菰野に移住した。岡本天明は錦之宮の近くに[[至恩郷]]を開いた。(武智が移住したのは昭和21年乃至23年<ref>[[岡本三典]]『[[日月神示はなぜ岡本天明に降りたか]]』p.88によると武智が菰野に移住したのは昭和21年12月8日。中矢『大本裏神業の真相』p.176でも同じく昭和21年12月8日。『[[言霊の道・先覚者略伝集]]』p.228によると昭和22年。不二「知られざる大本裏神業」p.31によると昭和23年。</ref>)(武智は後に至恩郷を造る荒れ地を開墾していたが、昭和29年9月、病気で倒れ、その後継者として岡本天明が選ばれた。岡本天明は武智の招きで昭和30年8月21日、菰野へ移住した<ref>岡本三典『日月神示はなぜ~』pp.88-92</ref>)
* 昭和27年(1952年)4月、[[泉田瑞顕]](1913~1990年)が辻たちと合流する。泉田は[[三保山]]の山頂に「言霊閣」<ref>名称は綾部に王仁三郎が建造した「[[言霊閣]]」(後に黄金閣に改称)を流用したと思われる。</ref>を造り、同年6月11日から11月8日まで連日、七十五声の言霊を奏上した。<ref>不二「知られざる大本裏神業」pp.32-33</ref>
* 昭和27年(1952年)4月、[[泉田瑞顕]](1913~1990年)が辻たちと合流する。泉田は[[三保山]]の山頂に「言霊閣」<ref>名称は綾部に王仁三郎が建造した「[[言霊閣]]」(後に黄金閣に改称)を流用したと思われる。</ref>を造り、同年6月11日から11月8日まで連日、七十五声の言霊を奏上した。<ref>不二「知られざる大本裏神業」pp.32-33</ref>
* 昭和31年(1956年)6月10日、辻は王仁三郎から下付された「大国常立大神」の御神体を天明居、武智居のある土地に鎮祭する。この時、武智は聖書の「シオン」という地名を取り、この地を「シオンの郷」と命名した。これが「[[至恩郷]]」の発祥である。この祭典に[[小笠原登美子]]が参列していた。登美子は神示により登美古と名乗るようになる。<ref>中矢『大本裏神業の真相』p.210</ref>
* 昭和31年(1956年)6月10日、辻は王仁三郎から下付された「大国常立大神」の御神体を天明居、武智居のある土地に鎮祭する。この時、武智は聖書の「シオン」という地名を取り、この地を「シオンの郷」と命名した。これが「[[至恩郷]]」の発祥である。この祭典に[[小笠原登美子]]が参列していた。登美子は神示により登美古と名乗るようになる。<ref>中矢『大本裏神業の真相』p.210</ref>
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* [[大本裏神業]]:
* [[大本裏神業]]:
* [[竜宮神示]]:
* [[竜宮神示]]:
** 神業奉仕会 編『[[龍宮神示 (継承の道の出版物)]]』平成6年(1994年)
** [[三雲益次郎]] 監修『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』平成10年(1998年)
* [[辻恵子]]:旧姓・井出。辻正道の帰幽後、90年代末に辻家の養女となる。林宏明と結婚。<ref>秋山真人「天言鏡に予言された錦之宮の復活」p.72、『ムー』平成12年(2000年)1月号</ref>
* [[辻恵子]]:旧姓・井出。辻正道の帰幽後、90年代末に辻家の養女となる。林宏明と結婚。<ref>秋山真人「天言鏡に予言された錦之宮の復活」p.72、『ムー』平成12年(2000年)1月号</ref>
* [[錦の宮]]:霊界物語で、自転倒島における三五教の経綸の中心地。
* [[錦の宮]]:霊界物語で、自転倒島における三五教の経綸の中心地。