「亀岡」の版間の差分
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+ | * 太古の神代の物語としては、亀岡という地名は登場しない。 | ||
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2019年2月20日 (水) 20:45時点における版
亀岡(かめおか)は、出口王仁三郎の出身地。大本の二大聖地の一つ「天恩郷」がある。
歴史
現在は京都府亀岡市だが、当時は京都府南桑田郡亀岡町だった。
- 明治22年(1889年)4月、町村制が施行され、亀岡町が誕生。
- 明治31年(1898年)2月、高熊山修業。
- 大正8年(1919年)11月、王仁三郎は亀山城址を購入。その後神苑(天恩郷)として整備。
- 昭和30年(1955年)1月、隣村と合併し、亀岡市となる。
- 昭和30年(1955年)6月、日本で二番目に、世界連邦都市宣言を行う。(一番目は綾部市)
- 昭和34年(1959年)9月、篠村が亀岡市に編入され、南桑田郡は消滅。
穴太と亀岡
王仁三郎の生地は穴太村である。明治22年に合併により曽我部村穴太になり、昭和30年に亀岡町と合併して亀岡市曽我部町穴太となる。そのため「亀岡は王仁三郎の出身地」という認識は昭和30年以降のことである。
晩年の居住地
王仁三郎は明治32年(1899年)に穴太から綾部に移住してからは、綾部に住み、綾部を活動の拠点としていたが、大正10年(1921年)の大本事件以後、活動の中心を亀岡に移すことにし、大正14年(1925年)の節分大祭を機に天恩郷の造営を開始。亀岡に居を移し、自ら造営の陣頭指揮を取った[1]。
昭和10年(1935年)第二次大本事件で検挙・投獄された王仁三郎は、昭和17年(1942年)8月7日、責付出獄し亀岡に帰り、中矢田農園内の家を居宅とした。それ以降、昭和23年(1948年)1月19日に昇天するまで亀岡で過ごす。
地理
亀岡は周囲を山に囲まれた亀岡盆地にある。中心部を大井川(桂川)が流れている。
古代
- 「太古は亀岡地方はおおきな湖水となっていたようで、亀山城のあたりはその丘陵地であった。口碑のつたえるところでは、大国主命が保津川を掘り、流水の便をはかったという。また一説には、丹波とは「赤い波」の意で「あかなみ」=丹波といったともいう」〔『大本七十年史 上巻』「亀岡大道場#」〕
- 古代は丹波国桑田郡たったが、明治12年(1879年)に南桑田郡と北桑田郡に分離する。
- 亀岡市内には丹波国分寺や、丹波国一宮の出雲大神宮があり、10世紀には丹波国の国府が桑田郡にあったと考えられている。
- もともとは「亀山」と呼んでおり、江戸時代は亀山藩が置かれていた。明治2年(1869年)三重県の亀山と混同するため「亀岡」藩と改称。明治4年(1871年)7月14日[2]、廃藩置県により亀岡県となり、同年11月22日に近隣の県と統廃合し京都府となる。
亀山城と天恩郷
明智光秀(1528~1582年)が天正6年(1578年)から「亀山城」を築城。明治22年(1889年)に払い下げられ、大正8年(1919年)に王仁三郎が購入し、神苑「天恩郷」を造営した。