「山水荘 (旧)」の版間の差分
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昭和30年(1955年)4月15日、山水荘の建物は[[梅松苑]]内の[[要荘]]の北側に移築され「[[掬水荘]]」と命名され、綾部における教主の住居とされた。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c8241|造営}}」</ref> | 昭和30年(1955年)4月15日、山水荘の建物は[[梅松苑]]内の[[要荘]]の北側に移築され「[[掬水荘]]」と命名され、綾部における教主の住居とされた。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c8241|造営}}」</ref> | ||
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+ | == 山水荘は素盞嗚尊の本陣 == | ||
+ | 『[[新月の光]]』によると、昭和20年、[[冠島]]の[[老人島神社]]の御神体である千石舟の模型が村人から山水荘に納められた時、王仁三郎は次のように語っている。「ここ(山水荘の土地)は[[素盞嗚尊]]がおいでになった時に一服されたところである。本陣になったところである。この家(山水荘)は誰が入っても続かなかったのは、どうしても電燈がつかなかったからや。それで王仁の手に入ったのや。王仁の手に這入るまで神様が待って下さったのや。ここは時期が来たらお宮を建てんならんところや」(この千石舟の模型は終戦後に老人島神社に奉納された)<ref>『新月の光』1120「山水荘は素盞嗚尊の本陣」</ref> | ||
== 脚注 == | == 脚注 == |
2018年11月14日 (水) 04:27時点における最新版
この項目では、昔の山水荘について説明しています。現代の山水荘については「山水荘 (新)」をご覧ください。
山水荘(さんすいそう)は、大本の建物で、綾部市寺町植松にあった。
昭和17年(1942年)8月7日に保釈された王仁三郎夫妻は、亀岡の中矢田農園内に住んでいたが、綾部町の有力者たちが綾部に居住して欲しいと願い出て、居宅の斡旋に奔走した。その結果、植松にある永井所有の土地と二階建ての家屋を、昭和20年(1945年)3月15日に買収した。[1]
この建物は(当初は臨川荘と呼ばれていた?)昭和20年12月8日に「山水荘」と命名された。[2]
王仁三郎は昭和23年(1948年)1月19日に昇天したが、葬儀のため1月29日深夜から霊柩車が亀岡から徒歩で綾部の彰徳殿にに運ばれる途中、30日午後3時30分頃、山水荘前に到着し、霊璽が神前に安置され、20分後に再び彰徳殿に向かった。[3]
昭和30年(1955年)4月15日、山水荘の建物は梅松苑内の要荘の北側に移築され「掬水荘」と命名され、綾部における教主の住居とされた。[4]
出口直美・栄二夫妻は昭和20年4月16日、亀岡の熊野館で結婚式を挙げたが[5] [6]、二人は結婚後間もなく王仁三郎の指示で山水荘に住むことになった。昭和29年からは梅松苑内の要荘に移り住んだ。[7]
山水荘は素盞嗚尊の本陣
『新月の光』によると、昭和20年、冠島の老人島神社の御神体である千石舟の模型が村人から山水荘に納められた時、王仁三郎は次のように語っている。「ここ(山水荘の土地)は素盞嗚尊がおいでになった時に一服されたところである。本陣になったところである。この家(山水荘)は誰が入っても続かなかったのは、どうしても電燈がつかなかったからや。それで王仁の手に入ったのや。王仁の手に這入るまで神様が待って下さったのや。ここは時期が来たらお宮を建てんならんところや」(この千石舟の模型は終戦後に老人島神社に奉納された)[8]